幕間01 Turtle soup
現代日本。七月中旬某日、某市。
児童心理司の小田央は、保護施設の面会室で一人の少年と向かい合って席についていた。殺風景な白い壁に、窓から差し込む夏の日差しが鮮烈に焼き付き、対照的に室内の陰を濃くさせる。窓の外には青空が広がり、蝉の鳴き声がしきりに響く。
それでも目の前の少年は沈黙したままだ。
少年の本来整っている顔立ちは、酷くやつれている。公的機関に出向くためか、学校の夏服の白い半袖ワイシャツと紺色のネクタイ、グレーのズボンを着ている。やや長めの焦茶の髪がかかった蜂蜜色の目は、よく眠れていないのがわかるくらいに虚ろだ。その顔を見ただけで胸が痛んだ小田は、眼鏡をかけ直しながら彼の名を確認する。
「旧倉正由くんですね」
「…………はい」
蝉の声に掻き消されそうなほど小さく掠れた声で、彼は答えた。
旧倉正由。十六歳。高校一年生。一般家庭の四人家族の長男。
勉学もに運動にも真面目で成績が良く、社交性もあり友人にも恵まれている。模範的な高校生活を送る好青年。周囲の人々はそう言っていた。
通報を受けた時、彼はひどく錯乱していた。その通報内容は彼とは別の所で起こった出来事だったが、関係者として調査を受けた際に彼は極度のパニックを起こした。
誰に問われるでもなく「俺のせいです」「俺がやりました」とばかり繰り返し、やがて過呼吸によって意識を失い病院に搬送された。体調が落ち着き、会話が可能になってからも同様の言葉を口にしている。
俺が殴りました、と。
事件があった前の晩、彼は弟と兄弟喧嘩になり、手を上げた。中高生の男兄弟なら殴り合いになることは珍しくないし、喧嘩がきっかけでそのまま片方が家を飛び出し……ということも、通報を受ける職業柄日常茶飯事だ。
しかし彼は些細な喧嘩をすることはあっても、弟を殴ることはそれまで一度もなかったと、周囲の人々は言う。それどころか男兄弟にしては実に仲が良く、溺愛と言えるほど弟に優しかった。そして弟も彼をとても慕っていた。
それでも、理性と感情に圧迫されるこの年頃になって初めて手が出てしまったというのは、やはり珍しくない。本人にとっては強いショックの残る経験にはなるだろうけれど。
だが、今回の件において重要なのは、その兄弟喧嘩の後に起きたことだ。
そしてその時〝何が起こったのか〟は、正由自身も知る由がない。弟本人にしかわからないというのが現状だった。
ただそれが起きた原因は自分が殴ったせいだと、彼は誰よりも強い自責の念に駆られていた。今現在わかっている事の時系列を考えれば、そう感じても仕方ないと、客観的にも思うが。
小田は調査が進むうちに上がってきた報告を受けて、今回の事件はただの兄弟喧嘩の殴り合いではなく――もっと前から深刻な状況が発生していたことを知る。それも、弟側を取り巻く問題だ。故に兄の正由だけを追及しても解決にはならない。
もちろん彼からも事情聴取をする必要はあるが、小田の役目は事件によって精神が壊れかけてしまったこの少年をカウンセリングすることだ。
手を上げてしまうまでの経緯に、家庭内の問題があったとしたら。もしくは今回の件によって家での生活が困難になったら。小田の組織が彼の今後の身のふりを検討することになる。
「ほとんど眠れていないみたいですね。辛くなったら無理をせずに、中断しますから」
「……まぶたを閉じるのが……怖くて……」
当時の光景と、最悪の想像が、鮮明に浮かんでしまうから、と続くのがわかった。
「まぶたを閉じたり、眠ろうと強く考える必要はありません。今は体やまぶたの力を抜くだけで大丈夫です。僕の話も、話半分でぼーっと聞いてください」
小田は正由にそう促した。体調が回復するにつれ、発言が変わることもあるだろう。それを踏まえたうえで、事件直後にどれほどの精神的ショックを受けたかを確認する必要がある。
「答えたくないことは、答えなくて大丈夫です。何があったか思い出せますか?」
「……俺が……弟を、殴りました……」
「どうして殴ってしまったか、言葉にできますか?」
「弟が……同級生と揉めて……怪我をさせて……だから、それはいけないことだって……ちゃんと教えようとした……でも、何を言っても〝俺が悪いんじゃない〟って、そればっかりで……」
正由は記憶を辿り、言葉に変換するように、とつとつと話す。
「その時は……俺達の噂が広まってるのが、俺も知ってて……中学の時もあったけど……でも、馬鹿にされるように言われたのは、最近になってからで……あいつが中等部に入学してから……」
正由達兄弟の学校は、中高一貫の学校だ。元々正由が中等部から通っており、彼が高等部に進学したのと同時期に弟も中等部に入学してきた。
「……どんな噂だったんですか?」
「……俺達が……血が繋がってない、って……〝お前の弟、捨て子なんだろ〟って……」
カウンセリングの一環として仕方ないとは言え、本人に口にさせるのは、小田も心が痛んだ。目を逸らすわけではないが、小田は机の書類に視線を落とす。
正由の言った通り、彼らは現在の戸籍上は同じ姓の兄弟となっているが、血の繋がりはない。旧倉家の実子は彼――正由のみで、弟は養子であった。
弟は実の親に捨てられた子供で、正由達は捨て子を拾った気味の悪い家族。額面通りの、絵本でも読んでいるのかと言いたくなるニュアンスの、稚拙な噂。
世知辛いことだが、それもよくある話だった。他人の事情を探りたがる下世話な大人と、子供の好奇心で広められていく。刺激的な話がしたいがためだけに、罪を犯したわけでもない者が標的にされ、傷ついてしまうのだ。そうして正由も追い詰められていた。
「だから……嫌な気持ちになることが増えて……なのにあいつ自身が後ろ指差されるようなことして……やめろって言っても聞かないから……」
――殴ってしまった。一度だけでなく何度も。報告の内容と重ね、小田は悟った。
「あいつ謝ってたのに……その時の俺は……何でか止められなくて……気付いたらやめてたけど……そのまま自分の部屋に戻って……寝た……」
それが、事件が起きる直前の、彼が知り得る出来事。そこから先は彼も知らない時間の中で、事件が起きた。
「……そしたら……あいつが……朝になったら家から……いなくなってて……」
次に彼が弟の所在を知ったのは、通報を受けて弟を発見した警察が家に来た時だった。
不意に正由が口元を押える。嗚咽を堪えるように、そして吐き気を堪えるように。顔色が酷くなっていく彼を見て、小田は咄嗟に席を立ち正由の側に回って背中をさする。
「話してくださってありがとうございます。無理はしなくて大丈夫ですから」
今はこれで十分だろうと、小田はカウンセリングを中断した。休憩を挟んで回復すれば再開しようとも考えたが、その日の正由の体調は優れないままだった。
小田はカウンセリングを切り上げ、別室で他の職員と相談をしていた正由の母親を呼び出し、彼らを家に帰した。
警察の調査で上がってきた報告と、正由の返答は概ね一致していた。
あとは事件が起きた張本人、正由の弟だけが真実を知っている。
正由の弟――旧倉愛由。
十三歳の中学一年生。先ほど言っていたように、今年正由と同じ学校の中等部に入学した。
そして夏休みに入る一週間前に、彼の身に事件が起きた。
不幸中の幸いと言うべきか、彼は一命を取り留めた。しかし、警察や家族が彼に話を聞けるのがいつになるかはわからない。
もしかすれば、一生聞けないかもしれない。
愛由は今、病院のベッドにいる。
一定の心拍数を刻む機会音と人工呼吸器の音だけが、彼の眠る病室に響いていた。
――幕間01 Turtle soup




