"姐さん“と呼ばせてください!
大友虎美の宣戦布告から一夜が明け、僕と鉄子は学校への道中にいた。
登校中の朝だというのに、昨日の晴れ模様は嘘かのように、空は雲で覆われて、少しばかり暗い。
しばらくしたら雨が降ってきそうな雰囲気だ。
あれから鉄子はそれまでよりトレーニングに励むようになり、僕もそれに付き合わされる羽目になっている。
だがそれでも鉄子は虎美に体育祭では勝てない。
鉄子の内なる闘志、勝利への渇望、度胸の覚悟、腕っぷし、運動のセンス、どれも虎美には引けを取っていない。一対一の単純な勝負なら、互角と言っていいところだろう。
しかし、事は体育祭。それが鉄子にとって何よりの障壁となる。
「...なぁ、鉄子。僕がどうにかして間を取り持つから、虎美との勝負はナシにしないか」
「何を言うとるんだす、兄貴?」
鉄子の眼光が鋭くこちらを刺す。どことなく、不機嫌そうな顔だ。
少し前の僕なら、ビビって言い淀みそうな気迫も感じる。
「知ってるか、鉄子?虎美の体育祭伝説を」
大友虎美...彼女の在籍したクラスは体育祭で勝利を収めてきた。学内では体育祭の英雄とも言われているとか。
その万夫不当の働きもさることながら、特筆すべきはそのカリスマ性だ。体育祭のために鍛え抜かれた精鋭たちと、それを率いる統率力。鬼のような特訓をしている、させていることが見るだけで分かる程のものだ。
それだけではない、大友虎美とそのクラスの人間にとっては三年目、対する鉄子やそのクラスの人間は一年生だ。経験値に大きな差が開いている。
鉄子はこの勝負においてとても不利な状況だ。
「それでわしがイモ引くと思うとるんでっか?」
しかし、そう説明したところで鉄子は勝負を諦める心算は無いらしい。
分かっていたことだ。彼女は鉄のように硬い意志を持っている性格だ。
「兄貴?いくら兄貴でも言うて良いこと悪いことがありまっせ」
「......」
「吐いた唾なんぞ、わしは飲めまへんよ」
そう、もう喧嘩は始まっている。
構えた腕を引っ込めるなど、あの二人にはできることではない。
だからこそ、だからこそ不安で憂鬱なのだ。
この勝負に決着が付くのが。二人のどっちかが、僕の前からいなくなることが。
「せやった...すんません兄貴。熱くなってしもうて。兄貴には辛い立場に立ってもろうとるのに」
さすがの鉄子だった。人の顔色を見るだけで、考えていることを見透かされてしまう。
僕が分かりやすすぎるのだろうか。そのせいで余計な気遣いをさせてしまったのかもしれない。勝負を控えた身であるというのに。
「僕も悪かった...野暮なことを聞いてごめん...」
鉄子は舎弟であるし、色々世話をしてもらっている。しかし一人の人間で、そして極道だ。譲れないプライドがある。もはや後戻りできないことなのだ。
「この勝負、わしも虎美はんも覚悟の上だす。本気でぶつかって、ほんで負けたら潔う去るしかない。それは虎美はんも分かってることだす」
「......」
「兄貴にはそれを見届けなあきまへん。そしてそいつは、兄貴にしかできん役目だす」
「......分かったよ」
納得はした、理解もした。しかし、心残りはあり、心のどこかで諦めきれていない。
もっといい方法は無いのだろうか。二人が和解できる方法をもっと探るべきではないか。
虎美はどう思っているのだろうか。虎美はなぜそこまで鉄子を、博徒を嫌うのだろうか。
僕はただ見ているだけでいいのだろうか、いや、いいはずがないのだ。
…
5月の体育祭、全勝無敗の大友虎美。
さっきも、威勢よく啖呵を切ったは良いが、度胸だけで勝てる勝負は無い。
どうすれば勝てるだろうか?学校の中で兄貴と別れてから、それだけを考えていた。
「あっ、桜井の姐さあぁぁぁん!おはようございまぁぁぁぁぁす!」
後ろから誰かが駆け寄ってくる音がした。
振り返ろうとしたが、その前にその誰かに腰元に抱きつかれてしまった。
新一年生ということもあって、周囲は面識の少ない人たちばっかりだったが、
この妙に人懐っこく、声の大きい少女は、私の印象に深く刻まれている。
「...山中、朝っぱらから抱きつかんといてくれ」
名前は山中抄。ここに入学してから、初めて出会った新一年生だ。
「姐さ~んそんな堅いこと言わずに~。それにショウちゃんでいいって言ってるじゃないですか~」
何故ここまで懐かれているのか、私は不思議だ。心当たりがないわけではないが。
「そないなこと言うんやったら、その”姐さん”言うのも辞めてくれんか?」
「それは聞けませんよ姐さん、姐さんは姐さんです!」
山中と話しながら自分の組へと足を運んでいくと、見知った顔も多くなる。
「あっ、姐さん、おはようございます!」
「おはようございます、姐御!」
「おう弓野、おはよう」
入学してからというものの、どういうわけか周りから姐さんやら姐御やら呼ばれている。
山中は少し前から、私のことを姐さん姐さんと呼んでくる。
それを放っていたらいつの間にか他のクラスメイトからもそう呼ばれるようになってしまった。
「山中、われのせいで周りからも姐さんって呼ばれるやないか」
「違いますって姐さん、それは姐さんのせいですからね!姐さんの侠気がそうさせるんですからね!」
ここまで持ち上げられると、照れくささを超えて呆れに変わってくるものだ。
何故ここまで持ち上げられるのだろうか。
確かに私は山中を助けたことがある。入学初日のことだったか。
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「いやっ、辞めてください!」
学校の玄関に掲示された組の割り当てに従い、自分のいるべき場所に向かおうとしていた時だ。
突き当たりの階段裏で、女子生徒と男子生徒が何か揉めている様子だった。
「いいじゃねぇかよ、俺らとこれからカラオケ行こうぜ~」
女子生徒は一人、対して男子生徒は三人だ。
リボンの色から、女子生徒の方は私と同じ一年生であることが分かった。
一方の男子生徒はネクタイの色から、上級生のようだ。
男が寄ってたかって一年生の女子を脅かしていた。どうやらたちの悪いナンパのようだった。
「おい、嫌がっとるやないか。それ以上言うようやったらわしが相手になるで」
男の一人の肩をつかみ、低く声を張って脅かした。
「なんだてめぇ、邪魔すんじゃねぇよ!」
男は振り返って私に威嚇してくる。他の二人もこちらに敵意を向けていた。
しかしこんなやつらには手を出すまでもない。
ジッと睨み続けた。眉間に皴も寄せて、しかし神妙な面持ちで。
そうしていると、先ほどの男の怒声が響き渡ったのか、何事か何事かと周囲に人が集まってきた。
さらにタイミングのいいことにキーンコーンカーンコーン、と朝のチャイムがなった。
「...チッ、覚えてろよ」
男たちはその空気に吞まれたようで、不貞腐れた顔でその場を立ち去って行った。
後に残されたのは、私と一年生のその少女だけだった。
「あ...あ...ありがとううございます!」
その声の大きさに少し驚いた。
淑やかそうな人だと思っていたが、案外張った声をしている。
「...気にせんでええよ。わしが見過ごせなかっただけやさかい」
この程度のこと、恩に着られるまでもない。その時の私はそう考えていた。
だから、私はこのまま立ち去ろうとしていた。
「あっ!そのリボン、あなたも一年生なんですか!?」
「桜井鉄子言うもんや。よろしゅう」
振り返って返事をすると、その一年生も私の跡についてきた。
「私、山中抄と言います!あの、あとでお礼させていただいても良いですか?」
「そない大層なことしとらんよ、気持ちだけで結構や」
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あれから山中とは、そのまま他愛の無い会話を繰り返しながら、自分の組へと向かっていった。
どうやら奇遇にも私と同じ二組らしく、それから顔を合わせる機会も多かった。この学校に来てから最初の友人と言っても過言ではない。
「私はあの時の、姐さんの背中に惚れたんです!」
あの時はまだ、姐さん姐さんと呼んでくるような人ではなかった。それがどうしてこうなってしまったのか。
「人として当然のことをしただけやないか」
「そんな謙虚な事言わないでくださいよ~!」
そして今日も、そんな他愛のない会話と共に、自分の在籍する一年二組の教室へと辿り着いた。
「「「おはようございます!!!!姐さん!!!!」」」
扉を開けると、屈強な男たちの威勢のいい挨拶に囲まれていた。
「おう、おはよう。島田、水上、岩見」
少し前から、この三人は扉のあたりで待ち構えて挨拶をしてくる。
それに、私を姐さんと呼ぶのは山中とこの三人だけではない。いまや組の半数は私を姐さんと呼ぶ。
「しかし、なんでこないにも姐さん姐さん呼ばれるんや?」
思えば、いくら山中が私を姐さんと呼び続けているだけでここまで浸透するだろうか。
「そりゃあ、姐さんはこの組を率いる学級委員長ですからね!私がそう呼ぶように言って回りましたよ!」
少し前...、そういえばそれは私が学級委員長に指名された前後だったか。
つい最近、私は組の半数以上の指名によって学級委員長、つまりこの組の長に任命された。
だからこそ姐さん姐さんと持て囃されるのか、と納得しかけるところだった。
「おい、今のどういうことや?」
「へ?」
そう呼ぶように言って回った、確かにそう聞こえた。
この現象の原因がこんなにもすぐ近くにいたとは思わなかった。
「われが姐さんって言わせとるんか?」
「そりゃあ、姐さんは学級委員長になったんですから、それなりの敬称は必要ですよね?」
まるでそれが当然だというように答えた。
山中の私に対する敬意のようなものは常に感じていたが、しかし今回はいささか度が過ぎる。
「無理やり言わせとるんか?」
眼を鋭くし、山中を睨みつけて言う。
さすが山中も怯えたようで、先ほどまでの陽気な顔が一変して青ざめていくようだった。
すると先ほどの三人、島田、水上、岩見が間に入ってきた。
「そんな、とんでもないですぜ姐さん!」
「俺らは好きで姐さんと呼んでいるだけです!」
「姐さんが嫌なら呼び方変えますぜ!」
三人の顔は、私は馬鹿にするような顔でも、何かにおびえているような顔でもなかった。
本気で許しを請おうとしている顔だった。どうやら無理やりというわけではないらしい。
「ですが俺らも、生半可な気持ちで姐さんと呼んでいるわけではないんです!姐さんには返しきれねぇ恩義があるんですよ!」
「この前だって、センコーに絡まれたところを庇ってくれたじゃないですか!」
確かに、私が助けたのは山中だけではない。
あれから、頼まれたことは無下にできなかったし、弱い者いじめは見過ごせなかった。
センコーに絡まれたという岩見だってそうだ。粗野な見た目をしているからと、教師に執拗に責め立てられ、笑いものにされていたところを止めたことがある。
「私たちにとって姐さんは”姐さん”なんですよ!」
「......」
私も兄貴を兄貴と呼んでいる。
かつての孤独な私を救ってくれた恩義から、私は兄貴分としての広能昌輝を見出したのだ。
そうかこいつらも、そして私だって同じなのだ。途端に照れくさく感じてしまう。
「...そうかい。ほなら好きに呼んで構へんよ」
「ありがとうございます!姐さん!」
姐さん姐さんとやかましいと思っていたが、今は何やら可愛く感じるものがある。
しかし、念のために釘は刺しておこう。
「やけど、あんま外で姐さんとか言わんでくれよ?兄貴に申し訳あらへんからな」
「押忍!姐さん!」
もし、私が兄貴よりも持ち上げられるようになったら、敬われるようになったら、それは一番合ってはならないことだ。舎弟分の分際で兄貴分を超えるなど、あってはならないことだ。
「そういえば、姐さんの言う兄貴ってどんなお方なんですか?」
「...兄貴は兄貴や。わしは兄貴に尽くすべき恩義を持っとるし、兄貴に恥ずかしくないように生きとる」
「私たちにとっての姐さんのようなものですね!」