第11話 彼が生まれる日-2
今にして思えば、楽園と呼ぶならこんな場所だろうと思う。
城や神殿と見紛うほど荘厳で美しく、神聖さをたたえた白亜の修道院。廊下の柱と柱の隙間に広がる庭園には色とりどりに咲く緑と花々。それらを生かすための水路の水が、中央にある白い噴水からきらきらと湧き出でている。吹き抜けの四角い青空から差し込む陽光が、庭園を漂う光の粒子を照らしている。
修道院と庭園を繋ぐ扉の階段に、この場所を聖域たらしめる存在――純白のブラウスを着た少年が一人で座り込んでいた。
キンディ・ソレント=ハーレン。黄金色の輝石をその身に宿して生まれた『大星座』。太陽のようなオレンジの瞳と髪をした彼のことを、この修道院の人々はキンディスと呼ぶ。
「あのぅ……噴水の魔力を補給してもよろしいでしょうか」
庭園に訪れたフィルシュが恐る恐る彼に尋ねた。キンディスと比べ、フィルシュは動きやすいよう装飾の少ない質素な白いチュニックを着ている。
「えっ、うん。別に俺の事は気にしなくていいよ」
まるで同年代の友人と話すような返事だった。……実際に同年代なのだが、この修道院ではその一言で括れないほどの身分の違いが二人の間に存在する。単なる給士見習いに過ぎないフィルシュはキンディスの目の前を横切ることさえ憚っていると、フィルシュの背後の廊下からよく通る声が響いた。
「やっぱりここにいた」
キンディス達よりも少し年上の、フィルシュと同様の服装をした、亜麻色の長い髪を一つにまとめた少女。ユリス・ジュリア=ルナキエが仁王立ちしていた。ユーリアと呼ばれている彼女の後ろには、半分ほどの背丈の白いワンピースを着た幼い少女――カナがひょっこりと顔を出している。
「毎日毎日部屋から抜け出して! 夕方には儀式の予行演習があるってわかってるの!?」
「まだ時間あんじゃん!」
「だったら部屋で準備してなさいよ! 仕事の邪魔になってるでしょ!」
「いっ、いえそんなことは……」
ユーリアは庭園にずかずかと踏み入れながら小言を垂れ、その後ろをカナがついていく。ユーリアの迫力にフィルシュは思わず狼狽した。
「まったく、誰にも言わずにフラ~っといなくなる癖にいっつもここにいるんだから。いかにも見つけてほしそ~に」
キンディスの前まで着たユーリアは、頭を屈めながらわざとらしい猫撫で声で言う。一方のキンディスも口答えしたところで彼女の機嫌が収まらないとわかっているのか、言い返さないまま露骨に不機嫌な顔で睨み合っている。このいがみ合いは日常茶飯事なのだが、居合わせてしまったフィルシュは心底ハラハラしていると、ユーリアの後ろからカナが前に出る。
「今日はわたしもお着替えするの」
「……じゃあしょうがねぇな」
キンディスはカナには甘いのだ。
カナに手を引かれて立ち上がったキンディスは修道院の中へと戻っていく。
「ごめんね、あいつのわがままに巻き込んで」
「僕は何も困るようなことは……なので大丈夫ですよ」
申し訳なさそうに笑って詫びるユーリアに、フィルシュは言う。つい先ほどまで鬼のような顔をしていた彼女にも苦労があるのだろう。
「あいつここの噴水が一番落ち着くみたいでさ。君達ウィーネ族が直接管理してるからかな……水の一族の力で操ると心を落ち着かせる効果があるって言うじゃない? それにやっぱり同年代の子と話したがってるみたいで。急に話しかけると困るでしょっていつも言ってるんだけど」
そう語りながら、ユーリアは中庭の噴水を仰ぎ見る。その眼差しは、この修道院での日々に思いを馳せているようだった。
信仰都市アークレイア。かつてそう呼ばれていたこの地は、どの組織や国にも属さず、あるいはそれらの場所から排斥され、行く宛てを無くした者達が流れ着く安寧の地となっていた。特にこの修道院はそのような多くの人々に衣食住と職を与え、エスペル教団のような信仰統制とも違う、いかなる対象に対しても「心のよるべを信じること」そのものを尊ぶ、都市の象徴とも言える場所であった。
大陸内の政治に与することなく独立した一つの都市を成り立たせているのは、『救世主伝説』の時代から存在する〝とある神性の一族〟によるものと言われていた。ほとんどの住人はその姿を直接拝む機会はなく《明星の救世主》と同様の御伽噺じみた存在だったが、事実この都市一帯には強力な結界が展開しており、外からは認識されない秘境となっている。
神性の一族が自然界にもたらす調和のエネルギーと、そこに住まう人々の献身により、都市の営みは完結していた。
そんな聖域に――当時から十三年前。突如降臨した大星座の子供、キンディス。
《救世主》の影響力はこのアークレイアも例外ではない。彼と同じ大星座であるキンディスの存在はその威光のみが人々に知られている。
日常的に関わりを持つのは修道院を管理する司祭をはじめとした上位階級者のみ。ユーリアやフィルシュは幼い頃からの修道院への貢献を認められ、同年代の子供の目線で身の回りの世話の一端を許可されていた。
だが、そんな彼の生活も次に迎える誕生日を界に変化する。
修道院に併設された羅針塔にて聖誕祭が開かれ、まずは下位階級の者達にその姿をお披露目する。そして彼らを通して都市の市民に広まり、限定的な謁見が開放されるのだ。
ユーリアに先導され修道院の廊下を歩くキンディス、そしてカナ。大人しくついて来ているが、キンディスの顔はいまだ不服そうだ。
「誕生日ってさ、蝋燭消してケーキ食べるもんなんじゃないの。こんな大袈裟なことする必要あんのかよ」
「……あんたは大星座だから。《明星の救世主》に同じことできる?」
「…………」
藪から棒な不満にも、ユーリアは振り向くまでもなくあっさりと一蹴した。
「でもこの時代に《影》なんてないじゃん」
「そう。だからずっとこのまま平和が続くようにするのがあんたの役目。《救世主》の後に他の場所で生まれた大星座もみんなそうしてきたのよ」
「……じゃあ《救世主》も、シスター……ってか、親から誕生日プレゼント貰ったことないの」
ユーリアが《救世主》を槍玉に挙げたからか、意趣返しのようにキンディスも彼の誕生日について指摘する。
「そもそも《救世主》は世界を影から救った後どうなったんだよ。それを心配してくれる親もいなかったのか?」
キンディスのその疑問は、言い返せないようにする意地悪というより、彼自身が心から思い詰めている様子だった。まるで《救世主》の身を自分のことのように案じて……いや、場合によっては自分もそうなるのだから。
ユーリアが足を止める。つられてキンディス達も立ち止まると、ユーリアが振り返った。
「……今ので不安になったなら私が悪かった。《救世主》がどうだったかはわからないけど……アンタの身に何かあったり、命を懸るようなことがあったら、私やシスター達はきっと耐えきれないほど悲しい」
《救世主》の両親もきっとそうだっただろう。キンディスと暮らしているユーリア自身がそうなのだから。ユーリアの表情はどこかしおらしかった。
「だからもしキンディスにそんな時が近づいたら、絶対に一人にさせない。必ず私も一緒にいてアンタを守るから。大星座になっても大丈夫だってアンタが安心できるように、私も一緒に努力する」
ユーリアは少しかがんでキンディスと視線を合わせる。そして彼の肩に優しく手を置き、真っ直ぐに向き合った。
理屈として正しいのかはわからないが、キンディスにはほんの少し納得してもらえたのだろう。照れ臭そうに目を逸らしながら言う。
「なら俺が世界を救った時、ちゃんとお前も一緒についてきてたら、その時はこのキンディス様の伝説にお前のことも刻んでやるよ」
「それで、二代目救世主様は何のプレゼントが欲しいの? できるだけシスターに相談してあげる」
「いや……物が欲しいわけじゃないから……ちゃんと考えてなかった」
「なによそれ」
強気な軽口を叩いているうちに本題を忘れてしまっている。本当にただ不安だったようで、ユーリアは呆れつつもそれが解けたことに安心する。
「わたしの時もプレゼントもらえる?」
「そりゃもちろんだろ。今のうちに特大に贅沢なもん考えとけよ」
一緒にその場で話を聞いていたカナが、キンディスの後ろからひょいと顔をのぞかせた。自分を見上げるカナに答えるキンディスだったが、何か閃いたらしき悪い顔をする。
「何なら俺から頼めば俺のと一緒に用意してもらえると思うぞ! カナのお願いならみんな絶対聞いてくれっからな! そんで自分の時にまたもう一個頼めばいいって」
「そうなの?」
「カナにいいカッコしたいからって教育に悪いこと教えないの」
さも名案のように言うキンディスにユーリアが呆れながら釘を刺す。こういう時だけ悪い意味で自分の立場を良くわかっているのは考えものだ。
キンディスはカナを本当の妹のように溺愛している。こんな環境で暮らす中で、唯一対等で同類とも言える、等身大の子供同士でいられる相手だからだろう。いつも自分の傍を雛のようについてきて、キンディス相手にも遠慮なくわがままを言い、世話を焼けば嬉しそうに笑ってくれる。
礼節という名の、誰からも同じような言葉しか返ってこないキンディスにとっては、本心で触れ合っているのが実感できる数少ない存在だ。懐いてくれているならなおのこと愛おしいだろう。
カナは今年で十歳になるが、年齢にしては精神がだいぶ幼い。ユーリアやフィルシュのような孤児院の子供と遊ぶこともあるが、擦り傷一つ負わせようものなら……と大人達が目を光らせている以上、遊び盛りにも関わらず年齢相応に羽目を外すことも憚られる。
――教育上あまり良くはないが――キンディスの悪巧みに巻き込まれている時だけは、彼の見様見真似をきっかけに好奇心や自発性が開花しているように見える。本来子供とはそうやって自我と世界を認識していくものだろう。
だが、擦り傷を負ってでもそれを促し、受け止めることが許される存在……親というものが、この二人にはいないのだ。それが何よりもの影響だろう。
このアークレイアは、キンディスともう一人の子供を象徴として育てている。
そのもう一人がカナだった。
聖域の根幹を成す神性の一族――その末裔として存在を記された女性、カロメ・リア=エンシエル。またの名を『聖母カーリャ』。修道院の礼拝堂に掲げられた彼女の肖像画をはじめ、この地の調和と安寧をもたらすアークレイアそのものの象徴として人々に崇め祀られている。
金色の短い御髪に、深い海のような藍色の瞳。そして両耳の白い羽。救世主と共に世界を救った女神を思わせる身姿が、肖像画に描かれている。
カナの容姿はまるで聖母カーリャの生き写しの如く酷似しているのだ。実際、カナは万物を調和する歌声を発することができる。修道院の司祭館は彼女を聖母に次ぐ象徴として見出し、キンディスと共に丁重に育てていた。
二人はどのようにして生まれ、いつからここにいたのか。
誰もそれを疑問にすら思わず、故に言葉にされず、知ろうとする者はいない。
しかし――後に崩壊したアークレイアを去ったフィルシュは、時折生き延びた修道院関係者の話を耳にするうち、大人になるにつれて言葉の意味だけでも悟り始めていた。
あの地の聖障には、内側に住まう者達の記憶を書き換える力があった。
* * *
いまだ誰からも忘れ去られた記憶。
アークレイアでカナが生まれ三歳になった頃。彼女にも、そしてキンディスにも生みの親がいた。
正しくカナの母親である女性、聖母カーリャ。彼女の傍に控えた男女の待者、ハーレン夫妻はキンディスの両親だ。カーリャの腕に抱かれたカナを、幼いキンディスが椅子にひっついて興味津々に見つめている。
「カーナリア、今日もよくお喋りして、すっかりおしゃまさんですね」
カーリャはカナを椅子から降ろすと、すぐにキンディスが構いに行く。カナも嬉しそうに彼に抱きつき、二人で遊び始めた。そんな子供達を微笑ましく、しかし物悲しい顔でハーレン夫妻が見守っていた。
「……カーリャ様、今からでも遅くはないと思います。どうかカーリャ様はこの子達のお傍に……」
「――煉獄へは、私達だけで向かいますから」
子供達の関心が逸れたタイミングをを慮るように、夫妻は重々しく口を開く。二人の真剣な申し出と表情に、カーリャも朗らかな母の顔から都市を統治する〝聖母〟としての慎ましい顔に変わる。
「聖障の中枢を維持できるのは、私達――神性の民の血に生まれた者です。私が直接向かわなければ、この地の象徴を担っている意義を果たせません。我が先祖……チェリシアローズの名が刻まれている以上、尚のこと」
万物を調和する神性の民――それは《女神チェリシアローズ》が大陸全土を浄化させた力。チェリシア・ローズ=サルヴァーチェは神性の民の生まれだった。
即ち、カーリャやカナ達は彼女の末裔であった。
《女神》が生涯その身を課して大陸を救った以上、末裔もそう在らねばならない……一見そう聞こえるかもしれない。だが、真意は別にあった。
「それに……あなた達が身を課してまで封印を施したとして、私がその場にいなかったせいで異常に対処しきれなかったら……私はこの子達に顔向けできません」
《女神》はついぞ、子を成さなかった。彼女の直系の子孫は存在しない。もし、《女神》と同一の存在を望む者がいれば、彼女を輩出した血族に目を付けるだろう。
特殊な能力を生まれ持つこの一族は、もとより身を潜めて生きてきた。一族のとある女が故郷から巣立ち、フィエロレンツ聖国で家庭を築いて娘を産んだ。結果としてその娘――チェリシアローズが大陸を救ったのだ。
一族にとっても誇りである一方、彼女のルーツを探られるのは避けられない。やがて各地に散っていた一族の少数が集まり、物理的に外側からは見えなくする結界『聖障』を作り出した。それがアークレイアの始まりだった。
聖障が弱まるということは、この都市にとって招かれざる者が踏み入れてしまう恐れが生まれるのだ。
「最大限の力で、限りなく確実に封印を施し……『煉獄の使者』から浄化の力を守るためには、私も行かなければならないのです。それがいつか必ずこの子達を守り、定めを全うするための力に変わるまで」
――『煉獄の使者』。
古くから災いに遭った者が「煉獄に封印された《影》のしもべの仕業」として言い伝えた存在。日毎に異常な災いが大陸中に広がり続け、もはや御伽噺では済まないほどの脅威となっていた。
アークレイア近辺でもそれと思わしき災いの影はあったものの、長い間聖障によって中への侵入は完全に遮断されていた。しかし、加速的に増え続ける今の勢いでは、やがて聖障の力を上回るのも時間の問題であった。
故に、聖障の力が敗れてしまう前に、この地を聖域たらしめる神性と呼ばれるもの――カーリャ達神性の民が持つ調和の力を、地底奥深くに埋め込まれた聖障の中枢に封印する。
しばしの間それによって強度を増し、たとえ止む無く聖障を失うことがあっても、力の核さえ失われなければ……いつか子供達がそれを手にし、人々が再びこの地に集うことができると――
その術を告げたのは、現状最も強い調和の力を持つカーリャの夢の中に降りた、天からの啓示であった。
「……数年前、先に聖障の中枢へ向かった夫を見送った時から、やがては私も彼の後を追う時が来ると、覚悟は出来ていました」
カーリャが今はここにいない自身の夫のことを口にした時、彼に師事していたキンディスの父が何かを思うような顔をする。
――ハーレン夫妻は自分達の子供……生まれたばかりのキンディスを抱いて、遠い地からこのアークレイアに駆け込んできた。
田舎の山村で暮らす平凡な夫婦に過ぎなかった二人が授かったのは、生まれた時からその身に輝石を宿した子供、即ち大星座だった。ただの御伽噺だと思っていた『救世主』と同じ存在が自分達のもとに生まれてくるなど思うはずもなく、それでも我が子として愛し、この子にとっての最善を探し続けた。
同時に、やはり大きな力はうねりを生むのか……村の内外で奇妙な現象が頻出するようになった。それは少しずつ、着実に、時にはその影を目の当たりにする距離までキンディスに近づき、意を決した夫妻は彼を守れる安全な場所を求めて村から出て行った。
最初こそ救世主伝説の権威であるエスペル教団に保護してもらうべきかとも考えた。だが、詳しい情報を集めるほどキンディスにとって本当に幸せなのか、わからなくなっていた。
本当に安全な場所などあるのか――途方もない不安と常に隣り合わせのまま歩き続ける二人を運命は祝福したのか、やがて導かれるようにアークレイアへと辿り着き。招き入れられた。
歴史を管理する教団さえも知らない、神性の一族。
大陸内での地位や権力より、安寧と調和を守り続けるための都市。
数奇な縁で耳にした、その言葉を信じて――
「この地でカーリャ様がキンディスを大事に匿ってくださったことが、すでに私達にとっては十分すぎる恩恵です」
「ですから、これ以上カーリャ様に求めることなんて……」
進言する旦那に続き、ハーレン夫人もカーリャを引き止めようと食い下がる。
「いえ、こちらこそ。我が子を守るために、神性の民が信頼に価すると決断してくれたこと、心より感謝します。だからこそ……あなた達の想いに応えるためにも、私がこの子を守り抜かねばならないのです」
聖母として彼女を見る者には、信念の強さとして映るのであろう。だが、我が子を思う同志として気心の知れている夫妻には、一度決めたことは揺るがない彼女の強情さの表れとも思う。
「……このような立場で……身勝手で罰当たりな考えだとは、私自身も思っています」
考え得る最悪の事態から娘のカナやキンディス、都市の人々を守るためには、自分達にできる全てを尽くす必要がある。
多くを守るために、たった一人の我が子に途方も無い孤独と使命を背負わせることが本当に正しいのか。己の役割に覚悟はできていても、親として、子供達の未来には簡単に断ち切れないほどの願いがある。それはハーレン夫妻も同じであることを、カーリャは重く理解している。
それでもなお、世界は変容し続ける。ならばこそ世界のうねりに抗って、未来を変えなければならないのだ。
何ものにも変え難い子供達の未来が、《影》の苦しみや争いから解放されるように。
「決断を下した以上、この子達に穏やかな未来を残せることが、この子達を愛する証となるように……ただそれだけは、揺らぐことはありません」
カーリャは自分自身に言い聞かせ迷いを振り払うように、はっきりと言葉にして示した。
「貴方達が中枢に向かうのならなおのこと、貴方達もキンディスと同じ聖光元素を持っているとはいえ、地上とは違う空間は何が起こるかわかりません。浄化を使えるる私が共にあれば、少なくとも貴方達を……夫のもとまで導けるでしょう」
思い詰めたカーリャの表情が柔らかい笑みになり、ハーレン夫妻に向けられる。それは身分の違いによる施しではなく、身近な友を案ずるものであった。
「……カーリャ様……」
「……ありがとうございます」
感極まる思いを堪えるハーレン夫人の肩を旦那が支えながら、感謝を伝えた。
「以前から修道院の神父達と話し合っていた通り、中枢に向かう折には、神父達以外のこの都市から私達の記憶を封じます。いかなる理由でも私達を追って中枢に踏み入れる者が現れないように」
「はい」
「それまでの間、もう少しだけ……この子達にしてあげられることを尽くしましょう」
そう言ってカーリャは椅子から立ち上がり、カナの傍にしゃがむと「お昼寝の時間ですよ」と声をかける。ハーレン夫妻もキンディスのもとへと向かう。
不意に両親達に抱きしめられたカナとキンディスは、彼女達のどこか悲しみをたたえた表情を不思議そうに見ていた。
* * *
ユーリアも例外なく、聖母カーリャとハーレン夫妻の記憶が消えていた。
まだ彼女達が消える前は、キンディスとカナに接する者として直接触れ合うことも多かった。
聖母カーリャと話していると、安心感で胸が満たされた。喋りかけてくれる時の優しく柔らかく、落ち着きのある深い声。自分と同じ目線にしゃがんで、向き合った時の笑顔。彼女に撫でられ、抱きしめられた時の温度。
むず痒くなるほどの温もりを感じて、キンディスやカナのことを言えないくらい彼女に甘えていた。
記憶から消えても、ユーリアの中でその温もりが消えることはなかった。
礼拝堂に掲げられた聖母カーリャの肖像画。今はただの絵画に過ぎない。だが、ユーリアが肖像画の前を通るたびに記憶にない安心感を感じるのだ。
聖母と呼ばれる女性。このアークレイアという聖域の象徴。今でもそれは言説として知っている。そんな神性な存在に向ける信仰や崇拝と言うには、ユーリアの感情はどこか拙いものだった。
この女性が、今もどこかでアークレイアを守ってくれているのだろうか。それこそ皆の母のように。
――だから自分も、大人になったら彼女のような女性になりたい。
肖像画を見上げるたびに込み上げる憧憬。その温もりがユーリアの生きるしるべだった。
キンディスやカナにとって、自分がそんな存在になれるだろうか。
子供じみた独り善がりな押し付けかもしれない。それでも彼らが寂しそうな顔をしていると、自分がしてもらって安心したことをやってあげたいという思いに駆られる。
傍にいる自分が、彼らを安心させられるように。
都市のみんなを守ってくれる、聖母カーリャのように――




