兄貴と呼ばせてつかあさい
…
ある日の公園。
日は沈みかけており、空がオレンジ色に染まっていた。
そんな空の下で、オレの横に一人の女の子が俯いて座っていた。
見かけない女の子だった。気弱でおとなしそうな雰囲気だが、おかっぱ頭につけられた牡丹の髪飾りは嫌でも目を引いた。
だが、何よりも今にも泣き出してしまいそうなその表情に、オレは見て見ぬフリはできなかったのだ。
「友だちが最近遊んでくれません...みんながわたしから離れていきます...先生も、みんなも、わたしのお父さんのことを悪く言って離れていって...」
離れていくなら引き止めればいいじゃないか、押しかけて輪に混ざればいいじゃないか。簡単なことだとそいつに言うが、それでもその表情は変わらなかった。
こいつはオレとは違う。オレはこいつの心が分からない。でもこいつの曇り顔をどうにか晴らしてやりたい。これは善意じゃない、男の意地のようなものだ。
「だったら、オレがダチになってやる!」
頭で考えるより先に口から飛び出していた。だが、それでもその表情は変わらない。
「あなたも、どうせいつかわたしから離れていきます...。わたしが怖いって...」
何かカチンときた。舐められたような気がした。
「お前みたいなめそめそしたやつのどこが怖いんだよ!それに、オレに怖いもんなんてねぇんだ!」
「だってみんなお父さんのこと怖がるんだよ!わたしのお父さんは怖い人だって言うんだよ!」
間髪を入れない返事だった。泣かせまいとしていたが、もはやその目には涙が浮かんでいた。
「おめぇのお父さんなんて知ったことかよ。オレとお前は友だち、会ったら遊ぶ、困ったら助ける、それでいいじゃねぇか」
こいつの周りは何をそんなに怖がっているのか。友だちなんてそんなものだろう。
何も考えずに言った言葉だったが、そいつの目は見開いていた。鳩が豆鉄砲を食らったような顔とはこのような顔を言うのだろう。
その目に浮かんでいた涙はついに頬を伝い、地面に落ちていった。だがその水滴は夕日に照らされて煌びやかに見えた。
「だったら、あなたはずっとわたしの傍にいてくれますか...?」
「ちげぇよ、お前がオレの傍にいるんだよ」
たわいのない返事に、そいつはクスッと笑う。始めてみるそいつの笑顔だ。そういえばこいつの名前を聞いてなかったな。
「そういえば、お名前はなんていうのですか?」
そんなことを思っていたら、先にそいつから尋ねられた。確かに声をかけたのはオレからだ。オレから名乗るのが筋なのだろう。
「オレか、オレの名前は...
…
「広能はん、起きてください」
体をゆすられ、徐々に目蓋が開く。
僅かに空いた目に、窓から陽光が眩しく入ってくる。
久方ぶりの早起きだ。何か懐かしい夢を見ていた気がする。
ふとゆすられた方向を見ると、神木鳴高校の制服を着た桜井が座っていた。
……そういえばこの娘の頭にも、牡丹の髪飾りがついている。
二度寝をしたい気持ちを押し殺しながら、目を擦りながら体を起こし、脳みそを起動させる。
「朝食出来とりますので、どうぞ召し上がってください」
桜井はそういって立ち上がると、廊下の階段を降って大広間へと向かった。
そこでようやく僕は、自分より年下の少女に寝姿を見られてしまったことに気が付く。
恥ずかしく思いながら、頭の寝癖を直し、クローゼットから出した適当な服をシャツとブリーフの上に着てから僕も大広間に降りた。
…
朝食を済ました頃には、いつもの登校時間まで十分程度となっていた。
僕は自分の部屋に戻り、いつもの制服を身に着ける。
しかし何故だろうか、二年前から変わらない制服のはずなのにいつもより綺麗で、体にフィットするような着心地だ。ワイシャツも透き通るように白い色を放っている。
あの桜井のことだから、ひっそりと僕の制服をクリーニングしてくれたのだろうか。考えすぎかもしれないが、していないとも思えない。
一応のお礼を言おうと大広間に戻ると、桜井の制服姿が目についた。
神木鳴の女子制服は黒を基調としたセーラー服だ。胸のリボンは一学年に一色用意されており、今年の一年生は赤色だ。桜井が自分より年下だというのがはっきりと分かってしまう。
しかし何より目立つのはそのスカートの丈だ。規定をはるかに超えて長く、くるぶしまで伸びている。一昔前のスケバンのようだ。
「ず、随分長いスカートだね...」
思わず声をかけてしまう。
神木鳴の制服規定は緩いので容認されるであろうが、しかし嫌にも目立つそのスカートは学校中から浮いてしまうこと間違いないだろう。
「わし、短いスカートは足がスース―して落ち着かへんのだす。それに学校規定のスカートは丈が短すぎてはしたない思うとります」
確かに神木鳴の規定ではスカート丈は太ももの真ん中あたりだ。それでもスカートの丈を伸ばすという選択をするのは中々に珍しい。
「そういえば桜井、僕の制服をクリーニングしてくれたのかい」
そういえばお礼を言うのだった。忘れないうち言っておかねばならない。
「ええ、広能はんにはパリッとした制服着て、存分に男を売ってもらいますよって」
そこまでしなくてもいいのに、という言葉が浮かんできたがそれを言ってもどうしようもない。どうすればこの心遣いに応えられるだろうか。
「ありがとう、大事に使うよ」
脳みそから捻りだしたのは、この程度の何の変哲もない返答だった。しかし、桜井の顔が少しにこやかになったような気がした。
時計を見ると時刻は八時を回っていた。そろそろ家を出なければ電車に間に合わないだろう。
ふと通学鞄を探すと、いつのまにか桜井が二つの鞄を手に提げていた。
「あ、僕の鞄...」
「鞄持ちさせていただきやす」
僕の言葉を遮るように食い気味で返答された。たぶん梃子でも譲らないだろう。昨日の出来事で身に染みて分かっている。
年下の女の子に鞄を持たせて通学するなんて、こんなところを学校の人たちに見られたくないな。
そう思ってはいるが、内心ではもう諦めがついていた。こんな僕にいまさらつぶれるような面目なんてないだろう。
靴を履こうと下に目を向けると、いつもよりローファーがピカピカしている。まさか靴も磨いてくれたのだろうか。
何故こんな僕にそこまで世話を焼くのだろう。彼女の何が、或いは僕の何がそうさせているのだろうか。
桜井は玄関扉を開け、「どうぞ」というように僕が扉をくぐるのを待っていた。
一つ、また一つとお礼を言いながら僕は外に足を踏み出した。
…
朝の住宅街は春の陽気に包まれ、穏やかな空気に包まれている。
かすかな風にそよぐ桜の木々が見ていて心地いい。
しかしそんな心地よさも、駅に足を踏み入れると消え去っていく。
住宅街の駅といえど、通勤、通学中の人たちで駅はごったがえしている。
一たび強い風が吹き、奥に見える木々が騒めく。
到着した電車の中もヒト、ヒト、ヒトで溢れ、ホームにいるとき以上に混雑していた。
僕はこの人混みが少し苦手だ。というか、誰だって苦手だろう。思わず表情が歪んでいくのが分かる。
一方の桜井は、僕の鞄も持っているというのに、平然とした顔で立っている。電車の揺れにも超然とした様子で窓の外を見ているようだった。その姿はやはり年下には見えない。
満員電車から解放され、残る学校へと続く一本道に差し掛かる。すると、見慣れた人影がこちらにやってくるのが分かった。
「よぉ広能の兄ちゃん、今日はちぃーとばかし早いんじゃないかい?」
「おっす、広能!ん、誰だその娘?」
僕のことを兄ちゃんと呼んだのはクラスメイトで友人の大友虎美だ。兄ちゃんと呼んでくるが、この娘は別に妹でも何でもなく、兄貴分と慕われている訳でもない。ニュアンスとしては陽気なおじさんが僕のような若い人に「兄ちゃん」と呼ぶようなものだ。
一方で桜井について尋ねてきたのは同じく友人の形山喜一だ。中学校からの腐れ縁で、何かとウマが合うので一緒にいることが多い。
「なんだい兄ちゃん、あたしらに無断で彼女でも作ったのかい?隅に置けねぇ男だねぇ」
「彼女じゃないよ!この娘はうちに下宿しているんだよ!」
虎美の邪推に取り乱し、思わず強く反論する。しかしそのせいで、虎美や形山の口がニヤついてしまう。
「お初にお目にかかります。昨日から広能はんの住まいに厄介にさせてもろうてます、桜井鉄子だす」
しかし、桜井の挨拶に形山も少し面食らったようだった。しかし虎美は慣れた様子だった。
「お、おう。俺は形山だ、よろしくな!」
「あたしは大友虎美っつーもんだ!広能兄いのこと、しっかり男にしてやれよ!」
虎美だけは何かまだ勘違いしているようだったが、あまり気にしないようにしておこう。
「しっかし鉄子ちゃん、その赤いリボンを付けているっつーことはもしや一年生かい?」
「ええ、今年から神木鳴高校に通うことになりやした」
「桜井さんって俺らより年下なのかよ!むしろお姉さんに見えるぜ」
やっぱりそう思うだろうな。僕の目がおかしいわけではないらしい。
「っつかよー広能、お前鞄はどうしたんだよ?」
形山が手ぶらで歩く僕を見て尋ねてくる。
「・・・あー、見ての通り」
少し恥ずかしくて答えにくかった。あえて言葉にせずに、僕は目線を桜井の手元に向ける。
「おいおい、いくら下宿させてるからって鞄持たせるのはどうなんだよ広能?」
「兄ちゃん、さすがにそれは不格好なんじゃないのかい?」
耳が痛い。僕だって好きで持たせているわけではないのだ。
「お気遣い有難うございます。ですがこいつはわしが進んでやっていることやさかい、広能はんを責めんでください」
桜井は毅然とした表情でそう答えた。虎美たちも桜井がどのような人間なのか分かったようだった。
「おいおい兄ちゃん、ありゃ相当の頑固もんだぜ。あまり世話を焼かせねぇようにしろよ」
「あはははは...。実はもう遅かったりして...」
虎美の耳打ちに微妙な表情で返答する。やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
しかしそれをきっぱり言ってしまえば、昨日のように指を詰めようとするかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていると、ついに我らが学び舎 神木鳴高校に到着する。
…
僕は三年生であり、桜井は一年生だ。当然教室も違う。
階段で桜井と分かれた僕は、何か緊張から解き放たれたように教室の机の上に倒れこんでいた。さすがに学校の中でまで世話を焼かれることもないだろう。というかどのように世話を焼くというのだろうか。
そう思っていたのだが...。
「広能はん、お茶を淹れてきやした」
始業式後の休み時間、そういって桜井は温めよりも少し熱い、ちょうど良い温度のお茶をお盆にのせて教室までやってきた。
一体いつ淹れる暇があったのだろうか。教室の人たちからの驚いた視線が痛い。
だが、桜井の世話はお茶淹れだけには留まらない。
「広能はん、肩を揉ませてつかあさい」
そういって肩を揉み始めてきた。力加減が丁寧で心地良い。あっ、いいとこに指が入ってくる。
三年生の男子が一年生の女子に肩を揉ませているという構図でなければ、衆目にさらされていなければどんなに気持ちよかったか。
「広能はん、弁当作ってきやした。良かったら召し上がってください」
美味しい、絶品だ。朝ごはんといっしょに作ってくれたみたいだ。感謝してもしきれない。まるで桜井はお母さんのようだな。
...なんて自分は情けないのだろうか。年下の女子にここまで世話されて...。
「なぁ広能、やっぱお前ら付き合ってんだろ?」
ついに形山が広能に問いかける。
「桜井とは昨日会ったばかりだよ?そんな一日そこらで付き合うわけないでしょうに」
「でも兄ちゃんら、同じ屋根の下で、同じ釜の飯食って寝たんじゃねぇか?付き合ってるみてぇなもんだろ?」
言われてみればそうだ。そういうことを勘ぐられるのも仕方がない。
「大友はん、あまり踏み込んだ勘繰りはよしてくださいや。わしらそういう関係ではあらへんよって」
桜井が虎美に対して反論する。いつもと違って強い口調だったのが不思議だった。
思わず虎美も面食らったようで、いつになく素直に「すまん」と謝った。
…
そして今日の授業が全て終わり、僕たちは帰路につこうとしていた。
学校の正門には桜井が僕を待ち構えている。
「お勤めご苦労様です!」
周囲にも聞こえるようなはきはきとした声で礼をされる。周りの人間がクスクスと笑っているのが聞こえて、複雑な気分となってくる。
さすがにもうやめてほしいが、昨日のアレを思い出すとそんなことも言いづらい。
しかし、何故そこまで僕に付き纏うのか。何故そこまで僕を気にかけるのか。
明らかに下宿人の身分だからという理由だけではない。それ以上のことをしてもらっている。
「桜井、君はどうしてそこまで僕を世話してくれるんだ?」
考えるより前にそんな疑問が口から飛び出した。迂闊だったかもしれない。
だが、今朝見た夢が嫌に頭の中にちらついていた。
空から西日が差し込み、若干オレンジ色を帯びてきていた。
桜井が何か深呼吸するようなそぶりを見せると、
「広能はん、下宿人の身分で出過ぎたことですが、お願いがあります」
やけに真剣な眼差しだった。仁義を切ったときよりも、体を貫くような視線を向けてきた。
「わしを舎弟にさせてくれまへんか!」
突然の言葉だった。
舎弟?どういうことだ?というか女の子なのに舎弟なのか?
数々の疑問が頭の中で浮かび上がる。何から聞けばいいのか、どこから言えばいいのか、それらの疑問が頭の中で渦のように回転していく。
「な、なんで舎弟...、っていうか会ったばかりじゃないか。いきなりそんなことを言われても...」
何か返答しようと、必死で捻りだした言葉だった。しかしそんな他愛のない疑問も、桜井が次に発した言葉にかき消される。
「会ったばかりではありまへん」
会ったばかりではない?この娘とどこかで会ったことが会っただろうか。疑問が疑問を呼んでいく。
いや、心当たりがない。いや、何かを思い出せそうで思い出せない。
「ご、ごめん、どこかで会ったかな...?」
記憶の断片を辿ろうと、桜井に訊いてみる。何か思い出せるかもしれない。
「すいません。忘れてくだすって結構だす」
桜井は俯いたようにそう答える。校舎の影でよくわからなかったが、暗い表情をしていたようだった。
「ですがせめて、これから兄貴と呼ばせてくれまへんか?」
やはり、桜井の中で「兄弟」というものに何か拘りがあるようだ。
兄貴...か。
僕は一人っ子だったから、兄弟というものに憧れが無かったわけではない。
だが、自分に兄貴たる器量があるかどうかには自信がない。いや、あるわけがない。
ましてやこの桜井の兄貴分になるというのは、僕には役者不足が過ぎる。
「僕に桜井の兄貴分としての器量なんてないよ」
「わしが勝手に呼ぶだけだす!それでもアカン言うんでっか?」
アカン、とは言っていない。しかし勝手に兄貴と呼ばれるだけ...か。
そんなことを認めれば、今よりもさらに衆目にさらされるだろう。
いや、もう諦めはついた。体裁を気にするのはもうやめよう。ありもしない面目なんて無価値だ。
「分かったよ。好きに呼んでいいよ」
そう、これでいい。もう、これでいい。何か吹っ切れたような気分だ。こんな自分でも兄貴だと慕う人間がいるのだ。ならこのままでいい。
「有難うございます、兄貴。」
「その代わり、僕も桜井のことは鉄子って呼ぶからね」
こうして僕たちは帰路についた。