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涙って女の武器なのね、やっぱり

掲載日:2026/08/11

 話がある、と夫に呼ばれた。

 実に一か月ぶりの会話だった。いいえ、会話とも呼べないわね。だって使用人づてで言付けられただけのただの文字の羅列だったもの。

 それでも、伯爵家の妻として、きちんと相手の言い分を聞き、私は指定された応接室へと向かう。夫婦の会話なのに、応接室なんておかしなこと、と一瞬思ったけれど着いてすぐにその理由が分かってしまった。


「遅い! こちらを待たせて何のつもりだ!」

「……連絡が来たのが、つい先ほどのことでしたので。大変申し訳ございません」


 軽く礼をしながら、上目遣いで彼を見る。そこには私の夫、リオ・ゾディアックがいた。わが夫ながら少しウェーブがかった金髪と、垂れ目がちな甘いマスクの、整った顔立ちをした男性だった。まあ一か月、見ていなかったけれども。


「それで、旦那様。どうしてライラがこちらに?」


 私は、彼の隣に座る女性に目をやる。そこに座っているのは、彼のブロンドと揃いのようなふわふわのウェーブを靡かせた、義妹だった。

 いつものことながら、大きなブルーの瞳にぷるぷるの唇にちっちゃな顔に豊満な胸に、男性の庇護欲を酷くひどくそそりそうな見た目をしていた。

 彼女はきっとかわいく、か弱く、守りたくなるような女性なのだろう。ただ私は彼女の醜聞をなんとかもみ消したことを思い出して、とてもそんな気になれないだけで。

 げんなりしている私に気づいたのか、旦那様は更に嫌そうな顔をこちらに向ける。


「ライラがいて困ることが、なにかあるのか? 君の妹だろう」

「はぁ」


 血の繋がっていない、父が連れてきた後妻の連れ子ですけどね。彼女に伯爵家の血は一滴も入っていない。それでも目の前の夫、リオは大事なものでも守るかのように彼女の肩をそっと抱いた。


「常日頃から思っていた。お前は、可愛げがなさすぎる」

「そうですか」

「妹のライラと比べてどうだ! 不愛想だし顔立ちがキツすぎるし、女のくせに領地のことや予算に口を出してうるさいったらない!」

「……」


 口を出す、というか私がメインで領地を取り仕切っているのですが。この夫には何一つ伝わっていないのでしょう。

 第一あなたは領地のことなど一つでもしたことがあったでしょうか? 私がメインになって領地経営をし、たまに詐欺話を持ってきては私に一蹴されるだけでは?


「だから、お前とは離縁する」


 とうとう、旦那様はそう仰いました。

 いつか、いつか来るかもしれないと思っていました。そういったお話が巷で流行っていることも知っておりました。心の準備は、できていたつもりでした。


 旦那様は相変わらず愛しくてたまらないといったように義妹の肩を抱き、とろけそうな視線を彼女に投げかけました。そして言ったのです。


「ライラの腹には、俺の子がいる」


 え。

 さすがにそこまでは、予想していませんでした。

 旦那様とライラが随分親密らしいとは分かっていたのですが、いかんせんこちらは若輩者の女領主。日々やることの多さについつい旦那様のことは二の次に……そうしている間に、ええと、なんと?


「子を産めないお前じゃなく、ライラが伯爵家を継ぎ、俺と結婚して伯爵家を盛り立てる――どうだ? 完璧だろう?」


 フンスと鼻を鳴らしながら、旦那様は相変わらず、ライラの肩を抱いております。ライラの腹はまだ薄くありましたが、彼女はそんな場所を宝物をさするように撫でておりました。

 そしてその目にはなにより、私に「勝った」と言っていました。

 勝ち誇った女の顔、とでもいうのでしょうか。私の全てを見下し、全否定するような瞳で彼女はこちらを見ていました。それは旦那様も同じです。まるで私など、同じヒトではないかのように見下していました。


 ひゅう、と喉が鳴りました。



(それはまあ、それでは離縁いたしましょう)


――そう言って、淡々と手続きをしなくては。



(旦那様の有責でございますね。ご実家の方に賠償金を請求致します)


――いつものように冷静に、こちらの得を考えなくては。



(ライラ、あなたは何をしたかわかっているの?)


――姉として、きちんと妹を諭さなくては。



 全て、全てわかっていたはずでした。

 それなのに旦那様がライラを愛おしくてたまらないと見つめて、ライラがそうっとお腹を撫でる様子を見て私は――ほろり、と泣いたのです。



 頭の中に浮かぶは、これまでの日々。

 女伯爵としてこの領地を生かすために、血を吐くような、命を削るような思いをして勉強したこと。

 誰も、領地の誰一人も飢えや貧困で死なないように、血眼になってギリギリに追い詰められたように働く日々。

 上手くやれて当たり前、誰も褒めてくれない。よくやって当然、誰も見てくれない。実感がない、自分の身に浴びるものがない、そんな、そんな毎日。


 愛してくれるはずの、せめて、共感してくれるはずの夫はそんなこともひとつもなく。

 ただひとりきりで、一生懸命頑張って。

 頑張って頑張って頑張って頑張って、そして、頑張った結果がこれなのですか?


 夫を愛していたわけではないです。初夜を行う前に「お前を愛するつもりはない」と言い放った人ですもの。

 愛されたかったわけでも、ないはずなのです。でも、それなのにこの裏切りが酷くひどく、辛い。


「  」


 声が出ません。

 言うべきことが何一つ出ません。気づけばひゅう、と息を吸うのも上手くできなくなっていました。ぽろぽろ、ぽろぽろと涙だけがこぼれていきます。酸欠で暗くなり始めた視界、揺らぐ体をこらえきれず、とうとう立つこともできませんでした。誰かが私の体を抱き留めてくれます。でもそんなことも認識できないくらい、わたしはぱたり、と気を失ってしまいました。


 ええ、自分でもびっくりです。

 浮気されて、浮気相手に子どもが出来た程度のことで――我を、失ってしまうなんて。



***


 アリエスに、離婚しようと言った。

 いつも酷く冷淡で、淡々としていて、感情なんざ全く見せない女だ。きっとそんな言葉にも簡単に「わかりました」と頷くはずだろうと思っていた。


 それなのに、あいつは泣いた。


 驚いた。そりゃあそうだろう、あの機械仕掛ような表情のまま、ほろり、と泣いたのだ。

 正直少し、いい、と思ってしまった。あいつは顔だけは美しいのだ。その美しい顔の、深い深いブルーグリーンの瞳からぽろり、と零れる涙はまるで宝石のようだった。ほろり、ほろり、と泣いてその後顔色が真珠のように真っ白になって――倒れた。使用人の一人が慌てて抱き留めてそのままどこぞへ連れて行ってしまった。こちらの話は宙ぶらりんだ。色々と文句を言ったが、適当にいなされて、そしてライラもいたことだし引くことにしてしまった。


 ああくそ、それが駄目だったんだ。あの時無理やりにでもアリエスの側にいるんだった。そうすればきっと、こんな未来は来なかったはずだ。


「は?」


 俺は執事が告げた言葉に目を丸くした。おい今、この馬鹿は何と言った?


「ですから、旦那様にはもう予算はおりません」

「はぁ?」


 俺は伯爵家の当主だぞ! 何言ってんだこいつ!!


「当主は、直接の血の繋がりのあるアリエス様です。旦那様は入り婿の立場。ご存じでしょう?」

「だ、だが、俺はライラと結婚する! ライラは伯爵家の……」

「ライラ様には伯爵家の血は入っておりません」

「は?」

「それもきちんと奥様……お嬢様がお話なさっておりましたが、本当に何も、聞いておられなかったのですね」


 なぜだか執事は、悲しそうな眼をした。

 でもそれは俺に対しての憐憫ではない。アリエスの、かわいそうなアリエスへ向けた気持ちだった。


「で、でもっ、俺はまだアリエスと婚姻関係にある! それならば予算は……」

「お嬢様が貴方に関することを目にすると、過呼吸を起こされて何もできなくなるのです」


 執事は、きっぱりと言った。

 俺は嘘だと思った。そうすれば、彼は彼女の様子を見せてくれた。


 あぁアリエス! 俺が別の女に少し気をやっただけで、泣いた健気な女は、少し瘦せたようだった。顔色も白い。そんなにも俺のことを好きだったかとうんうんと頷きながら盗み見をしていれば、急に彼女の様子がおかしくなった。


「あ、は、ぁっ――はっ、はっ、はっ、はあっ!」


 喉を抑えながら天を仰ぐ。慌てて側にいたメイドが紙袋を持ち彼女の口に持って行った。もう立つこともできず、床に座り込みながら必死に涙をぼろぼろ零しながら彼女は息をすることだけに必死になっている。


「奥様、無理です。もうあの男関連の書類は見ないでくださいませ」


 少し経って落ち着いた後、メイドが眉をしかめながらそう言った。おい、あの男とは俺のことか?

 それでも、アリエスは首を横に振って言った。


「でも……まだ離縁していないし、きちんと、対応しなく、て、は」

「無理です。名前を見ただけでそんな風に過呼吸を起こして……」

「……本当に、弱くて、嫌になるわね」

「いいえ、奥様……お嬢様は、よくやっておいでです」


 きゅう、とメイドは彼女の細い体を抱き締める。そうだ、痩せた。ひとまわりほど痩せた。痩せてぼろぼろのはずなのに、それなのに、苦しみながら泣く女はひどく美しかった。

 音が消えて色が消えるくらい、彼女の苦し気な様子が伝わってきた。必死で細い糸に縋って立つような強さも。

 雷に打たれたようだった。俺は、こんなに美しい女を今まで放っていたのか?

 よく見れば落ち着いたブラウンの長いまっすぐな髪の毛も、ひどくひどく白い顔色も、切れ長の緑の目もそれを縁取る長いまつ毛も――全て、美しかった。


 ライラも確かにかわいらしい。

 でも目の前のこのアリエスは、いつまで経っても色褪せないような、そんな美しさを持っていた。


 何より、俺の不貞を知ってこんな風になるまで、俺を愛してくれる女など他にいるだろうか? そう思えば一気に彼女が愛おしくなった。駆け出して抱き締めて「離縁などしない」と叫ぼうと思った途端、後頭部に激痛が走った。


「貴方に出来ることはもう、お嬢様の目の前から消えて頂く事だけです」


 そんな、静かな男の声だけが、聞こえていた。


***


「アリエス!」


 驚いてしまった。

 目の前に、もう二度と会わないと思っていた人がいたからだ。


「ええと……リオ、様?」


 名前を呼べば彼はぱぁっと顔を明るくさせた。

 けれども、もう、何というか、別人のような顔つきだわ。

 少しぽちゃっと……いいえ、かなり太ってしまっているし、吹き出物もすごいし、綺麗なブロンドはくすんでいるし着ているものさえぼろぼろだもの。

 その様子から、彼はもう貴族ではないのだろうなと分かった。――まあそれは、私もなのだけれど。


「どうされたのですか? こんな平民のパン屋などにいらっしゃって」


 それでも、まだ彼は貴族なのかもしれないからと、一応の礼儀をとって私はそう聞く。私のその言葉を優しいと思ったのか、彼はまだ顔をにちゃにちゃとほころばせながら私に言葉をかけてきた。


「戻ろう、アリエス! やっと見つけた、君さえいれば僕は貴族に戻れる!」

「?」

「君も平民になって、こんなところで働いて、辛いだろう!? 俺が不貞をしてあんなに泣いた君のことだ、今俺とヨリを戻せると知ったら嬉しいに決まってるだろう!?」


 完全に目がイッちゃってます。

 どうしましょう、と私はちょっと困りました。一応客商売なので……うーんと悩んでいると、ぬっ、と私の後ろから彼が現れました。


「困ります」

「はぁ!? 何言ってんだこの平民風情が!!」

「彼女は、オレの妻です」


 静かに、淡々と。

 でもはっきりと彼は言ってくれました。

 薄く薄く、日に溶けてしまいそうなプラチナブロンド。でもそんな色が似合わないくらい、パン屋にしておくのももったいないくらいの筋肉質な体。毎日おいしいパンを焼いてくれる私の大好きな旦那様が、私を守るように私の前に立ってくれています。


「レグルス……」

「彼女はもう、伯爵籍を自分の叔父に譲り、自身は平民へとなっています」

「そ、それが、ありえないだろうっ!」


 お前のせいで、と彼は叫んでいるようでした。

 ええ、そうですね。でも仕方ない。私はあの後、とうとう領地の仕事ができなくなってしまいました。彼に関することを見ては過呼吸を起こし、生活することさえままならなかった。だから使用人に相談した。頼りになる人全てに話した。その結果、伯爵領を叔父に譲り、私自身は禍根を残さぬよう、平民となることを選んだのです。


 もちろんその前に、旦那様とは離縁済みです。彼は元々子爵家の三男坊。帰る家はありませんでした。ライラも平民だったので、おそらく、二人揃って平民に落ちたのでしょう。でももう、生きていくのも難しいほど体調を崩していた私には、考えの外だったの。


「いいえ、有り得なくは、ないの」


 私は静かに言った。

 ここで、それらの全てを伝えることはできるだろう。でも、したくなかった。

 だってこれは、私が、それでも生きたいと戦ってきた証。それでも死にたくないと足掻いてきた生き様。

 平民になっても、何もなくなっても、ただのアリエスとして生きたいと願ったわたしのこれまで。


 それを、この人に伝えてやる義理は、ない。



「私は今、平民として、レグルスの妻として、この町のパン屋として、誇りを持って生きているの。置いてきたものに未練はないわ。なにひとつね」



 騎士として、私をずっと支えてくれていたレグルス。あの日、不貞を伝えられた時に倒れた私を抱き留めてくれたのも彼だった。

 彼が私と平民になってまで一緒にいたいとは知らなかった。最初は遠慮しかなかった。申し訳なさしかなかった。それでも、ええ、愛し始めたのよ。



「さようなら」



 あの日、本当に言うべきだった言葉をようやく言えた。

 過呼吸になって、倒れてしまってごめんなさい? でもあの日、私、ようやく自分が弱いって知ることができたの。



***


 数年ぶりに会うアリエスは酷く、酷く、美しかった。

 

 あの時よりふっくらした頬、体。波打つようなブラウンの髪の毛と、きらきらとした瞳。手は少しだけ痛んでいて、そのことに自分の胸が痛むことに驚いた。

 それでも、ところどころの痛みなんて気にさせないくらい、彼女は綺麗だった。

 利発そうなグリーンブルーの深い瞳、年を取ったなんて何も追わせない潤った肌、ふくよかになったとは言えきゅっとしまった腰や、大きく膨らんだ胸と尻――

 そんな彼女がはつらつとして、楽しそうに笑っているのだ。恋に落ちない男が、いるはずない。


 その証拠にパン屋に行く男はみな彼女に目を奪われていた。憎らしくて悔しくてどろどろした気持ちが噴き出して、飛び出していた。ぶちまけた。元さやに戻ろうと、それだけを叫んでいた。


 だって、仕方ないだろう!


 入り婿に伯爵家の当主たる資格はないと追い出された! 実家はもう兄上が継いでいて、俺の有責で離縁されたと知って、虫けらを見るような目で更に追い出された! 『この家の敷居を跨いだらもう、命はないものと思え』? はぁ? 

 それでも、その目は、その命は事実だった。命からがら逃げだした。ライラ? あああのクソ女! そもそも妊娠も嘘だった! 最悪だ、最悪だ!!

 そんで俺があっという間に落ちぶれたと知れば、逃げてどこかへ行ってしまった! ああどこぞへの垂れ死んでいればいい!! ――実際、どこかの場末の娼館に、ライラと似通った見た目の女がいると聞いたが、そんなこともどうでもいい。

 ひとりになって、平民になって、それでも持っていた財産で食いつないできたがもう限界だ! その矢先に彼女の話を聞いた。アリエス。俺の妻、俺の、俺の本当の運命!

 パン屋の妻だとかそんな話は何も信じない。だって、彼女は俺の妻だ! 俺がもう一度愛を囁けば、絶対に、絶対に俺の元に戻るはずだ!!



 だって、おまえは、俺を愛しているから泣いたのだろう?




「私ね、新しい家族ができるの」


 それなのに、彼女が優しく、やわらかく腹を撫でた瞬間、ひゅう、と息が出来なくなった。

 その言葉から、この表情からもうわかってしまう。彼女は、幸せなのだと。


 そしてその幸せに俺は何一つ必要でないのだと知って、もう二度と、生きている内に息が深く吸えなくなったことだけ、わかった。

ゾディアック→星座


アリエス→おひつじ座

リオ→しし座


ライラ→こと座

レグルス→しし座のα星


十二星座に入っている名前が本物の貴族。

十二星座に入っていないライラは貴族ではない。

レグルスも貴族ではないけれど、星座ではなく、それだけで単体で存在する星の名前。


ただ一つ、あなただけの星であればそれでよかったのに。

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― 新着の感想 ―
鉄面皮の使い方間違ってますよ。
これ、今までの自分が踏みにじられたことことにプツンときちゃったんで旦那への愛情ではないといつ気付くことやら。 もしかしたら妹の増長振りから考えるとアリエスの父親も跡継ぎの長女には厳しく、連れ子にはペ…
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