第10話 消せない焔、翼となりて-2
「…………」
アルズは肩で息をしながら地面に突っ伏して、己の下に組み敷いたアイを見つめる。アイは虚ろな目をしたまま小さく胸を上下して呼吸するだけになっていた。
「やっぱり……一度に全部注ぐにはまだ幼すぎる……」
一人呟き、アルズは腕を伸ばしてアイを抱き上げると、アイの両手首を拘束していた氷塊がパラパラと崩れ落ちる。その場に座り込んだアルズは、腕の中のアイを膝に座らせ、小さな体を大事そうに抱き締める。
「でもこれからまた少しずつ馴染ませれば大丈夫」
幼子を、あるいは人形を愛でるように、抱き寄せたアイの頭に頬を摺り寄せる。
「君の中の僕の力が、どんなものからも君を守る……そして全て君の中に宿った時……僕の子になるんだ」
恍惚にも似た嘆願。言葉にした通り、いかなるものからも守るようにさらに強く抱きしめる。右手でアイの頬を撫でながら、彼を抱きかかえている左手を、自分と同じものを宿したアイの腹に這わせる。
ひんやりとした空気と静寂に、アルズの人肌。苦痛に張り詰めたアイの体温が凪ぎ、鈍重に鳴り響いていた絶望と後悔も頭から消え去って、いっそ心地良く感じる。
全身が重力に引かれるように、以前図書館でも味わった――まどろみにも似た虚脱感が全身に満ちていく。
ああ、やっと、体が軽くて、頭が軽くて、呼吸が軽くて、静かになった。
誰も助けに来ないのであれば、不思議と広がっていくこの安らぎも永遠に続くのだろう。
春の雪解けを待つ冬の如く静かな安息。奇妙にも同じ安らぎを共有するアルズとアイの二人には、誰も知らない暗い古塔の頭上から差す僅かな白い光だけで十分だった。
……それ以外は、もう何も――――
「やめろおおおおおお!!」
静寂を破る拙い叫び声。彼ら以外誰もいないはずの部屋に駆けてきたのは、ガリュマだった。走る勢いのまま飛びかかったガリュマは、アルズの腕に噛み付く。
「アイから離れろぉ!」
アイを抱き締める腕を引き剥がそうと、しがみ付いて攻撃する。ガリュマの必死な声がアイの耳に――脳裏の奥深くまで響き、虚だった目に光が戻る。
そしてアイは反射的にアルズの体を突き飛ばし、彼の腕から脱した。自身も反動で床に倒れながらもすぐさまアルズから距離を取る。
「……邪魔をするな!!」
尚も腕に噛みついたままのガリュマを、アルズは心底煩わしそうに振り払う。宙に放り投げられたガリュマの小さな体が硬く冷たい床に叩きつけられる。
転がったまま起き上がれないガリュマの方へアルズが近づき、躊躇なく蹴り飛ばした。さらにアルズはその身に反撃の……トドメを刺す力を纏い出す。それを見たアイが咄嗟に叫んだ。
「やめろ!!」
途端、右手に氷の刃を握っていたアルズの動きが止まる。視線だけでアイを見やり、一瞬歯痒そうな表情をした後、持っていた氷の刃を放り投げた。
「ここで一緒に休んでるといいよ」
直前までの剣幕など無かったかのように、アルズは肩越しに薄ら笑いを見せる。どのみち今のアイにここから逃げ出す意志はなく、ガリュマだけでどうにかできるとも思わなかったのだろう。
アルズはさっさと踵を返し、部屋から去って行った。
床に打ち付けられたガリュマの小さな体がアイの目の前に転がっている。
今、アイが立ち上がって、アルズを追いかければ、あるいは今のうちにガリュマと脱出すれば……そんなことを考える気力も湧いてこない。
ああ、まただ。
目を見開いて愕然としながらも、頭の奥底ではそんな感情が鉛のように沈んでいる。
《救世主》と同じだから襲われて、《救世主》と同じだから守られて、いつも誰かが目の前でボロボロにされている。アイ自身が何かをしようとしたわけでもないのに。そもそもこの世界で目覚めるまで、自分にそんな力など無かったはずだ。
こんな石が自分の体にある限り、こんなことがずっと続くというのか。
アイは床に捨てられた氷の刃に手を伸ばし、左手で握り締めた。
「……何が救世主と同じだよ……こんなもん俺の体に勝手に生やしやがって……」
上体を起こし、眼下に右手を引き寄せると、左手に握っている氷の先端を向けた。
「こんな石があったって……何もできないじゃねぇかよ!!」
怒りと絶望の呪詛を叫びながら力を込めて振り下ろした氷の切っ先が、忌々しい物体の生えた自身の右手に突き刺さる――直前。
「やめろぉ!!」
先端が触れる寸前の所で、起き上がったガリュマがアイの左手首にしがみついて喰い止めた。
「もう十分ボロボロなのに……お前が自分でこんなことするなんて……そんなのおりぇは嫌だぞ!!」
ガリュマの目には涙が滲んでいた。それは、その身に受けた痛みだけではないのだろう。
「あいつらお前にばっかり何度もひどいことして、そのままこれで終わりなんて……そんなのくやしいだろぉ!!」
「でも……でも俺は……ヨータを助けられなかった……カナも守れなくて……ジフもお前も巻き込んで……こんなもんがあったって……何の役にも立てなかったんだよ!!」
最後に残ったのは、ろくに何も変えられなかった無力な自分の体だけだった。現実に打ちのめされた心が、器ごと砕けた水のように決壊して溢れ出し、崩れ落ちていく。アイもまた瞳から大粒の涙を流していた。それでもガリュマはアイの手を放そうとしない。
「誰かのためじゃねぇ! この石のためにお前がいるんじゃねぇ! 無理やり使わせたって上手くいかないのは当たり前じゃねぇか!! こんなにボロボロで死にそうな時ぐらい自分のためでいいんだよ!!」
ガリュマの小さな体を奮い立たせるのは、ガリュマ自身の中にある記憶だった。
花畑でヨータがアルズに最後まで抵抗を試みた時。彼自身の意思による言葉を交わした最後の時だった。
――『ガリュマ、カナと……アイ達を頼む』
ヨータが、他の誰でもないガリュマにそう託した。ガリュマはそれをずっと覚えている。
「ヨータだって……それがわかっててずっとお前を守ってたんだ……! お前が安心してこの力を使えるまで、大事にとっておくために!! お前ならきっとこの力を正しく使えるって……おりぇだって信じてるんだぞ! ジフもきっとそうだ!」
「……なんで……なんでそこまで……」
傷だらけで目尻に涙の粒を浮かべても、ガリュマは嘆かない。
「おりぇはずっと見てきたんだ……この世界のことも、自分のこともよくわからなくて困ってるはずなのに、誰かが困ってるってわかったら迷わず戦うお前を……! そんなお前みたいになりたくておりぇはここまでついてきたんだ!」
アルズに勝てなかった。ヨータを助けられなかった。だが、それだけがアイの全てではない。ガリュマがその目で見てきたアイの姿がある。
「カナだってほんとはわかってるんだ……でもかなしくて心が押し潰されしまって……このままお前とカナが仲直りできずに終わりなんてそんなの……そんなのおりぇは嫌だぞ!!」
ガリュマはアイに届くまで思いの丈を必死に訴える。そして、確かにアイに届いていた。
カナとの約束を裏切ってしまった時から、頭が真っ白になっていた。それが全ての終わりだと思い込んでいた。そんなアイの中に、暗雲に差す光のようにガリュマの言葉が響く。アイの記憶が、感情が、再び巡り出す。
『お前が自分で決めたなら別にいいんだよ。一緒にいる間は俺が守ってやるよ』
『アイ……ありがとう……ほんとにありがとな……やっぱり俺はお前を……お前がいてくれたから俺はやっと……』
『アイ……お前と出会えて……俺はまた誰かを信じることができた……だから――カナを……頼んだぞ』
アイにも確かに、託されたものがあった。
記憶に残るヨータの言葉の数々に、アイ自身の実感が宿り始める。みんなを守りたかったのは、みんなが傷つくと悲しいのは、失いたくないから。役に立ちたかったのは、嬉しかったから。
カナが不安に気づいて寄り添ってくれた。ジフが危険な時は諫め、正しい時は認めてくれた。ガリュマが一緒に行きたいと言ってくれた。ヨータがいつも守ってくれた。
《明星の救世主》と同じ力を、みんなのために使いたかった。でも、《救世主》と同じことがしたかったわけじゃない。
今のアイと同じ感情の動きが、ヨータにもあったのなら。だからヨータは、その身を課して守ってくれたのだとしたら。
ここでアイが諦めれば、彼が守ろうとしたその尊い温度は消えてしまうだろう。
――『お前と同じ力だって思えば、悪くないもんだって思えてきたんだよ』
ヨータだって、この輝石の力に翻弄されてずっと苦しんでいた。それでもアイ達を守るためにもう一度向き合い、解放したのだ。
彼の言葉と決断を自分の中にだけ抱え込んだまま、この世から消し去るわけにはいかない。
「………………」
アイは左手に握っていた氷の破片を離すと、カランと音を立てて床を転がる。膝をついて体を起こしながら、腕の中にガリュマを抱き上げる。
「……そうだよな……ガリュマ」
カナに拒絶されて悲しかった。だから何も言えなかった。
たとえ許してもらえなくても、自分の気持ちを言葉にできるまで時間がかかっても。
せめてもう一度、自分の言葉でカナに伝えたい。
「ちゃんとカナに……話さないと……」
カナも、助けに来てくれたジフとガリュマも、アイ自身も、誰か一人でもまた失えば、今度こそそれは叶わなくなるだろう。
「生きて……戻らなきゃダメだ……」
必ず全員を救う力が、アイにはあるはずなのだ。
アイの右手に宿るそれが、本当に――《救世主》と、ヨータと同じ大星座の輝石なら。
「絶対に――みんなで生きて帰るんだ!!!」
アイの決意を声にしたその時、ガリュマを抱きしめる彼を中心に燃え滾る炎の柱が迸った。
――それが、お前の力だ。
頭の奥底で、若い男の声が聞こえる。初めて輝石の力が目覚めた時にも聞こえた声だ。
――何のために、誰のために戦うのか。お前自身の答えによって目覚めた力。それはお前だけの力だ。
今のお前には、その力を使う理由と資格がある。
だから守れ。お前の仲間を。
お前自身の心を――!!




