第12話 名前のない朝-3
三人を乗せたキュロイトが、光の中から舞台の会場へと戻ってきた。あれだけ煌びやかだった会場は、今や一面が夜の闇に落ちている。
『動ける者はもう残っていないようだ』
キュロイトが周囲の魔力を感じ取る。脱出が叶わなかった者の姿がはっきり見えないのは、ある種幸運なのかもしれない。
キンディス達がキュロイトの背から降りると、不意にキュロイトの体が淡く光出す。
『私が実体化していられるのはここまでだ』
転移する時に説明された通り、キュロイトは形ある白馬の姿からエネルギーに戻りつつあった。
キュロイトがキンディスの方へ向いて言う。
『私と其方は契約の刻印で常に繋がっている。其方が呼べば私の力を引き出すくらいはできるだろう。……今しばらくは、互いに休息が必要だが』
「ああ。ありがとう、キュロイト」
『……初めてにしては、よくやった』
キンディスがせめてもの礼を告げる。人間の礼儀が通じるかはわからないが……と思っていたが、キュロイトは想いを汲んだかのような誉を返す。キンディスは少し意外そうに驚いた。キュロイトはユーリアの方にも振り向く。
『其方もよくここまで耐え抜いた。誇るが良い』
「……はい」
掛けられた言葉に、ユーリアは多くを語らずに受け止めた。大精霊という超然的な存在からの厚意に畏れを感じているのだろうか。キュロイトとユーリアは何かを理解し合っているようで、キュロイトが静かに頷いた。
そして、ユーリアに抱えられているカナに歩み寄ったキュロイトが、もう一度額を重ね合わせる。
カナの眠りを確認し、顔を上げたキュロイトは踵を返して三人から遠ざかる。最後にキンディス達の方へと振り返った。
『健闘を祈る』
そう告げて、キュロイトは光の粒となって霧散した。
これで本当に、キンディス達を守ってくれるものは何も無くなった。
ユーリアがカナを抱えて周囲を警戒しながら記憶の中の劇場の地図を辿り、キンディスもそれに続いて歩くと、壁際の倉庫の扉まで辿り着く。ユーリアは一度カナを床に横たえてキンディスに見守らせ、扉に手をかけてゆっくりと開いた。
中には何もいなかった。頭上にある窓から月明かりが差している。会場の騒ぎで物が散乱しているが、中に佇んでいる大きな大理石のテーブルの下は無事だった。
「……ここならなんとか」
ユーリアは一度戻って再びカナを抱え上げ、キンディスに倉庫へ入るよう促す。不幸中の幸いか、倉庫の前には大きな瓦礫が遮蔽物となって扉を隠していた。
「汚れてるけど少しだけ我慢して。今はなるべく眠らないと」
「……うん」
テーブルの下にくぐったユーリアがキンディスを招き入れる。彼女とカナが横たわっている床にキンディスも寝そべった。
この会場に……このアークレイアに、安全な場所などあるのだろうか。物が崩落してくるかもしれない。無防備な所に悪党や獣が乗り込んでくるかもしれない。ほんの数時間先のことすらどうなるかわからない。
今はただ……少しでも長く三人一緒にいられるよう、身を寄せ合って息を潜めていた。
「……誕生日プレゼントの話なんだけどさ」
静寂の中で、キンディスがぽつりと呟く。
「外の景色を見てみたいと思って、あいつが……アルズが言ってたように、昨日の夜、羅針塔の羅針盤を通して見たんだ。そこで見えた場所はこの大陸に本当に存在するんだって……」
問わず語りを始めるキンディスに、彼の右隣でまだ起きているユーリアが顔を向ける。
「だから……お前と、カナと、できるならフィルシュ達修道院のみんなも、いつか一緒にそこへ行って、あの時俺が見た景色を見て欲しいと思ったんだ……。つまりなんていうか……それが俺の欲しかった物……」
キンディスは少し照れくさそうに口ごもりながら言った。
「……でも……場所なんて関係なかった……俺一人で外に出たって意味がない……大事なのはそこにみんながいてくれることだったんだ……」
彼の言葉は次第にうわずり、啜り泣く声が混じる。
「みんな俺の誕生日を祝うために……ずっと準備して、集まってくれたのに……アークレイアがこんな滅茶苦茶になって気づくなんて……馬鹿だよな……」
キンディスが右腕を上げる衣擦れの音がした。その腕を顔に押し当てて、涙を隠した。
「あんたの口からそれが聞けて……あんたの護衛になれて……今、本当に幸せだわ……あんたの誕生日なのに、結局私が満足してばっか……」
ユーリアはおもむろに、左耳の三日月のイヤリングを外す。そしてキンディスの右手を取ると、自分の手と共にイヤリングを重ねた。
「こっち側はあんたが持ってて。誕生日プレゼント……いつか必ず、キンディスに届くように」
想いだけでも、約束だけでも彼と共に在るように。一対の片割れをキンディスに託すことで、ユーリアは誓う。
「キンディス、誕生日おめでとう。やっぱりアンタは、いつだって私達の希望よ。生まれてきてくれて……本当にありがとう」
全てが崩壊した瓦礫だけが残り、いっそ静かな疲弊の中でも、ユーリアは幸せに満ち足りた笑顔を浮かべ、キンディスに告げた。月明かりのような彼女の笑みがたまらなく優しく、暖かくて、キンディスの瞳から涙が溢れる。
「……ありがとう……ユーリア……ずっと一緒にいてくれて……」
啜り泣きながら答えるキンディスを左腕に、深い眠りについているカナを右腕に、ユーリアはより強く抱き寄せる。冷たい地面と空気の中では、互いの体温がいつもより密接に溶け合う。母に抱かれる幼子のように鼓動に身を委ね、キンディスとユーリアも眠りについた。
背中が、熱くて冷たい。けれどその痛みすら、頭の中でぼやけていく意識が覆っていく。ユーリアは己の体の異常を如実に、しかしどこか夢のように感じていた。
自分が受け入れているからか、不思議と恐怖はなかった。これがもしあの時――アルズの刃に貫かれてすぐに降りかかったものなら、後悔と無念に押し潰されていただろう。
それが今この時まで……キンディスを守り抜き、カナを救い出して、二人と一緒に眠りにつくまで時間を与えられたのは、限りなく恵まれた幸運だった。
――『其方もよくここまで耐え抜いた。誇るが良い』
キュロイトに手向けられた言葉を思い出す。キュロイトもすでにわかっていて、ほんの少しだけだけ時間をくれたのかもしれない。
あるいは、カナから波及したあの光を受けた時。記憶の奥底に眠っている、両親の抱擁のような――聖母の肖像画を見ている時のような温もりが体を包み、背中の痛みを掻き消した。
……そうだ……父と母は、無事にこの都市から避難できただろうか。ただでさえ父は足が悪いのに、母が介抱しながら逃げ切るのは容易ではないかもしれない。
もし無事でいてくれたら。それか……先に待っていてくれたら。キンディスとカナを守り抜いた自分を褒めてくれるだろうか。自分にとってこんなに誇れることはない。だけど、もしかしたら親不孝だと嘆かれるかもしれない。
残っている感覚で腕に力を籠め、ユーリアは両隣にいるキンディスとカナを抱き寄せる。
最後に二人と一緒にいられて、本当に幸せな気持ちに満ちている。これが、自分が選べる中で最善の最後だから。
きっとこの子達には、これから途方もない未来が待っているのだろう。それを支えられずに自分だけが満足して終わるなんて、やっぱりただの自分勝手かもしれない。
……それでも、せめて最後に、乞うてもいいだろうか。
私は、彼らにとって……聖母カーリャのような女性になれただろうか。
この先もずっと愛している。いつか彼らのことを愛してくれる人が現れてくれたなら、その幸せごと愛している。
だから今日を生き延びたことを、自分に誇りを持って、あなた達は生きて。
あなた達を必要としている人が、必ずこの世界に待っているから――
――カナ、
キンディス――――――
* * *
やがて、夜が明けた。
会場の扉が開かれ、差し込む光の中から一人の男の影が現れる。彼は瓦礫と静寂だけが残ったその部屋へと踏み入れていく。 ――オルダリオ・ダズフェルグ。エスペル教団の司教の名を持つ彼は、今はそれらに付随する物は一切持たず、ただ一人でこの場所に訪れていた。
慎重に中の様子を伺っていた彼の紅い眼が、二人分の魔力の気配を捉えた。その方向へ近づいてみると、倉庫の扉を発見する。慎重に開いてみれば、テーブルの下に隠れて寄り添いあう三人の子供が眠っていた。
真ん中に一番幼い少女――カナを挟んで、左に白い正装の少年――キンディス、右に一番歳上であろう少女――ユーリアが横たわっている。
リオウの気配を感じたのか、最初に目を覚ましたのはキンディスだった。上半身を起こすと見知らぬ男が目の前で膝をついており、彼はびくりと体を強張らせて怯えている。
「安心してくれ。僕は君達を保護しに来たんだ。他の住民も大多数は無事都市の外に脱出している」
落ち着いた声色でなだめるリオウに半信半疑になりながらも、キンディスは傍で眠っているユーリアに呼びかける。
「ユーリア、助けが来たって」
キンディスの声が倉庫の静寂を破る。だが、ユーリアは起きない。
「ユーリア、人だよ! なぁユーリア! 起きろって! ユーリア!」
キンディスの声は徐々に大きくなり、ユーリアの肩に手をかけて揺さぶる。会場に声が響いてもなお、彼を除く二人の少女は眠りから覚めない。
リオウは今一度、自分の眼を通してもう一人の少女、真ん中で身を丸めているカナを見る。彼女の体の中で魔力が淡く光っており、緩やかな寝息と共にただ純粋に――しかし相当深く――眠りについているようだった。そして最後にユーリアに視線を移し――
――リオウは愕然とした。
「待って、彼女は――」
静止するより先に、キンディスはユーリアの体に近づいて耳を澄ました。直後、一変して彼女の体から飛び退く。その表情はリオウよりも壮絶に、信じられないものを目の当たりにして目を見開いていた。
「……息……してない……し、心臓が、止まって」
体も声も震えながら、キンディスの顔がみるみる青ざめる。
「う……嘘だろ……なんで……ユーリア……! なぁ! ユーリア!!」
現実を受け止めきれないキンディスは再びユーリアの体に縋って強く揺さぶる。見ていられなくなったリオウは両手で彼の肩を掴み、ユーリアから引き離した。
「……彼女はもう……すまない……」
後ろから抱きすくめるように強く引き寄せながら、うなだれるリオウが絞り出すような声で告げる。何故ユーリアを初めて見る彼が謝っているのかも理解できず、キンディスは体ごと振り返る。
「なんで……なんでだよ!! 眠る前まで普通に話してたんだぞ!! なんでユーリアが……!! ……そうだ、心肺蘇生……! それか魔術で……!! アンタもなんとかしてくれよ!! なぁ!!」
今度はリオウの服を強く掴んで必死に訴える。現実を否定したい言葉の濁流に息が追いつかず、上擦った声は涙まじりになっていく。こみ上げた絶望がそれすらも飲み込んで、やがてキンディスはその場に泣き崩れて慟哭を上げた。
あまりに痛ましい少年の姿にリオウは胸が張り裂けそうになり、もう一度腕の中に彼を抱きしめる。テーブルから出てきた彼と、テーブルの影の中で動かなくなった彼女の光景が、二人の世界をはっきりと隔てているようだった。
瓦礫まみれの薄暗い闇――変わり果てた羅針塔の会場で、泣き叫ぶ少年の悲痛な声だけが響いていた。
「彼女は必ず……落ち着いた時に、もっと綺麗な場所へ弔う。それまでは絶対に誰にも見つけられないようにしておいたから」
リオウは左腕に眠ったままのカナを抱き抱え、自分のジャケットを羽織らせたキンディスの肩を抱いて支えながら立ち上がる。泣き疲れたキンディスはひどく虚ろな目をしていた。
あの後、リオウはユーリアの体が綺麗なままで保てるよう魔術をかけ、白いシーツがかかった台に彼女を横たえ、硬い扉の倉庫に封印の結界を施した。
「君とこの子も僕が絶対に守るから」
リオウに保護されることとなったキンディスは、それを拒みはしなかったが、納得しているのかも定かではなく、もはや思考する体力も残っていない。この場所に泣いて縋るほど幼くもなく、迷わず死を選べるほど老成もしておらず、まだ続いているだけの自分の命をどうすることもできないのだろう。
唯一、自分と同じく一命を取り留めたカナを助けてもらえるなら、ということが辛うじてリオウについていく動機になっていた。
三人は羅針塔の外、朝日が差し込む光の方へ踏み出す。
しばらく歩いていると修道院をあっけなく通過し、市街に差し掛かるにつれ増えていく巨大な瓦礫、骨組みの鉄、粉々の硝子、それらに広がる赤。リオウが言っていたように生き延びた人々はおおかた外へ脱出できたようで、視界に入らないようリオウが遮ってくれる〝それら〟は、それが叶わなかった者達だ。
これが、初めて自分の目で見た、外の景色。
……いやーー本当は、昨夜の生誕祭までは、もっと美しい都市のはずだった。
こんな景色にしたのは他でもない自分なのだ。
今にも崩れ落ちそうなキンディスの体を、リオウが肩に乗せた手で抱き寄せる。その手のひらの温度だけで――半ば引きづられる形であろうと――彼と共に歩き続けることができた。
都市だったものの残骸を、青空に昇る太陽が無防備に照らす。それでも、この場所が紛れもなく自分の故郷なのだ。一つしかない故郷の中を歩き続け、三人はアークレイアを後にした。
* * *
その後、キンディスとカナはリオウが宛てがった家に匿われ、〝仕事〟を切り上げてきたという彼と共に生活を送った。次に状況が変わったのは、数日を経てようやくカナが目を覚ました時。
彼女は記憶を失っていた。
具体的な原因としては、会場で魔物に襲われ左耳に怪我を負った時の頭部への衝撃と、それ以上に惨劇に巻き込まれたショックによるものだった。キンディスのことだけは変わらず認識できていたが、名前が口に出せない。心神喪失と失語症も同然の状態にあった。
キンディスも驚いてはいたがそれ以上の感情は見せず、むしろ憑き物が落ちたように、故郷のことを忘れて自分だけに懐くカナと穏やかに接していた。その表情の節々で、自分もそうなりたいと思っていたようだが。
時にはカナが、またある時はキンディスが一日中泣き喚くこともあり、そんな二人にリオウはずっと寄り添い続けた。
アルズに騙された経験からリオウのことも警戒していたキンディスだったが、彼は徐々に心を開き、あの生誕祭までのことを少しずつ明かした。
ある日のキンディスの部屋。窓から差し込む斜陽の中、キンディスとリオウは向かい合った椅子に座っていた。
「……もう嫌だ……」
キンディスの口から、生気の感じられぬ声が零れ落ちた。
「この先いつか大星座の力を使うのも……それでまたあんな風になるのも……大星座なんてもう嫌だ……!!」
彼の脳裏には、リオウの想像を絶する最悪の光景が常に付き纏っているのだろう。キンディスはそれを振り払うように頭を押さえて首を振る。そして全てに怯えるようにうずくまり、呟いた。
「…………いなくなりたい…………」
たとえ大星座であろうと、十三歳の少年が抱えられる限界は、とうに超えていた。
リオウはあの日アークレイアに踏み入れる前から、キンディスが大星座であることを少なからず悟っていたようであり、しかしそれよりもさらに前から――まるで他人事ではないような、初めて言われた言葉ではないような顔で、彼に起こった出来事を受け止めていた。
リオウは一度立ち上がるとキンディスの前で膝をつき、彼よりも低い目線で語りかける。
「君が大星座であろうとなかろうと、僕は君の味方だ」
頭を抑えて俯いていたキンディスがほんの少し顔を上げ、リオウと目を合わせる。キンディスの目は、右はオレンジ色のままだが、左は鮮烈な金色に変わっていた。アルズに流し込まれた《影》の力と一体化した、彼の苦しみの大きさの証だった。
「だからもういい……もういいんだ。これからは君が望む生き方をすればいい。君の人生は君のものだから」
その瞳をまっすぐに見つめ、リオウはキンディスを抱き締めた。
「最初から君のせいなんかじゃないんだ。それでも苦しいなら、僕も一緒に考えるよ。この先もずっと」
リオウの腕の中で、キンディスが静かに啜り泣いていた。
「カナ。俺の名前、ヨータだよ。呼んでみろ」
簡単な単語を喋れるようになり、日ごとに会話能力を取り戻しつつあるカナに、キンディスがそう言った。
後で彼本人に聞いた話によれば、「ヨータ」というのは修道院で繰り返し読んでもらった絵本で、人々が太陽に感謝する時に口にする太陽の別名らしい。やけに記憶に残っている絵本の中だけの造語であり、彼に言わせれば『意味を持たない文字列』に過ぎなかった。
カナが彼を「ヨータ」と呼んだ日から、大星座の力もキンディスの名も捨て、彼はヨータという何者でもない少年になった。
――ここまでの話を、生き残ったアークレイアの住人達を探し出したリオウが語った。彼は最後に言った。
「もしまたあの日のように……影の力が降り掛かった時のために、彼と同等の〝宛て〟は用意してあります」
そう切り出し、続きを告げながらリオウは頭を下げる。
「だからどうか……このまま彼を――大星座から解放してあげてもらえませんか」
それは要求というよりも、教団の司教の座に似つかわしくない切実な懇願だった。移住先の集会所に集まっていた大人達も、皆アークレイアのーーキンディスとカナの恩恵に深く感謝していたが故に、少なからず浮かぶ疑問や不安を押し留めてそれを受け入れた。
誰も彼らの後を追わない。同じ大陸のどこかで、自由の身となって今も二人は生きている。それだけで生き残った者達が『アークレイアの民』としてそれぞれの場所で生きていく希望になる。
こうしてアークレイアの地と、そこで信仰されていた二人の子供の存在は、事実上消滅した。集会所の大人達を部屋の入り口から覗いていたフィルシュの目に、その時の記憶が強く焼きついていた。




