第23話 シンギュラリティ・オレンジ-1
ラインゼル軍機関、防衛要塞。その眼前に広がる荒野では、帝国軍による侵攻作戦と、それを迎え撃つ王国騎士団の防衛戦がなおも続いていた。
しかし――本来、国家の命に従って戦っているはずの兵士たちは、長時間この戦場に留まるうちに、次第に常軌を逸した行動を取り始める。
正気を失い、敵味方の区別すらつかぬまま、本能のままに武器を振るう者たちが続出していた。彼らの誰もが、うわ言のように同じ言葉を繰り返す。
〝影がいる〟と。
『ケレス騎士団長! 北東、フィエロレンツ聖海にて、正体不明の巨大物体を確認!!』
「こちらでも確認した!」
荒野の前線で白部隊の指揮を執っていたケレス騎士団長は、通信とほぼ同時に、それと同一の存在を見上げていた。
周囲の森や山を優に突き抜ける、巨大な漆黒の甲冑。
その造形は、大陸の誰もが知る《救世主》の伝説、彼に封印された《影》――大精霊アンクサリスを形容する一節を、そのまま形に現したかのような姿だ。
空を覆う雲は、その巨躯に引き寄せられるように暗く重なり、空全体が異様な密度で満ちていく。
そして、黒き巨影の全身からは常に不吉な色の霧が滲み出し、戦場の上空には、この世のものと思えぬ色が広がっていくばかりである。
『王国本部より通達。フォルティリゼイナ帝国大本営から、正式に戦闘停止および撤退命令が発令。
一部の帝国軍部隊も、すでに撤退を開始している模様』
新たにケレス騎士団長のインカムへ入った通信は、軍機関要塞内の情報管制部からのものだった。
もとより王国と帝国本土の政府間では、外交官同士による交渉が続いており、双方とも本格的な戦闘の回避を望む姿勢で一致していた。その旨が戦場の帝国軍兵にも正式に伝えられたのだろうが――
この異常な光景を目の当たりにした兵士たちも、早急に撤退すべきだと判断を下したのだろう。
「騎士団長! 新たに五名、戦闘続行困難と判断!
全員が突発的な幻覚と激しい動悸、吐き気を訴えています!」
『こちら第二部隊でも、同様の症状が数名確認されています!』
「……また増えたか。救護技能を持つ者は、ただちに応急処置を!
援軍の到着は間もなくだ、それまで何とか持ちこたえろ!」
傍に控える白部隊の騎士、さらに別の通信からも、現況報告が矢継ぎ早にケレス騎士団長の耳へと入る。
ただちに指示を飛ばすものの、状況は加速的に悪化している。焦燥を隠しきれず、騎士団長の表情にも険しさが浮かぶ。
「このままでは戦争どころか……こんな荒野で共倒れの、屍の山になるぞ……!」
はっきりと口にはしていないものの、騎士団長を含めた皆、悟っている。これは黒影病の症状だ。しかもほんの数時間で急速に悪化している。
この戦場にいる多くの兵が一斉に発症すれば、今すぐ撤退を始めたところで、全員が荒野を抜け出せる保証はない。万が一、間に合わなければ、その結末は……まさに無数の屍が折り重なる地獄絵図だ。
しかし一秒たりとも遅れをとるわけにはいかない。次に打つべき手を講じようとした、その時。
「西方、軍機関要塞側より車輌が接近中、友軍識別マークを確認!」
部隊の騎士が声を上げた。
報告された方角を振り向くと、黒く無骨な輸送車が戦場を突っ切って疾走してくる。
車体は砂塵を巻き上げながら急停車し、タイヤが地面を滑らせるスピンと共に停まった。すぐさま後部ドアが勢いよく開く。
「こちらエスペル教団、武器の補給でぇす」
「この『神具』で、戦場に充満した《影》のエネルギーを打ち消せます!」
中から顔を出したのは、青年と少女の二人――エスペル教団の少年兵、ラスティとサギリだ。バロディノーギア王城でのブリーフィングにも立ち会っていた姿を思い出す。
車両からは大人の教団兵たちも次々と降車し、荷台から武器を満載した箱を手際よく運び出す。
箱の中には、神具と呼ばれた武器がずらりと収められていた。
神語――それは神の力が宿る文字であり、千年前の《影》の災厄にも効力を発揮した聖なる力。
そしてこの神具は、エスペル教団が独自に開発した術式兵装であり、神語の発動を簡易化し、実戦投入を可能とした貴重な装備だった。
一人の大人の教団兵がケレス騎士団長の前に歩み出る。
「ダズフェルグ司祭の要請、並びにナタリーザ副司教の緊急承認を受け、
我らエスペル教団は保有する神具を王国騎士団へ供給し、支援にあたります。
また、戦闘支援および浄化活動のため、我々自身も援軍として加勢いたします!」
彼の声は静かにして力強く、教団の覚悟を示していた。
ダズフェルグ司祭ーーリオウによる働きかけと聞き、ケレス騎士団長はブリーフィングでリオウが言っていたことを思い出す。
教団も王国に全面的に支援すると言っていたが、通常、宗教組織であるエスペル教団が軍事衝突の現場に出動するのは異例のことだ。
だが今や戦場は災害現場と化しており、《影》の浄化や負傷者の救命といった分野において、彼らはまさに専門のプロフェッショナルと言える。
これほど迅速に承認と出動が整えられたことに、教団内部もまた早急な尽力がなされていたのだと実感させられる。
「多大なる助力、心より感謝する。
すでに両軍とも撤退に転じている。まずは負傷兵の救護を最優先に願いたい」
向き合う教団兵に、ケレス騎士団長は真摯に礼を述べ、彼らの加勢を受け入れた。
『こちら緑部隊、V25。軍機関防衛ラインに合流しました』
『赤部隊R81、同じく転移完了し、防衛ラインに合流中です!』
ケレス騎士団長のインカムに、共有回線からほぼ同時に通信が飛び込む。
この声は、襲撃の首謀者・カーサー元帥を追っていた緑部隊のフーゴ、そして王国の大精霊の治癒任務に就いていた赤のヴィッキーだ。
それぞれの任務を成し遂げ、今や《影》の影響で混迷を極める戦場へと合流している。
援軍が、続々と戦場の荒野に集いつつある。
『騎兵隊を白部隊の支援に向かわせました。
自分は、人手の足りない北東方面の援護に回ります』
フーゴの声が、さらに続報として届く。その判断にケレス騎士団長はすぐさま反応し、眉を顰めた。
「北東だと……? あそこは巨大物体の至近距離だ。不用意に接近すれば、飛散物の影響を受けるぞ!」
『わかってますよ、そんなこと!!』
なりふり構わぬように声を荒げたフーゴの応答が返ってくる。
『ガキがもっと危険な最前線で戦ってるんですよ!
俺たち騎士が前に出なくてどうするんですか!!』
フーゴの言葉に、迷いはなかった。彼の言う『子供』の意味を、ケレス騎士団長も理解している。
少し前赤部隊のヴィッキーからの報告で、大精霊の治癒に成功したこと――その大精霊と王女リン、そして大星座の子供たちが、あの漆黒の巨大物体を止めるため、直接戦闘に向かったことが伝えられていた。
すぐ目の前でも、教団の少年兵たちが大人に混ざって駆り出されている。奇しくも、この荒野に跋扈する氷人形すら、子供の姿をしている始末だ。
この戦場を動かしているのは、子供たちであることは確かだ。
そんな現状に、フーゴは民を守る騎士としての本懐を問い、子供だけに背負わせることを潔しとしなかったのだろう。
インカムを通して、彼の愛馬が一直線に荒野を駆ける、力強い蹄音が響いていた。




