体育祭
4月20日、土曜日の真昼間。
「離してつかあさい!こいつは兄貴へのケジメでっせ!」
「どうしたんだ鉄子!また指なんか詰めようとして!」
その日はまたもやドタバタ騒ぎを迎えていた。
何故、彼女がまたもやこのような暴挙に出たのか。
彼女の腕を力尽くで止めた後に、それを聞いてみると、ケジメだと言う。...なんのケジメなのだろう。
…
この頃の神木鳴高校では何か浮足立った雰囲気、暑苦しい雰囲気が満ち始めていた。
窓の外を見ればランニングをしている人間が必ず見える。
廊下や教室の隅では腕立て伏せ、腹筋、スクワットを行う人間を見かけることもある。
「もうそんな時期なんだなァ」
腐れ縁の形山がそう呟いた、”そんな時期”。
その顔は、季節の到来を眺めるような、しかし何か憂い嘆くような。
そんな微妙な表情をしていた。
「体育祭、かぁ...」
同じく僕もそんな表情をしている。
神木鳴高校体育祭。
クラス毎に分かれて、人間の体でその頂点を競い合う、運動の祭典。
毎年5月初旬に催される祭り。
その日が近くなると、校内中の運動自慢に燃え上がり、そのトレーニングに勤しみ始める。
そしてその時期は、まるで校内の室温が少し上がったように、周囲の熱気が増す。
だが、そんなものは僕たちには縁遠い世界だ。
「広能よ、今年もサボろうな」
僕たちのような怠け者には体育祭なんて、知ったことではないのだ。
一昨年も、去年も同じように、僕と形山はどっかでサボる気満々でいた。
だが、一方で鉄子はそういうわけにもいかないようだ。
いつの間にかクラスの学級委員長になっていたらしい。
「優勝目指しましょうぜ、桜井の姉御!」
「鉄子姉ぇ、一緒に頑張ろうね!」
「姉御となら、体育祭で優勝できるぜ!」
と、姉御とまで言われて、クラス中の期待を背負っているようだ。
どうしてそんなことになったのか訊いてみると、
「困っとる人たちが見過ごせんよって...いつの間にやら」
と苦笑いして言っていた。どうやら人に頼られやすい性分らしい。
しかもそんな際には
「わしは広能の舎弟や!任せんしゃい!」
と名乗って、知らない間に僕の名前を売っているそうな。
…
「...それで、わしが組のモンの期待を背負っとるさかい、今度の体育祭では優勝を狙わなあきまへん。ですがそいつは同時に、兄貴へ弓引くことでもあります。」
僕の必死の静止で落ち着いた鉄子が、淡々と、しかしどことなく浮かない様子でその事情を説明した。相変わらずの鋭い眼光と壁のように垂直な姿勢だったが、何か心配事があるような、残念そうなその様子は伝わってくる、
確かに、体育祭はクラス対抗だ。僕と鉄子がぶつかり合うこともあり得ないわけではない。しかし、この鉄子という少女は僕のことを兄貴だと慕っており、それと同時に僕を男にしてやる、だから彼女にとっては
「それでケジメ、ということね...」
体育祭ごときに気を使いすぎではないか?
「わしには兄貴を男にする使命があります。せやけど若いもんにこうも言われると...」
「いや、別に構わないけど」
「...え?」
鉄子が珍しく目を点にしたような表情をしていた。推測するにかなりの葛藤をしていたのだろうか。
「体育祭にまでそんなに気を遣わなくてもいいよ。本気で楽しめればいいんじゃないかな?」
それに僕はサボるし。
こういうものは楽しんだもの勝ちだろう。
「いや、そういうわけにはあきまへん。わしには兄貴を優勝させて男にせねば...」
そんなことを考えていたのか...。
「いや僕はサボr...。勝負事に余計な気遣いを挟むというのは、失礼なんじゃないかな?」
咳ばらいを挟んで、それらしいことを並べ立ててみる。それらしいこと、なので本気でこう思っているわけではないが、しかしどうやら鉄子も納得したようだった。
「...そうでっか」
そういって、何か神妙な顔をしたかと思うと、
「ありがとうございます!わし、粉骨砕身身命を賭して優勝目指すよって、よう見ていてください!」
普段の彼女からは想像もできないような、今までに見ないくらいに目を輝かせていた。
鋭かった目はぱっちりと開き、瞳の中に星がキラキラと散りばめられたようだった。
身体も飛び上がるかのように前のめりになって、今までの
まさか、体育祭が楽しみにしていたのだろうか。
ならば猶更、普段から迷惑をかけている分、体育祭を楽しんでほしいものだ。
「兄貴も気張ってくだせぇ!決勝で相見えることを楽しみしとりまっせ!」
「ウッ」
...サボるんだけどなぁ。
鉄子が空振りになるだろう楽しみにウキウキしている様子を見て、思わず目をそらしてしまう。
それにサボらないとしても、決勝まではいけないだろう。自慢ではないが僕は運動ができないのだ。
「ま、まぁ、楽しめればいいんだ楽しめれば...」
その様子を不審に思われたのか、鉄子の輝いていた目がいつもの鋭い眼光に戻っていた。
「兄貴?なんや浮かない顔しとります?」
さすがは桜井鉄子。人の感情の機微を見分けるのが一流だ。
そのままの姿勢で、いつもの仏頂面に迫られている。僕はビビってしまっていた。
「い、い、いや、そんな顔してないよ。勝てたらイイナーなんて...」
「まさか、楽しむだけでいいと思っとらしとりませんよね?」
「......」
「まさかまさか、サボる気でっか?」
「......」
ごまかすために作った笑顔が、鉄子に迫られるたびに青ざめていくようだった。
鉄子の目線はいつもより細く、何か残念なものを見るような表情となっていた。
「わしが兄貴を男にしたるって言ったこと、覚えとりますよね?」
「は、はい」
「兄貴、ここで男にならんでいつなるんでっか?」
「...と、おっしゃりますと」
何か途轍もない嫌な予感がしていた。
これから鉄子が何を言い出すのか、予感できるような気がした。
「兄貴にはこれから毎日トレーニングしてもらいますよ」
そして僕の平穏な日々は突如として終わった。
代わりに始まったのは地獄のトレーニングの日々だった。
「兄貴!まだ走りまっせ!」
「もう休ませてくれよ~~~~!」
…
それを思い出したのは、ある日の放課後だ。
あたしはあいつの顔を、どこかで知っている気がした。
あの桜井鉄子っつー女。
入学式から、広能兄ぃに付いて回っている仏頂面の女。
何者だ?どこかで見たことあるような、ないような。
そんなことを思っていたんだ。
「なんか新入生にとんでもねぇやつが現れたそうだぜ?なんでも賭博部に喧嘩打って負かしたとか」
「へぇ、そいつぁなんて言うんだい?」
「たしか名前は...桜井だったような」
桜井...あの桜井鉄子だろうか。
仏頂面のくせして、結構な大型新入生らしい。面白いじゃないの。
あたしはそんな粋が良いやつを見ると張り合いたくなる性分なんだ。
そう思っているうちは良かったさ。
ある日、形山と話していた時だ。
「なんかよ、昨日広能とあの鉄子ちゃんに呼び出されたんだよ」
その時は形山がよくする下らない話だと思って、適当に相槌を打って聞き流していたさ。
そうしてたら、あたしにも、いや、あたしにしか聞き覚えのないような単語が聞こえてきたんだ。
「兄弟盃を交わすだーっ、つって、媒酌人みたいなことさせられたんだよ」
「盃ぃ?どういうことだそりゃあ?」
盃を交わすなんて、何をしているんだあいつらは。
あいつら二人とも、自らふざけるような、そんな性格じゃねぇだろう。
そういうのは形山の役目じゃんぇのかい?
思わず驚いた。おかしくて笑ってもいた。
「おいおいマジだぜ?なんか春日なんとかの登りまで垂らしてよぉ」
妙に本格的だなぁと、思ったその時だったよ。
頭の中で断片的だった情報は、点と点がつながるように一つになっていく。
記憶にかかった靄が晴れていくように、その顔が鮮明なものになっていく。
まさか、とその時は思ったさ。家の若いもん訊いてみるまでは。
「桜井鉄子...か。...お嬢、そいつにはあまり近づかねぇ方がいいかもしれません」
桜井鉄子、やつはどうやら二代目桜井一家の実子。
そう、あたしらと同じ暴力の世界に生きる人間。
そしてあたしらとは違う、くそったれの渡世人。
日々を遊び歩き、人様に迷惑をかける、博徒の一人。
そんなプータローが、よりにもよって広能兄ぃと盃を交わしただと。
腸が煮えくり返るような気分だ。
布団の中で縮こまりながら、やつへの感情が黒く染まっていくのを感じていた。
しばらくしてその怒りは、布団の中では収まりきらないものなっていった。
「調子に乗りやがって、くそったれ博徒が」
叩きのめしてやる。
そうだ、次の体育祭だ。やつを負かしてやる。
広能の前で負かして、二度と表を歩けねぇようにしてやる。
そうと決めたならば、やることは一つだ。
布団から立ち上がり、腕を床に立てて身体を落とす。腕立て伏せの体制だ。
湧き上がる怒りを振り払うように、いや、怒りをガソリンにするように、怒りの赴くままに、
桜井鉄子を打ちのめすのだ。