龍と桜と牡丹
今日は大変な一日だった。そして、散々な一日だった。
賭場では負け続け、その後も喧嘩に巻き込まれ...。
ああ、鉄子にみっともない姿も見せてしまった。
どうしてこうなってしまったのだろうか。
どうしても、そうなってしまうのが僕の性なのだろうか。
僕は浴槽で寛ぎながら、今日の出来事を思い出していた。
いや、思い出すのではない。頭から離れないのだ。
暴力を向けられる恐怖が、そしてそれを打ち破っていく鉄子が。
家に帰ってから、僕は鉄子を直視できていない。
相変わらず彼女は僕を兄貴と呼んでくれている。家事もやってくれている。
しかしその度に、僕の負い目が膨れ上がっていくようで、自分の性を許せなくなっていく。
体は温まっているのに、心は未だに寒いままだ。
「はぁ...何やっているんだろうな、僕は」
そろそろ風呂から上がろう。鉄子を待たせるわけにもいかない。
今日一番疲れているのは彼女のはずなのだ。
あの性格だから一番風呂を譲ってくれたが、本来は彼女が先に入るべきなのだ。
ホカホカと湯気を纏いながら、僕はパジャマに着替えて大広間に出る。
「鉄子、上がったよ」
「承知しやした、兄貴」
まだ憂鬱な気分は消えない。まだ今日の出来事を反芻してしまう。
あの時、ああすれば、これからどうしようか、
そういえば何かを忘れている。そうだ、歯磨きをしていなかった。
僕はいつも、風呂上りには歯磨きをしている。しかし今日は考え事に夢中で歯ブラシを忘れてしまったようだ。取りに行かなくては。
脱衣所に置いてある歯ブラシを取るために、僕は再びその扉を開く。
そう、この時の僕は失念していた。鉄子と入れ替わるように脱衣所を出ていったことを。
そして考え事から我に返った。着替えている途中の鉄子がいたから。
「―――!?」
その瞬間は時が止まっているかのように感じた。
引き締まったしなやかな身体、僕のものとは違う白い肌。
だがそんなものよりも、僕は背中にあるモノに目を奪われていた。
背中一面を飛び回るような龍。それを彩るように舞い散る桜吹雪。片隅には「桜井一家」と力強い筆文字で書かれている。
それは刺青だった。荘厳で鬼気迫る和彫りだった。
思考が停止していた。僕の頭の中は混沌としていた。
「どないしたんでっか兄貴?」
その言葉に僕は再び我に返った。
「ご、ごめん!」
とんでもないものを見てしまった。いや、脱衣所を開いた時点でとんでもないことをしたのだが。
龍と桜と牡丹、そして「桜井一家」の筆文字。
さっきまでの憂鬱は、あの刺青に書き換えられてしまったようだ。
家に来たときの挨拶、指詰め、あの博打と喧嘩の強さ、度量、兄貴、舎弟...
鉄子の今までの行動が繋がっていくようだった。
あれらは彼女の趣味なのかと思っていたが、やはりただ者ではない。
あの刺青を見てしまったら、嫌でもそう思ってしまう。
桜井鉄子はその筋の人間なのではないか。本来、関わるはずのない世界の住人なのではないか。
ああ、とんでもないことをしてしまった。
脱衣所を開いてしまった...それだけじゃない。
恥をかかせてしまった、世話をさせてしまった。
調子に乗ったことも言っていたかもしれない。
鉄子...いや桜井さんは怒っているだろうか。
さっきの声は、若干トーンが低いように聞こえた。やっぱり怒っているのか。
必死に謝ろう。そうそれこそが僕の十八番じゃないか。
いや、違う。そんなものでは許してくれないかもしれない。
どうすればいい、どうすればいいんだ。
そうだ、ケジメだ。
僕は一回見たじゃないか。桜井さんのケジメの付け方を。
痛いのは嫌だが、ものすごく嫌だが、これなら桜井さんも許してくれるはずだ。
台所から包丁を取り出し、まな板の上に指を乗せて刃の前に出す。
...いや、やっぱ怖い。しかし、桜井さんを怒らせたままにすれば、どんな目に遭わされるだろうか。
覚悟を決めるんだ広能昌輝。ここで覚悟を決めなけらば死んでしまう。
あっ、そうだ。聞いたことがある。たしか指を詰めるとき、大抵の場合は指を糸で締めて氷水に浸すんだ。そうしなければ激痛で死んでしまうから。
危ないところだった。指を詰めて死んだら本末転倒じゃないか。
僕は思い出した通りに、指に糸を巻きつけて氷水に浸す。
小指の血管が締められ、感覚がマヒしていくようだ。
さあ、切る。さあ、切るぞ...。
「ちょっと待ってください兄貴!何考えとるんですか!」
急に誰かに腕を掴まれて、まな板から指が離される。
振り向くとそこには桜井さんがいた。
…
「鉄...いや桜井さんって何者なんですか...」
恐る恐ると僕は聞いた。
ついこの前まで砕けていた口調は、今では出会った頃の緊張感を持つようになっていた。
「...?挨拶の時に言ったはずですが...?」
そういえばそんなこと言っていたな。
あの時は思わず聞き流していたが、思い出すと二代目桜井一家だとか言っていた。
「その...もう少しわかるように説明してほしいな...いや説明お願いします!」
「......承知しやした。一昨日も言った通り、わしの父は大阪の一本独鈷の博徒 桜井一家の親分 桜井銀次だす。わしはその娘として恥の無い人間になるよう育てられました。わしがここでやらせてもらっている家事手伝いはその賜物です」
少し意外だった。ヤクザと言ったら粗暴なイメージがあったから、そんな家から桜井さんのような人間が生まれて育つなんて。しかし、今思えば思い当たるところもいくつかあるものだ。
「意外そうな顔をしてますなぁ。これでも、実家の若い衆には及ばないんでっせ」
桜井一家の組員は桜井さん以上に家事手伝いが上手いらしい。使用人か何かだろうか。
「それで、どうして大阪からはるばるこっちまで?」
「...それは、兄貴がおったからですよ」
「...どういうこと?」
「わしと兄貴はずっと昔に会っとります。覚えとらんですか?小学四年生のころでっせ」
小学四年...あまり覚えていないが、苦い思い出という印象だけは残っている。
その時に会っただろうか...いやまさかあの時の...?
思い出そうとするが、記憶にもやがかかるようだった。
しかし、その頃に味わった苦い記憶だけは思い出されていく。
「あの頃の僕は...あまり思い出したくないものだよ」
「そんなこと言わんでください。わしはあの時の兄貴に救われたんです」
救われた...か。
いや、あの時の僕はただの考え無しの男だった。
責任というものを知らない、そのくせ威勢がいいだけのただのガキ。
我を通すことが正しいことだと考えていた頃の僕。
そのまんまで生きていられたら、桜井さんの顔を曇らせることも無かっただろう。
あの時の僕は現実に殺されて死んだんだ。
そんな頃の僕が救った人間なんていただろうか。
「こいつを見てください」
そういって桜井さんが懐から黒いケースを取り出した。
その中に入っていたあるものを見たとき、僕の中の記憶の靄が晴れそうになっていく。
これは...もしかして...あの夢の...あの時の...。
公園で会った一人ぼっちの少女の牡丹の髪飾り。
泣き顔には似合わないと思っていたあの髪飾り。
「そうか...あの時の...」
ふと桜井さん、いや鉄子の顔を見る。記憶が鮮明になってきた。
確かに面影が似ている。
子供のころとは背丈も伸び、下向きがちだった顔も精悍なものとなっていたが、確かにあの時の少女だが...。
「......変わりすぎじゃない?」
「...そうでっか?」
「なんか関西弁しゃべるようになってるし...」
「...父や若い衆の口調が移っただけだす」
「体格もまるで違うし...」
「そりゃあ鍛えたからやさかい、身体つきくらい変わりますよって」
「......」
ここまで変わっては気づくわけがないじゃないか。あの時はおとなしそうな女の子だったのに、今では男よりも男らしくなっているよ。貫禄つきすぎじゃないか。
「それに...変わったのはわしだけやないようで...」
僕のことを言っているのだろうか。
「...鉄子の言うとおりだよ。僕は変わったんだ」
確かにあの時とは僕は変わった。
平穏な日々を求め、喧騒を避け
変わらない日々を求め、変化を拒絶し、
同調することに甘え、我を通す気概を捨てた。
あの時の僕ではない。
「僕のような人間は変わらざるを得なかったんだ」
言い訳のように口から吐き出されていく。
変わらざるを得ない、そんなわけはない。
僕はただ逃げただけなのだ。
「...お言葉ですが兄貴、今の兄貴はわしが憧れた兄貴ではあらへん。昔の兄貴はもっと向こう意気があって、器量も度量もありやした。少なくとも、進んで下手に出るような男やありまへんでしたよ」
「...そうだね、分かっているよ」
人の器量にも、度量にも限界がある。
現実を思い知って人は変わっていくのだ。
向かっていくだけでは生きていけないのだと、張り合っていては生きていけないのだと。
今の鉄子だって、いつか挫折を味わう。向こう意気なんて消し飛んでいく。
そうであるはずなのだ。
「ですがわしには分かりやす。兄貴はまた変わりたがっている...」
「......変わりたがっている...?」
どういうことだろうか。
変わろうとしている...今更?
今の今まで、半端な僕の性を引きずってきて、今更変われるというのだろうか。
無理だろう。無理に決まっている。
「一度変わったのやったら、また変わることだってできます。そして兄貴は今の自分から抜け出したがっている...。兄貴だって分かっているでしょう?」
心が見透かされるような気分だ。これが鉄子の博打の強さの表れなのかもしれない。
確かに今の今まで僕は自虐をしてきた。それが変わろうとしていることの裏返しなのかもしれない。
だが僕には踏ん切りがつけられない。「今更」という言葉が頭の中で泳ぎ回っている。
「わしには兄貴が変わろうとした時を、兄貴の変わらない性も見やした。兄貴なら変われるはずでっせ」
変わる...か。僕は変われるのだろうか、あの時の僕へ。
心の奥底に沈んでいた希望が徐々に浮き上がるようだった。だが、泳ぎ回る諦めの感情がそれが浮き上がるのを邪魔しているようで、やはり今の僕では変わることができないと結論付けてしまう。
一晩考えてみれば分かるのだろうか。明日にはまた希望は沈んでいくだろうか。
僕は部屋に向かうために立ち上がった。
「...僕には変われないよ。今更我を通せる僕になんて、変わることはできない」
そんなことを考え続けていると憂鬱な気分が戻ってきそうだ。やっぱり僕はこのままが良いのかもしれない。
「......もう僕を兄貴と呼ぶのはやめてくれ...。僕は鉄子の兄貴には相応しくない」
舎弟分に庇われて、助けられて、見透かされて、救われそうで...。
僕には兄貴分は似合わない。