喧嘩
「兄貴、なんでイモ引いたんでっか?」
日の沈む下校路で鉄子にそう問いかけられる。
あれから午後の授業も終わり、僕はそそくさと逃げるように帰宅していた。
鉄子は相も変わらず校門前で待ち構えており、そのまま連れだっての下校だ。
しかしその空気は、あの賭場の張りつめた空気よりも重く冷たい。
鉄子の口数も、心なしかいつもより少なく感じていた。そんな中での問いかけだった。
「...そりゃあ、まあ」
言葉に詰まり、頭の後ろを掻く。
イモを引くというのは、つまり弱腰になるということだ。
僕と鉄子は喧嘩を売られた。鉄子は喧嘩上等だったみたいだが、僕は逆だ。喧嘩なんてしたくない。痛い目になんて遭いたくない。それで僕は鉄子の意思を無視して、謝罪して穏便に済むようにした。プライドもへったくれもない。要は怖かっただけなのだ、喧嘩に巻き込まれることが。
「あのまま放っといたら喧嘩になりそうだったし...、穏便に済んだほうがいいと思って...」
「せやけど、兄貴が頭下げる必要なんてあらへんかった。なんであないなことしたんでっか?」
鉄子の声には、あの時よりも抑えられたものだったが、若干の怒りが混じっているように感じた。
当然のことだ。鉄子が立ち向かったのは、僕を守るためだ。それなのに僕は頭を下げてあの場から逃げてきた。鉄子にとっては面子を潰されたようなものだ。
だからこそ、こんな僕に兄貴なんて呼ばれる資格はない。舎弟分の面子を潰して保身に走るような兄貴分なんて務まる訳がない。
「あないな外道に頭なんて下げても、つけあがらせるだけでっせ。一発いわさな、また絡まれまっせ」
確かにそうなのかもしれない。鉄子の言う通り、あそこで頭を下げたのは失策なのかもしれない。だがそれでも、僕はあの場で胴元に立ち向かうことはできなかった。僕に潜む弱虫はそんなことを許してくれない。これからだって立ち向かうことはできないだろう。
「僕には、ああすることしかできないんだ。分かっただろう、兄貴分なんて呼ばれる器じゃないって」
鉄子と目を合わせることができなかった。自分の器の底が見透かされるようだったからだ。
いや、もう見透かされているのだ。だからこそ目が合わせられないのだ。自分の器の浅さを実感したくなくて...。
「兄貴...」
「もうよしてくれ、兄貴なんて」
西日が雲に隠れていく。空には大きな雲が広がっていた。
鈍重な雲が今のこの空気を表しているようで、息が詰まりそうだ。
しかしそんな空気に、突如として電流のような緊張が走る。
「奇遇っすねぇ...イモ引きの広能さ~ん」
「な...!?」
「なんじゃわりゃ?さっきの下手くそな胴元やないか!?」
下校路の角から現れたのは賭博部の胴元と屈強な体の部員たちだった。
「おっと嬢ちゃん、ここは賭場じゃねぇんっすよ。その呼び方はよして欲しいっすね」
気が付くと、僕たちの周りは部員たちによって囲まれていた。
何をするつもりかは分からないが、ろくなことではないだろう。
「俺には有田っつー名前があるんっすよ。そう呼んでくださいや、一年一組の桜井鉄子ちゃん?」
「ほんで有田はん?こりゃあ何の真似や」
僕からでもわかる。鉄子も有田もあからさまに敵意を向けあっている。
やはり、頭を下げただけでは済まなかったのか?
「嫌っすねぇ~何の真似でも無いっすよ。それにしても...聞きましたぜ、桜井鉄子ちゃん。入学初日だというのに随分な有名人じゃあないっすか」
有田のねっとりしたような口調は、胴元を務める時とも、キレた時とも違う。相手を自分のペースに誘い込むときのものだ。
僕たちはまたしても喧嘩を売られている。怒りからではなく、僕たちを型に嵌めるために...。
「こ~んなうだつの上がらねぇ半端もんを兄貴兄貴って慕ってるそうっすねぇ?広能ぉ、お前は幸せ者っすなぁアッハッハッハ!」
「のぉ?こないな下らん話するんやったら、早ぉ帰してくれや。それとも、一発いてこまさなわからんか?」
鉄子の手首から先には既に拳が出来上がり、プルプルと微振動を繰り返していた。
今、鉄子なりに我慢をしているのだろうか。僕が穏便に済む方が良いと言ったから。
「...なぁ、鉄子の嬢ちゃん。いくら有名人でも、いくら兄貴分のためでも、しちゃあいけねぇことってあるんっすよ?特に、俺ら賭博部に喧嘩を売るなんてことァな」
有田の口調が、目が、途端に鋭いものへと変わる。
「そこのイモ引きのせいで逃しちまったが...、思い直したよ。やっぱり体に叩き込んでやらなきゃあなぁ」
「今度は止めんでくださいよ兄貴、この外道はここできっちりいわしたる」
「いや、待ってくれ鉄子!ダメだ!なぁ有田さん、土下座でもなんでもする、だから僕たちを許してくれ!」
「せやけど兄貴!」
この時にはもう頭は回っていない。回っているのは腹の中の弱虫だけだった。
必死の謝罪、必死の土下座だ。財布もすでにポケットから出している。
これで事が収まればいい、それだけを願っていた。
「嬢ちゃんも可愛そうだな、こんな情けない男に連れまわされてよ」
周囲から笑い声が聞こえる。有田やその他の部員たちだろう。
しばらく笑い声が聞こえたかと思えば、有田がこちらに近づいてきた。
「なぁ広能よぉ、みじめだと思わねぇかい?年下の女を前に立たせて、後ろのお前は地面に頭をこすり付けて...」
「...言い返す言葉もありません」
「こんな頭に価値があると思ってるのか?、おめでたい男だよなァ!」
頭に圧迫感を感じる。踏みつけられているんだ。
靴裏をこすり付けるように、足の裏でなでるように。
なんてみじめなのだ。
鉄子...幻滅しただろう。早くここから立ち去ってくれ。
しかしそんな思いはすぐに打ち破られる。
人を殴った音が聞こえた。そして頭の圧迫感が急に消える。
「...!?」
驚いて頭を上げる。そこには、頬を押さえて立ち上がる有田がいた。
反対側には怒りに顔が歪んだ鉄子。
ついに手が出てしまったのだろうか...。
「兄貴、先に手を出したんは向こうだす。もうやるしかありまへん」
「ダメだ鉄子、相手は多勢だ!勝てるわけがない!ここは逃げよう!」
パッと見ただけでも有田側には五、六人はいる。それに対してこっちは二人。それも僕なんて戦力にもならない。
「逃げるんなら兄貴だけで逃げてください!ここはわしが引き受けます!」
僕だけで逃げる...。いや、それなら出来るかもしれない。
女の子を置いて逃げるなんて、男の恥だ。いや、今更気にするような恥もない。
そんなことをしていいのか。いや、鉄子だってそうしろと言っている。
有田は僕を見逃すだろうか。いや、あいつのターゲットは鉄子だ。
頭の中で自分を正当化する声が浮かんでくる。
僕がいたって邪魔ものだ、逃げた方がむしろどっちにも都合が良いのだ、
だが、僕の足は動くことを許さなかった。
逃げるべきではないと、僕に最後に残されたプライドがそう命令しているように。
「おいお前らァ!このクソガキぃ袋にしろ!」
有田の号令と同時に周りの部員たちも動き出す。
鉄子の背後にいた部員がその首を掴もうと向かってきていた。
しかし鉄子は咄嗟に振り向くと同時に蹴りを入れる。回し蹴りだ。
その隙を狙ってまた一人部員が向かってくる。
そして今度は肘打ちで撃破、見事に腹の中心にあたったようだ。
さらにその部員に追い打ちのパンチ、顔面に当たって吹っ飛んでいった。
「...なんやこんなもんかい」
僕はただ茫然と見ているだけだった。
逃げろといわれたのに、逃げようとしていたのに、
部員たちを相手に格闘する鉄子を見ていることしかできなかった。
「図に乗るなよ桜井鉄子ォ!」
有田も鉄子を目掛けて殴りかかってくる。正面からの攻撃だ。
しかし鉄子はその攻撃を躱し、さらにカウンターを叩き込む。
股間への膝の一撃。想像するだけでも苦痛だ。
「~~~~~ッ!」
有田の声にならない苦痛が響き、そのまま倒れこむ。
もはや周りの部員たちも、鉄子に圧倒されていた。
誰もが桜井に立ち向かうことを恐れていた。
「死ねアマぁ!」
しかし、その中にも恐怖に強いものがいた。
部員の一人がどこから拾ってきたのか、角材を持って鉄子に殴りかかってきた。
背中に一発、初めて当たった攻撃だ。しかしその一撃が流れを狂わせていく。
「おいお前らァ!こいつに容赦なんかいらねぇ!徹底的にやれぇ!」
起き上がった有田のその一言で、部員たちの士気がさらに上がっていく。
一発と言えど角材の一発だ。さっきまでの桜井のペースとは違う。
徐々にではあったが、鉄子は押されている。
「...く...」
一人、大柄の部員がいた。
その男は鉄子の隙を付き、後頭部をわしづかみにする。そのまま地面に叩きつける気だ。
しかし鉄子も負けじと踏ん張っている。しかしこれもあからさまな隙だ。
ここを狙わない人間はいない。角材を持った部員が、今度は鉄子の足を狙っている。
それを見た瞬間、その男に向かって僕の足は動いていた。
「だぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
僕のタックルは角材持ちだけではなく、大柄の部員をも巻き込んでいった。
貧弱だったが、必死のタックルだ。大柄の部員は足のバランスを崩し、鉄子の力に押されていった。
「兄貴...!」
安心したのも束の間だった。有田に後ろから蹴られ、僕は倒れこむ。
「イモ引きが出しゃばるんじゃねぇよ...!」
有田は僕に馬乗りになっていた。まさに今にも殴りかかられそうだ。
「兄貴ッ!」
「桜井鉄子ォ!こいつが痛い目に遭わされたくなかったら、今すぐ土下座しろぉ!」
しまった、人質になってしまった!...いや、大丈夫だ。
「ダメです有田さん!」
「あァ!?」
その声で辺りは一変して静かになる。いや、静かではなかった。
その音が、警察のサイレンの音が近くで鳴り響いていた。
「サツ?いつの間に」
「その阿呆が呼んだみたいです」
そうだ、僕だってただ見ているだけじゃない。...まぁ呼んだのはついさっきではあるが。
「この野郎、意外に抜け目がねぇな。一発お仕置きしてやらぁ!」
有田の拳が側頭部に打ち込まれる。しかしそれだけだった。
賭博部の部員たちはそそくさとその場を立ち去っていく。
「兄貴、わしらもとっとと帰りましょう。サツに見つかったら面倒くさいでっせ」
「あ、ああ!」
僕は鉄子に言われるがまま家に連れられた。その頃にはもう辺りは暗くなりつつあった。
やけに大きな雲がかかっていたかと思えば、いつの間にか雨が降っていた。