《3》
実家に帰って一週間が経った。
「はるか、ずっと気になっとったんやけど、仕事は大丈夫なん?」
日曜の昼食時、母が切り出した。
さすがにずっと黙っている訳にはいかないとは分かっていた。
しかし、なかなか言い出せなかった。
「…………」
「何かあったんやろ? 急に長期休暇とるなんて」
「…………」
「はるか」
名を呼ばれ、私は箸を置いた。
そして、母の顔を見る。
「仕事、辞めてきた」
吐き出した途端、息が詰まりそうだった。
母は驚きに目を見開き、ため息を吐いた。
「あんたがやりたいことやったんやろ? 絵の仕事がしたいっていう夢はどうしたん」
自分には絵しかない。
勉強も得意ではなかったし、社交性がある訳でもない。
でも、絵なら自信を持てた。
認めてもらえた。私は、ずっと絵を描いているのだと思っていた。
それが、ペンを持つだけで震えて、幻聴が聞こえて、こんなに自分の心が弱いなんて思わなかった。
そのすべてを誰にも言えずに抱えていた。
耐えなければと思ってきた。
これが自分の選んだ道なのだから、と。
結局、私は逃げだした。
でも、逃げたことでも苦しんでいる。
この苦しみも、やるせなさも、胸の痛みも、もどかしさも、母に分かるものか。
「お母さんには分からんわ! 夢は叶え続けることの方がずっと苦しくて、大変なんや!」
私は立ち上がり、逃げるように自分の部屋へ閉じこもった。
夢の世界がキラキラしたものだけならばどれだけ良かっただろう。
楽しいだけの世界ならどれだけ良かっただろう。
膝を抱えて、私は小さくうずくまる。
私の頭の中は真っ黒だ。
何の色も浮かばない。
創作意欲が消えている。
今までずっと胸の内で燃えていたそれが消えた。
喪失感が大きく、不安ばかりが募る。
このままじゃいけない。
それは分かっている。
すぐに動ける人間なら、こんなに悩んではいなかった。
「……もう私には何もないのに」
ポロポロと零れ落ちる涙は、私の胸の痛みを少しだけ外に出してくれる気がした。
どれだけ一人で泣いていただろう。
コンコン、と扉がノックされる。
「はるか~っ?」
麻子の声だ。母が連絡したのかもしれない。
しかし、今は誰とも話す気分ではない。
まともに会話ができる自信がなかった。
「はるか! ドライブ行こうよ」
「嫌だ」
「拒否は許しませ~ん!」
そう言って、麻子は容赦なく扉を開けて入ってきた。
扉の鍵が壊れていることを、この幼馴染が知らないはずがないのだ。
「さ、行くよ」
半ば強引に麻子に連れ出される。
でも、ずっと部屋に閉じこもっていても暗くなるばかりだ。
心のどこかで麻子に感謝している自分がいた。
「どこ行くん?」
「着いたら分かるよ~」
「お母さんが連絡したん?」
「うん」
「なんかごめん。麻子にも今は生活があるのに」
「それは気にせんとって、ほんまに。結婚したからって大事な親友を蔑ろにするつもりはないよ」
「……麻子、ありがとう」
私には、何かあった時にすぐに駆け付けてくれる親友がいてくれる。
それだけで、重く沈んでいた思考が少しだけ軽くなった。
到着したのは、紫雲出山だった。
山頂の展望台デッキには、まばらに人がいる。
皆がカメラを構えて、紫雲出山から見える絶景をレンズに収めている。
「懐かしいなぁ」
麻子がにっこり笑いながら私の手を引く。
高校時代、二人で夢を誓い合ったベンチへと。
あの時と今では、私の心は全然違う。
「仕事、辞めたって?」
麻子の問いに、私はこくりと頷いた。
「別にいいんじゃない。人生一度きりなんだし、自分に合う場所で、やりたいことをやれば」
「もう、絵が描けない。描こうとしたら幻聴が聞こえて、苦しくて、ペンさえ持てなくなった……」
「はるか……よく耐えてきたね」
私の震える肩にそっと触れ、麻子は優しく抱きしめてくれた。
今まで自分の内側で押さえ続けていた感情が、堰を切ったように弾けてこぼれる。
「私の何が駄目やったん。ただ絵が描きたかっただけやのに。みんな私の絵を見ようともしない。負けたくなくて、必死に絵の練習をした。自分の持ち味を模索したし、誰かに好きだと言って欲しかった……でも下手で、実力もなくて……っ」
イラストの投稿サイトでも、良いコメントよりも悪いコメントの方が気になるようになった。
以前は、私の絵を好きだと言ってくれる人が一人でもいればいいと思っていたのに。
でも、たった一つの指摘、絵の評価に敏感になって、怖くなった。
仕事でも何でもなく趣味で書いているイラストなのに、仕事のようにストレスを感じるようになった。
いつ誰に私の絵が悪意で塗りつぶされるのか、という恐怖。
創作者にとって、自分が生み出したものは自分自身と同じ。
絵が酷評される度、見えないナイフで心臓を刺されているようだった。
血を流し、痛みに悲鳴を上げても、誰にも見えないし、聞こえない。
自分を守るために、肯定してあげるために、努力を重ねていく。
しかし、それすらもできなくなって、震える手はもう冷たくなって、出血多量で死にそうだった。
だから、終わらせた。
仕事も辞めて、イラスト投稿サイトも閉じて、描くことから逃げて。
逃げたなら、もう苦しむことはないと思っていた。
絵を描かなくても生きていける。夢がなくても生きていける。趣味がなくても生きていける。
それらは、人間が生きていく上で絶対に必要なものではないのだと。
「辛かったね、はるか。でも、ちゃんと守ったやん」
「……え?」
麻子の言葉に、私の思考が停止する。
「はるかは、大好きやった絵が嫌いになりたくなくて仕事辞めたんやろ。今は描けんかもしれんけど、これからは分からんやん。人生いつ何が起きるか分からんのやし」
私を慰める麻子の言葉には、感情がこもっていた。
「麻子は、どうやったん……?」
麻子は中小企業の事務員として就職した。
小説家は面接や試験などでなれる職業でも、就職という形でなれるものでもない。
だから、生活するためには就職をしなければならなかった。
社会人になれば、小説を書く時間も体力も削られていく。
その上、麻子は結婚した。
ますます小説を書く時間などないだろう。
しかし、麻子からは諦めたという言葉も、夢をつかんだという話も聞いていない。
私自身、自分のことに精一杯で、どことなく互いに夢の話は避けていた。
「私は、小説が書きたいけど、書く時間も読む時間も疲れてとれん。今は、書けないことがストレス。だってさ、書かな何も始まらんし、小説賞に出すこともできん」
私とは違う悩み。
でも、どこか共通する悩み。
はあぁ……と大きなため息を吐いて、麻子は立ち上がる。
夕暮れの瀬戸内海を見つめた後、麻子が振り返った。
「はるかはさ、この紫雲出山が浦島太郎伝説の残る場所って覚えとる?」
この紫雲出山に残る伝説よりも、私は麻子が創作した昼ドラ並の復讐劇がある浦島太郎の話を思い出す。
頷くと、麻子はにっと笑みを作る。
「浦島太郎の教訓って、善行は自分に返ってくるとか、言いつけを破るなとか、やるべきことからは逃げられないとか、色々あるみたいなんよね……」
麻子は何を言おうとしているのだろう。
私はただ黙って麻子の話を聞く。
「竜宮城を理想郷、浦島太郎が夢追い人だと考えてみる。まず、普通に過ごしていたら理想郷にはたどり着けない。浦島太郎が竜宮城へ行けたのは、亀を助けたから。浦島太郎は晴れて竜宮城に着いたけど、竜宮城は浦島太郎が暮らしてきた世界とは常識は違うし、心をときめかせた乙姫様はヒステリックな女かもしれない。竜宮城はブラックな会社で、魚たちはこき使われているのかも。こんなところだと思わなかった! って、浦島太郎が逃げ出そうとして、乙姫様に渡されるのは玉手箱」
久しぶりに聞く、麻子の創作例え話に、私は夢中になる。
「その玉手箱を開けたら、浦島太郎は現実の世界に戻る。夢を追うだけだった頃に。でも、もう理想郷の世界を知っているから、何も知らなかった頃には戻れない訳よ……私たちは今、玉手箱を開けてしまった浦島太郎と同じやと思うんよね」
「夢の世界を知って、現実に戻ってきた?」
「うん。それでも、夢を忘れられずに苦しんでるやろ?」
急に浦島太郎の話をされて何かと思ったが、麻子の言いたいことが分かってきた。
「私の場合は、はるかみたいにちゃんと夢を叶えた訳じゃない。小説賞では最終選考までしか進めてないし、正直、どうしたら賞とれるんかも、ほんまに夢を叶えられるんかも分からんから、竜宮城にすら行けてない亀を探してばかりの浦島太郎やけど……」
「いや、麻子は仕事しながらも小説書いてるし、絶対、亀見つけられるよ。でも、逃げ出した私の前にはもう亀は現れんかも……」
「忘れた? 鶴になった浦島太郎を亀の乙姫が迎えに来た話もあるって。それに、世界は広いし、竜宮城は一つじゃないかも。たまたま助けた亀に連れられた場所がブラック竜宮城ってだけで、次に助けた亀は幸せな竜宮城に運んでくれるかも!」
麻子が冗談めかして話す。
不思議と嫌ではなかった。
職場で何があったのか、自分自身のことを話すことはまだ苦しくてできそうにないが、例え話なら話しやすかった。
麻子の気遣いがうれしかった。
それに、真剣に夢を追っている二人だからこそ、互いの気持ちが痛いほどよく分かる。
「ねぇ、はるか。また一緒に二人で亀探そうよ」
もう一度、亀の――夢の手を取ることはできるのだろうか。
今の私では、手を伸ばすこともできずに、砂浜でいじめられる亀を見ることしかできないかもしれない。
逆に乙姫が竜宮城から怒鳴り込んで、うちの亀になんてことをしてくれたんだと責められるかもしれない。
なんてことを真剣に心の中で思いながら、くすり、と思わず笑っていた。
なんだろう、この平和な妄想は。
「何よ、亀探そうって……ふふっ」
「も~誰のためやと思っとん!」
「私だね」
「そうやで!」
二人で顔を見合わせて笑う。
久しぶりに心から笑った気がする。
「ほら、はるか。こっち来て」
手を引かれ、展望台デッキの最も見晴らしがいい場所に連れていかれる。
ふわっと風が吹いて、桜の花びらが舞う。
絵画の中に飛び込んだみたいだった。
あまりにも美しい光景に、私の視界は涙でにじむ。
「……ほんとに、きれい」
麻子と見る、この紫雲出山の景色が。
真っ黒だった私の頭の中が、たくさんの色で塗り替えられていく。
描きたい。この美しい景色を。
夢をみていたい。
ずっと、この人生がある限り。
誰に何を言われても、この人生を生きるのは私だけだ。
これは、私だけの物語なのだ。
「麻子、本当にありがとう……っ!」
私は麻子に抱き着いて大泣きした。
こんな風に私が泣き崩れることは初めてだったので麻子は戸惑っていたが、優しく背中をさすってくれた。
途中から、麻子も泣きだしてしまって、他の登山客に心配されてしまったけれど。
家に帰ると、心配そうな母が涙でぐちゃぐちゃの私を抱きしめた。
「あんたが誰よりも努力して、誰よりも絵が好きなんはちゃんと分かっとる。簡単に叶えた夢やなんて、家族誰も思ってないで」
「うん……」
「みんな、はるかの絵が好きなんや。お母さんずっと言うてたやろ。手に職って。あんたにはちゃんと絵を描く技術があるんやから、今の仕事を辞めても、どこでもやっていける」
「……お母さん!」
涙腺は崩壊していた。
赤子のように大泣きして母にすがる。
その様子を麻子に見られていることすら忘れるほどに、母の愛を求めていた。
そして、麻子が去り際に私の耳元で囁いた。
「ねぇ、はるか。また二人で同人誌出さない?」
笑みを浮かべた麻子の提案に、私はまだぐちゃぐちゃの泣き顔のまま、思い切り「うん!」と頷いた。
将来、どれだけの黒歴史になろうと、今ここで二人の夢を形にする。
もう一度、ここから始めるのだ。
ただ夢をみるだけの甘いものではない。
夢を叶えるための苦しさも、辛さも、すべて分かった上で、それでもなお、私たちは夢をみるのだ。
私が私の人生を肯定するために。
この真っ白なキャンバスに、色を重ねていくのだ。




