博徒の少女と的屋の少女
4月だというのに、もう夏かと思うような暑さだ。
澄み切った青空が、ジリジリと照りつける太陽がそう錯覚させる。
そんな空の下で僕は走っている。
「ゼェ...ハァ...ゼェ...ハァ...」
呼吸は荒く、心臓が響く。
先ほどから呼吸が浅い。深い呼吸ができない。
脚に来る痺れは、まるで骨を粉砕してきそうだ。
その痺れは脚だけではなく、身体全体にまで行き渡り、特に肩に負担をかけてくる。
額、背中、脇、膝裏、その他隅々に湧き出る汗は体力を奪っていく。
脇腹に激痛が走っている。腹の中は、内容物が煙のように上ってきそうだ。
「ゼェ...もう休まないかぁ...ハァ...鉄子ぉ...」
「まだ100mでっせ兄貴、もう少し気張ってくだせぇ」
昨日から僕は鉄子の1キロランニングに付き合わされている。
鉄子にとっては日課のようだが、僕にとっては走ることすら久しぶりだ。
慣れない運動は辛いもので、もう息が上がっている。
身体はフラフラして足取りもおぼつかない。真っ直ぐ走れない。
対する鉄子には息が上がっているような様子は無かった。
ペースも全く落ちる様子はない。むしろ、僕に合わせてくれているのだろうか。
驚くべきことに、彼女は錘までつけて走っているのだ。
体力オバケか...こいつ...?
「だいたい兄貴は体力が無さすぎでっせ。ええ機械やおまへんか」
「体...ゼェ...力が...ハァ...ないからって...ゼェ...なん...なんだよ」
「身体の健康は心の健康や。体力があらへんから卑屈になるんで、兄貴?」
ぐぅの音も出ない言葉だった。何も言い返すことが出来なくて、しかし不満を表したく口を歪ませる。
盃を交わしてから、鉄子が少しばかり生意気になった気がする。言い換えれば僕に対する遠慮が薄れてきたということだろうか。距離が縮まってきたということだろうか。
人の変わり様というのは、見ていて微笑ましくなる。不満に歪んでいた顔から思わず笑みがこぼれてしまう。
「どないしたんでっか兄貴、急ににやけて?」
「...いや...なんでも...ゼェ...ないよ...ハァ」
ただ、僕に感傷に浸っていられるほどの体力は無かった。
疲れて疲れて、もう早く休みたい。
「...仕方あらへんな。ここらへんで休憩しまひょ、兄貴」
見かねた鉄子によって、思わず休憩の機会を得た。
痺れる足を、肩を、身体を休ませる。
跳ね続ける肺と心臓を休ませる。
身体から流れる汗を拭っていく。
恍惚の時間だった。そうか、ランニングというものも悪くないな。
終わってみれば、さっきの苦しみも過ぎ去っていくようだ。
終わってはいないけど。
身体が落ち着きを取り戻していくと、マヒしていた感覚も取り戻していく。
すると、なにか賑やかな音楽と声が聞こえてきた。
「なんや賑やかですね、兄貴」
「そういえば今日は祭りがあるそうだよ」
「5月でっせ?夏祭りにはまだ早い思いますけど?」
「神木鳴町ではこの時期にいつもやってるよ。夏祭りじゃなくて商店街記念日らしい」
僕もあまり詳しいことは分からないが、子供の頃からここで祭りが開かれていた記憶がある。今ではめったに通わないが、昔は良く歩き回ったものだ。
噂では、ここいらを仕切る的屋系の組がシノギをするため、だとか言われている。それに関係しているのか、商店街だけではなくその付近にも露店が並び、いかついおじさんたちがたこ焼きやら焼きそばやら焼いているそうだ。
「たしか虎美がここで屋台を手伝うとかなんとか言っていたね」
「...ほなら、挨拶しといた方がええんやないですか?」
「そうだね、折角こんなところにきたんだし」
しめた。このまま屋台を巡っていけば夕方になる。地獄のランニングも別の日に持ち越しだ。
そうして僕たちは屋台の並ぶ通りに入っていった。
通りには老人から学生、カップルや友人同士と思われる人たちが往来している。
しかし相も変わらず、右にも左にもいかついおじさんが露店を開いている。
「変わらないな」
思わず呟いた。ここに来たのはおおよそ2年ぶりだろうか。
今までの僕だったら、祭りなんか知らず家で寝ていただろうか。
こんな機会でもなければ行くことも無かっただろう。
「へいあんちゃん!うちのたこ焼きどうだい!?」
「そこのお嬢さん!ナウなヤングにバカ受けのりんご飴があるよ!」
「よぉそこのアベック!うちのお好み焼き、いまならアベック割引して売ってやらぁ!」
ナウだのアベックだのいつの時代の言葉なのだろうか。
左右からおじさんたちの野太い声での呼び込みが聞こえてくる。活気のある証拠だった。
「お、あれ見てよ。啖呵売やってるよ」
そういって目線を配った先には、小柄な男たち二人が活気のある声で何かを売っていた。
その周辺に寄って集まった人たちは、興味津々な目でその二人組を見ている。
「さぁよってらっしゃいみてらっしゃい、このかき氷!こんな日照りじゃぁもう夏かと思っちゃう兄さん姉さんも多いでしょう。おいらもこの暑さにやられちゃあ、もう敵わんぜ。なあギンさん」
「キンさんキンさん、まだ春の終わりだぜ。こんなんで音を上げてちゃ、マジの夏はもう耐えられそうにないな」
「バカヤロー!そんなときのためのこいつじゃねぇか!こいつを一気にかきこむんだよ!」
「お、かき氷だけにかき込むってかいキンさん?でもそれだけじゃあ洒落にもならんぜ?」
「それだけじゃねぇぜギンさん、こいつで頭も身体もキンキンになったぜ!」
啖呵売とは客を楽しませて物を売る手法だ。
かき氷なんて別の露店でも買えるし、味もさほど変わらないだろう。
だが、こうした洒落で人を楽しませて、自分の売り物をアピールするものだ。
「なるほど、これが啖呵売でっか...始めて見ますが中々おもろいもんですな」
ふと傍らを見ると、鉄子も興味津々な目で二人組を見ていた。
その目には、昨日のあの時のように輝きに満ちているようだった。
「すんませーん!かき氷一つ...、いや二つお願いします!」
「あいよ兄ちゃん!」
思わずかき氷を買ってしまった。
うむ、やっぱりこれといった特別感のない味だ。
食べ進めていると、やっぱり頭がキーンとしてくる。
同じく鉄子も嬉しそうにモグモグと食べ進めていたが、しかしその表情に変化はない。
頭がキーンとかしないのだろうか。
やっぱり、祭りというものはなかなか楽しいものだ。見ていて飽きない。
そんな中、前方から喧騒が聞こえてきた。周囲からも悲鳴が聞こえてくる。
「おい!テメェぶつかったろ!」
見てみると、中学生くらいの少年がガラの悪い男たちに絡まれていた。
男たちは僕たちよりも年上のようで、いかにもチンピラ風の見た目と響く声をしている。
そんな男たちに絡まれている少年はいまにも泣きそうな顔だ。
「イテテ、あーカタイテー。こいつは相当高くつくぜ」
「おぉどうすんだよガキ、どんな落とし前つけるんだよ!おい!」
少年は怯えて声も出せそうにない。
「おぉ、謝らねぇのか。謝罪の意はねぇってことだなァ!」
「ごめんなさい!!」
男たちに急に攻め立てられた少年の口から謝罪の言葉が吐き出される。
今まで閉じ込められていたものが飛び出したようで、その言葉は少しばかり早口だった。
「汚ェ、唾かかったろうが!慰謝料に乗せねぇとなぁ!」
少年の怯えた様子に、ここぞとばかりに責め立てる男たち。
見過ごしていられない、警察を呼ばねば。
「あん外道どもが。兄貴、わしに行かせてくだせぇ」
そういって鉄子は、僕の了承も聞かずに男たちに向かって駆け出そうとしていた。
しかし、その足はある少女の登場によって止まってしまう。
「おぉこのバカヤロー共、アタシらの庭場でなーにやってんだぁ?」
そのべらんめぇ口調には聞き覚えがあった。
「なんだこのガキ?」
「おい嬢ちゃん、俺たちはこのクソガキに説教してんだ。他所行ってくれや」
その少女の身なりは制服の上に法被を着ていて、いつもとは違っていたが。
「そうは行かねェよ。兄ちゃんらは祭りをぶち壊す外道どもだ。アタシら稼業人はアンタらをここから逃がすわけにはいかねェよ」
「あぁ!?」
その少女の名は、大友虎美。
僕の同級生で友人。
僕を兄ちゃんと呼んでくる、気さくな女の子。
しかし今の虎美にそんな様相は無かった。
顔に笑みはあったが、その眼光は冷徹そのもの。
まるで、鉄子が賭場に乗り込んできたときのような、鉄子が喧嘩の時に見せたときのような。
敵意と殺意に満ちた眼だった。
「このアマぁ、舐めた口ききやがって!」
男が一人、虎美に向かっていった。
「虎美!」
しかし、虎美をそれを軽々といなす。
そしてその腹に肘打ちを食らわすと、男の膝が崩れていった。
まるで喧嘩慣れした動きだった。
「こ...このアマァ...」
その動きを見て油断ならないと気づいたか、もう一人の男が懐からナイフを取り出した。
刃物は洒落にならない得物だ。
虎美の喧嘩を見に集まったギャラリーたちの中にも、そのナイフを見て逃げ出す人間がいた。
「お、おい...ナイフはまずいよ...」
「...それよりも兄貴、ここ、殺気がどえらいことになってまっせ」
そう言う、鉄子は周囲をジロジロ見ているようだった。
「殺気...?殺気ってどういうことだよ?」
「そのまんまの意味でっせ。あの外道どもに向かって、えらい数の殺気が集中しとる」
鉄子の言葉の意味はどういうことだ。
僕は鉄子につられるように周囲を見る。
そして鉄子の言っていることが分かった。
周りの、露店にいるいかついおじさんたちが、鋭い眼光で男たちを見つめていたのだ。
まるであの時の鉄子のような、今の虎美のような、敵意に溢れた冷徹な眼光で。
しかしナイフを持った男はそれに気づいている様子は無かった。
「おらぁ!刺すぞ刺すぞ!引けやァ!」
男はナイフを構え、虎美を威嚇する。しかし虎美はそれに怯むことなくジリジリとその男に近づいていた。
そんな中、膝を崩していたもう一人の男もナイフを取り出し、後ろから虎美に突撃する。
「うおおおおおおぉ!」
男たちの不意打ち作戦!しかしその不意打ちもむなしく、虎美にいなされてしまう。
勢いあまったその男は、威嚇をしていた男にナイフを向けたまま突っ込んでしまう。
「痛ええええええ!」
「すまねぇジロー!ジロオオオオオオ!」
男のナイフが突き刺さり、男たちの絶叫があたりに響き渡っていた。
虎美はその様子をただ冷たく見ていた。
「おい、救急車呼んでおけ」
「へい!」
虎美はあたりの露店のおじさんにそう言うと、その場を去ろうとする。
このまま去らせる訳にはいかない。
「おい、虎美!」
声をかけると、虎美は僕たちに気づいたようで、こちらに振り返る。
「あれ?広能の兄ちゃん!来ていたんだなァ!来るんなら教えてくれよ!」
「そんなことよりも、大丈夫なのか?」
「なんでぇ、いきなり?そんな顔して?」
「いや...あんな喧嘩して大丈夫なのかって」
「ハッ!兄ちゃんが心配しねぇでも、あんな外道ども、口ほどにもないね!」
まるで何事もなかったように、余裕そうな様相だった。
すると、一人の少年が駆け寄ってくる。
「お、お姉さん...さっきは...どうも...ありがとう...ございます...」
とても怯えた様子だ。しかし、感謝を伝えようとしているのは分かる。
すると、虎美は少年の頭を撫でながら、さっきとは打って変わって優しげな声をかけた。
「お、大丈夫だったかボウズ?すまんな、あんなチンピラ入れてしまってな、こいつはアタシの奢りだ」
そういって懐からりんご飴を取り出し、少年に渡した。
「い!いえ...そんな...」
「いいんだよ気持ちよく受け取っておけ!それと礼を伝えるならもっとハキハキした声で言わねぇとダメだぞ。聞こえねェからな」
「は...はい!ありがとうございます!」
少年の顔は少しばかり赤くなっていたような気がする。
まさか、ほの字だろうか?
「もううちの庭場であんなことは起こさせねェからよぉー!まだまだ祭りを楽しんでくれよぉー!」
走り去っていく少年に向かって虎美は手を振って声を掛けていた。
「なぁ虎美?君はここで何してるんだ?」
「何って、祭りの手伝いだが?」
「はぐらかすなよ」
虎美はしばらく沈黙し考え込んでいた。
そして重い口を開くように答えた。
「まぁ、この祭りの責任者...みてぇなとこかな...」
「責任者...」
責任者、とはどういうことだろうか。
運営委員会の一人ということか。
いや違う、そういうことを聞きたいのではない。
さっき見せたあの眼光、喧嘩。
あれは鉄子の、いや極道のものだ。
「...大友虎美はん。ご無沙汰しとります」
僕の後ろから、鉄子が挨拶に来る。
その鉄子の姿を見たとき、虎美の表情が変わった。
虎美の眼がまた鋭く尖ったものとなっていった。
「桜井鉄子...。あんたも来てたのかい...」
虎美の指がプルプル震えていた。
この前、鉄子と虎美が会っていた時はまるで違う。
今の虎美から鉄子に対する感情には敵意があるようだった。それも並々ならぬ敵意が。
対する鉄子も、神妙な顔をしていた。
ランニングの時のような慣れた表情とは違う。
挨拶に来た時のような、勝負に挑むときのような、真剣で神妙な表情。
「広能の兄ちゃんと盃を交わして...舎弟になったんだって?」
「ようご存じで」
二人の間に火花や電撃が走っているようだった。
「博徒のクソのくせして、生意気なことするよなァ。どうせ盃交わしてくださいって無理言ったんだろ?兄ちゃんは優柔不断だからなァ...。」
途端にいつもの虎美からは似つかわしくない言葉が吐き出される。
その言葉を聞いて鉄子も、その目の色を変えてきた。
「お、おい虎美...」
「どういうことでっか、虎美はん」
虎美は立ち上がり、鉄子の目の前に迫る。鉄子に圧をかけているのだろうか。
「丁度いい教えてやらァ。アタシは大友虎美、的屋 車一家二代目大友、その実子だ。テメェら渡世人とは違う、神農道の稼業人だ!」
その言葉に僕は絶句した。言葉を出せなかった。黙って見るしかなかった。
2年間、僕たちの友達として接してきた虎美は、実は的屋の極道だった。
そしてここに、二人の極道がいる。そんな事実の濁流に僕は流されるままだった。
「的屋か...道理で...」
「桜井鉄子、会ったときは面白いヤツだと思ったが、まさか渡世人とは、ましてや広能と盃を交わすとはな思わなかったぜ」
虎美からあふれる敵意に限界がある様子は無かった。
「...しかし博徒のクソとは、随分なご挨拶でんな」
「博打で遊ぶことをシノギって言い張るプータローなんぞクソでしかねぇだろうが。そんでテメェら渡世人は、毎日汗水たらして働くカタギさんにまで迷惑をかけるクソ虫だろうが。そんなやつが広能の兄ぃと盃交わすなんて100年早ェぞ!」
桜井鉄子に限ってそんなことは無い。鉄子はプータローとは程遠いやつだ。
そう反論しようと僕も口を開くが...。
「違う!鉄子は...」
「兄ぃは黙りなぁ!こいつはアタシと桜井の喧嘩だぜ」
「...虎美はん、あんたはわしに喧嘩売りたいんでっか」
虎美の敵意に満ちたその顔に笑みが浮かぶ。
勿論、いつもの虎美の笑顔ではない。勝負を前にした極道の微笑み。敵に向ける笑みだった。
「あながち間違ってねぇ。なぁ桜井!今度の体育祭でアタシとテメェ、どちらが「上」か決着つけようじゃねぇか!」
なんてことだ...。
5月に控えた体育祭はもはや祭りではない。
今この瞬間から鉄子と虎美の決戦の舞台となった。
「桜井、テメェが負けたら、広能との盃は水に流せ。そいでこの町にはもう顔を出すな」
「おい虎美!」
それはいくら何でもやりすぎだ、と言いかけたその時だった。
「構わんですよ兄貴」
「鉄子...」
鉄子は勝負師だ。引くことを知らない。
だがその勝負の結末は...どちらに転んでも...。
「虎美はんが負けたら...、それなりの代償を払ってもらいまっせ」
虎美が負ける...あの条件に照らし合わせると、それは即ち虎美がこの町から消えることになる。 だが、もう始まってしまった喧嘩だ。もう後戻りはできない。
その日の帰路は憂鬱の一言だ。
あらゆる疑問、驚愕、不安、全て憂鬱という感情になり頭で渦を巻いていた。
「そういえば兄貴、明日は今日できなかった900mも含めて1k900mはしってもらいまっせ」
その一言を聞いて、僕の憂鬱はさらに深いものとなった。