第10話 消せない焔、翼となりて-1
アイの意識が戻って最初に感じたのは、石畳の床の冷たさだった。瞼を開けても視界は薄暗いままで、どこかの塔の中のような……柱の灯りが照らす紺碧の石造りの建物の中で、アイは壇上に横たわっていた。
ここがあの世だと言われれば楽になれるのに。最初に漫然と考えたのはそんなことだった。
「――おはよう」
すぐ傍から聞こえてきた男の声でアイは現実に引き戻された。床を見つめていた視線を上げれば、壇の階段に少し離れてアルズが座っていた。
その手でヨータを谷底に葬った張本人。
「ごめんね、痛かっただろう。でももう大丈夫だよ」
一方的に謝り、尋ねておいて、アイの返答も待たずに完結している。
「この期に及んで誰も君のことを助けない。あれだけ追い回して閉じ込めて、監視してる教団さえ、こういう時は何かしてくれたかな?」
世間話でもするかのように穏やかなまま、目の前のアイの状況を他人事のような客観視で嘆く。
「そのことに一番に気付いて君を守ってたキンディスだって、大星座として搾取されるか、そうならないために隠れ続けるしかなかった。そのせいで彼はああなったんだよ」
そして同じような語り口で、ヨータのことを淡々と嘆いた。
――“ああなった”のは、この男がやったからじゃないのか。アイは静かに絶句する。
しかし、その嘆きが本物であるかのように、アルズの表情が陰る。
「でも僕達ならわかるよ、その苦しみが。勝手に決めた御伽話の役割を、勝手に押し付けて、本気で思い込む。人類はそれを“信仰”って呼んでるけど、意味わかんないよね。――アステルだっていい迷惑だよ」
アルズが苦痛と嫌悪感を露わにして吐き捨てる。それもまた、大局的に見れば事実であった。……最後の、アステルという名――《明星の救世主》を、妙に近しい者のように呼ぶ違和感を除いては。
「だから僕達はこんな馬鹿げた世界から君を助けたいんだ。僕達ならそんな身勝手な価値観のない、穏やかな世界に君達を連れて行ける」
大仰で正義感に溢れた言葉を、流暢に連ねる。それがアルズにとっての大義なのだろう。今語っていることだけ聞けば、事実として正しいようにすら聞こえる。
そこに悪意や私利私欲のような、他者を虐げ利己的な享楽を求める意思は感じ取れない。
――だが彼はその手で、そして氷人形達を使って、何度もアイ達を暴力で襲った。罪なき市民に被害が及んだ。ヨータを葬った。
このアルズという男は、己のその時の好き嫌いや不快感を基準にして力を振るっているのだ。
「君の中にはこの世界に現れた時から、すでに尋常じゃないほどの負の感情が沈澱している。キンディスと同じように……いつ、最後の一押しになってもおかしくないくらに。記憶を忘れた君にそれを自覚してもらうために、今までのことが必要だったんだ」
アルズは静かにアイの方へ顔を向ける。
「そんな状態の君に……何も知らない人類は全部押し付けて楽をしようとしている……仮に失敗したら君のせいだって言うんだ……」
口にした光景が目に浮かぶのか、その顔には深い憂いが表れている。次第にそれは険しい目つきに変わっていく。
「……アステルの時や……今までみたいに……!!」
「……お前……誰なんだよ……」
「ずっと言ってるだろう、僕は君の“友達”だって」
この男は、アイの中にある苦しみが“この世界に来る前のもの”だと知っている。そしてアイが現れるずっと前の時代や、《明星の救世主》のことも知っているように語る。たまたまアイと同じタイミングで世に現れた……そんな安易な存在ではない。
いつから、どこまで、誰と同じ世界にこの男は存在している? アイの中で、ぞっと血の気が引いた。
「《影》の力を宿す僕なら、苦しみや悲しみの形もわかるんだよ。言葉だけで終わらせて、頭では何も理解してない人類とは違う」
アルズに言語化されたからなのか、途端にアイの頭の奥が鋭く疼き出す。
時折思い出す“兄”の怒声、子供達の嘲笑、大人達の失望。
今まで断片的に思い出しかけていた光景。忘れていただけで、それは他ならぬ自分が確かに体験したものだった。思い出すことを拒む頭が重く痛む。
「うっ、ぐっ……あああ……!」
どうして今になって思い出した。怖い思いをするたびに守ってくれたヨータはもういない。かつての自分が惨めな記憶にまみれていたことを、忘れる術はもうないのだ。
今まで忘れていられたのは、ヨータ達と一緒にいられれば安心できたから。縋るように反芻した、いつも自分を守ってくれたヨータとの記憶さえ、頭の痛みと本来の記憶に侵食されそうになる。本当は、自分は彼の横にいられるような人間ではなかったことを思い出してしまう。
消えてしまう。この世界に来てから、“何も知らずに満ち足りていた自分”の、ヨータとの記憶が。
どこで間違えたのがいけなかったのか。カナを置いて自分一人で追いかけたからなのか。ジフの制止を押し切って森に向かったからなのか。リオウに言われた通りに南支部に戻らなかったからなのか。“ヨータに言われたから”と花畑に行ったからなのか。無闇に関わるなとヨータに言われたのに博物館に入ったからなのか。
最初から、アイがこの世界に現れなければ良かったのか。
「アイ、これからどうしたい? 僕ならなんだってできるよ」
苦しみの根を絶やせと、その吐け口を思い浮かべろと、アルズは促す。横たわったままのアイを見下ろして答えを待つアルズは、やけに胸を弾ませた笑みをしている。
アイは弱々しく伸ばした両腕で顔を押さえ、視界を閉ざした。
「……もう死にたい……」
祭壇の静寂に掻き消されそうな、か細く掠れた声。しかしアルズはアイがなんと言ったかを確かに耳にした。故に、耳を疑った。饒舌だったアルズも、静寂に呑まれるように言葉を失う。対照的に、アイの感情が決壊する。
「やりたいことなんてあるかよ……何度も何度も……お前らが滅茶苦茶にしたんだろ……!! ヨータと……みんなといられれば……嫌なことも忘れられたのに……!!」
アルズを、自分以外の全てを拒み、顔を覆ったままうずくまる。その隙間から小さく嗚咽を漏らした。
――きっと今までのことは、自分が死ぬまでの帳尻合わせだったのだ。
アイが元いた世界でも恐らく、苦しみに耐えきれず、そこから解放されようとした。何かの間違いで記憶を失いこの世界で目覚めた。それでもきっと、アイが行き着く先からは逃げられない。それが今なのだろう。それならもう、早く楽になりたい。
せめて最後に自分を納得させるために、嫌に理性的な合理化をしてなお――自分が死ぬことより、ずっと大きな絶望で胸がいっぱいになっている。
ヨータがここにいないこと。
ヨータを助けられなかったこと。
どんなに自分の死を望もうと、それだけはどうしても悲しくて、その感情が重石のようにアイをこの世に縛り付ける。
顔を隠した腕の隙間から、乾いた空気を吸い込んだ。
「ヨータがいなくなったのも……全部お前のせいじゃねぇかよ!!」
アイの張り裂けんばかりの悲痛な叫びが、二人だけの空虚な祭壇に響いた。
彼の刺すような声に胸を貫かれたかのようなアルズの顔から、一瞬にして表情が消えた。
アイは知る由もないだろう。だが、まるで示しを合わせたかのように、アルズはヨータからも全く同じ呪詛を吐き捨てられた記憶が、目の前の景色と重なってフラッシュバックした。
――『全部お前のせいじゃねぇか!!』
「……ああ。大丈夫。大丈夫だよ。体が限界に近づくとパニックになるものだから。でもすぐにみんなみたいに怖いものなんて無くなるよ」
アルズは努めて穏やかに喋り続ける。だが、その目は強い衝撃を拭えないまま笑っていない。言葉が通じているようでまるで的外れな返事を口にする。
「アイが、しななくていいように、ああ……これのことだったんだ、みんなもこんなに元気なら、ならやっぱり合ってるんだ、これで」
死という言葉に反応したのか、アルズは支離滅裂なことを一人で口走っているうちに何かしらの答えに至り、勝手に納得して笑みを深めた。
もはやアイにはアルズが何を言おうとただの雑音でしかなく、意味を理解しようと頭を動かす気にもなれなかった。“友達”と言いながら散々襲ってきたこの男が、“死なないように”と言った所で言葉通り本当にそうなのか、考えるだけ無駄なのだ。
だが、不意にアルズがアイの肩を掴んで仰向けに押さえ付けた。
「すぐに……キンディスに会わせてあげる」
アルズが口にした言葉を――名前を、アイは無視できなかった。頭の奥深くまで、希望と絶望を同時にもたらされる。
向かい合ったアルズのアイスブルーの瞳が光っている。正気とも狂気とも、執念とも不安ともつかぬ、異常に強く、そして空虚な光。
「君が……他の誰にも助けてもらえなくても……僕は……僕だけは必ず君を救ってみせるから……」
うわごとのように、どろりとした低い声でアルズは言った。
「必ずキンディスに会わせてあげる……これが終わったら、また一緒に本の話をしてくれたら……それだけでいいんだ……だから今は……少し大人しくしててくれ」
「ぐっ あああ!!」
肩を掴んでいた手が不意に離れたかと思った直後、手首を掴んで床に叩き付けられる。強烈な冷気の氷が地面から生えて、アイの手首を飲み込んだ。
体を地面に固定されて、アイは身動きが取れなくなった。アルズの右手が、アイの胸元に這う。これはあの時の、図書館の時と同じだとアイは直感する。その予感は正しく、禍々しく激しいエネルギーがアイの中に打ち込まれる。
「あああああああああああ!!」
スパークを伴うエネルギーが駆け巡り、体内を蹂躙されるアイの苦痛に満ちた悲鳴が響いた。
* * *
ジフの視界と意識が曖昧に開く。
遠のきかけては、突発的な激しい痛みで引き戻される。そういう実験か拷問でも受けているような気分だ。いや、実際に受けている。
暗い石の床と壁。紛うことなき牢獄。そこに力無く横たわるジフは、目の前に立つジュディエに殴り蹴られては踏みつけられる暴行を受けていた。ジュディエの背後でカイル、メイア、アルテノーラが元々この古塔にあったのであろう置物に無遠慮に腰掛けてそれを眺めている。
「ジュディエの奴、珍しく飽きねぇな」
「それずっとやってるけど楽しいの~?」
カイルとメイアが物珍しそうに、しかし見ていて飽きたのを隠さずに茶々を入れる。
当のジュディエは相変わらずというべきか、無表情で足元のジフを見下ろしている。興奮しているような素振りは全く見せない。
だが、執拗なまでにジフを凝視している。
まるで何かを確認するように、何かが出てくるのを求めているかのように――ジフと同じ顔立ちの、同じライトブルーの目には異様な執着が宿っている。
この青年も自分と同じ顔の存在を忌々しく思い、実態を暴こうとしているのか。それとも単純に不愉快で痛めつけているのか。
そんなジュディエの様子を気にも止めず、カイル達は呑気に喋っている。
「やっと俺がアイをアルズのとこまで連れて来たのに、アルズはやることあるって言って大して褒めてもらえなかったし。俺が頑張ったのに~!」
「アルズが忙しいのはわたし達のためなんだし、終わったら沢山褒めてもらえるよ~! カイルくんえら~い!」
「それを言うなら私だってあの小娘を連れてきたのよ!? こんなに我慢してるのに、何アンタだけわがまま言ってんのよ」
真面目に聞く意味もないただの喧騒。みな自分の思った不満を口々に主張し、会話になっていない。
「ところでアイくんとカナちゃんはともかく、この子って連れてくる必要あったの?」
「アルズがそう言ってたんだから必要に決まってるでしょ」
気を紛らわそうと話題を振るメイアに、アルテノーラは答えになっているのかよくわからない返答をする。アルズに懐いている三体の中でも、特にアルテノーラにとってはアルズに疑問を持つこと自体が問題外だ。
「にしてもこいつ、ジュディエに斬り付けられたうえにこんだけボコボコにされてもまだ死なねぇじゃん。博物館の時と言い人間のくせに頑丈すぎ~」
一方カイルは、明らかな致命傷を負ってなおいまだ生きているジフを眺め、乱雑に扱っても壊れない玩具を見つけた子供のようにはしゃいでいる。
「ていうかさ、アルズはこいつらを俺達の“友達”にするって言ってたけど、こんなにボコってて大丈夫なの?」
「今更気にしてどうすんのよ。今までだって生きて連れて来れればいいってアルズが言ってたじゃない」
「カナちゃんと友達になったら何しよっかな~!」
カイルが思い出したように疑問を口にし、アルテノーラとメイアもそのことについて思い思いに喋り出す。今までの自分達の行いが今後に影響を及ぼすとは、微塵も思っていないのだ。
ジフはにわかに感じていた違和感を確信する。彼らは五感から得た感情や言葉を持つことはあっても、誰もアルズが言った以上のことを自分では思考しない。与えられた役目を実行はすれど、自分で目的を持つことはない。
親の庇護に全てを委ねている子供のようだと言えば、まだ聞こえは良い。実態は人間の見た目をした物体で人形遊びをしているような……地上で彼らに対して仮称された“氷人形”という名は、あながちその通りであった。
唯一、この場において意味のない行為をしているジュディエを除いては。
「……おい。何か言うことはあるか」
足元のジフを、ジュディエが左目で見下ろしている。もう片方は眼帯で覆われていて、片目だけの青い光がより際立つ。
命乞いでも聞きたいのだろうか。ほとんど力が残っていない今のジフの体では、そんなことをぼんやりと思うことしかできない。
「――リオ……ァ……」
逆光の影が落ちるジュディエの唇が微かに動くのが、ジフの霞みかけた目に映る。
「ゲリオゼルヴァを覚えているか」
ジフにだけ聞こえる声量で、ジュディエが呟いた。
しかし彼が告げた文字列は、ジフには全く身に覚えがなかった。
「……何を……言って……」
「八番の、緑のランプは」
「そんなの……知るわけ……意味が……」
「なら何故同じ顔をしている……!!」
ジュディエは苛立ったように表情を歪めながら、ジフの鳩尾を蹴り上げた。
「かはッ」
初めてこの男の感情らしいものを見た気がする。顔が同じ理由など、そんなものこっちが知りたいくらいだ。ジフは切れた口内の血と一緒に短い悲鳴を吐き出した。
床に散ったジフの赤い血を、ジュディエは睨みつけるように見つめる。命ある生き物の証。彼ら氷人形にはないもの。
「なぁジュディエ~! そろそろ戻ろうぜ~! ほんとに飽きたぁ~!」
二人の状況とは正反対の、呑気なカイルの呼び声がジュディエの背後から響いた。ジュディエは煩わしそうに小さく舌打ちし、トドメと言わんばかりにジフの体を蹴った。
それを最後にジュディエはようやく踵を返し、後ろに待つ三人と共に牢を出て行った。扉が閉まる音が無慈悲に鳴り、出口から差していた光が途絶える。
床に横たわったままのジフの体はとうに動かない。あとは最後に意識が消えるのを待つのみだった。
ここで死ぬのか。
今までも任務で死にかけたことは何度かあったが、それにしては随分しょうもない終わり方だ。ラスティとサギリに何と申し訳を立てればいいのか。犠牲を出したまま任務を放棄することもできず、なりふり構わずアイを追ったが、結局何も救えなかった。
ジフの意識が意識を手放しかけていた時、僅かに機能する聴覚が音を拾った。遠くから、しかし少しずつ近づいてくる足音。ブーツのような硬い音だった。
同じくぼやけながらも微かに見える視界――すぐ目の前に、その紺色のブーツが現れ、膝をついて座り込む。黒と青のドレスのようなスカートに、鮮やかな蒼色の長い髪が垂れかかる。ジフは残っている力で視線を上に移す。
「…………」
自分のもとに座り込んだのは、一人の少女。ジフは彼女のことを知っている。
「……サナ……?」
以前マルトクラッセで出会い、成り行きにも共闘し、共に街を歩いた少女――サナ。あの時彼女と探した仔ペンギンの魔獣、アレッペも傍についている。
何故、サナがこんな場所にいる。死にかけているが故の幻覚か、あるいは走馬灯か。だとして、どうして彼女なのか。
サナはあの時と変わらず淡白な表情をしている。だが、ジフを見つめる目はどこか痛ましそうに見えた。
「ジフ」
小さな唇から名前を呼ぶ声が溢れる。
サナは手を伸ばし、床に投げ出されているジフの手に重ねた。互いの手袋越しでも、ほのかに温度が伝わる。彼女は本当にこの場所にいるということなのか。
「大丈夫だよ。あなたは死なない」
せめてもの励ましだろうか、とジフは思ったが、サナの感情に左右されない表情からは、そんな曖昧な意志は感じられない。むしろ確信しているように……事実として“知って”いるようにも聞こえた。
サナがすう、と呼吸し、それは鈴の音のような声に変わって音色を紡ぐ。歌声。冷たい静寂に溶け、一体化したように繊細に耳を凪ぐ。
さざなみと雫の落ちる音が織り重なるような、荒立てる者が存在しない、永遠に続く自然の静謐に包まれたような心地に落ちる。時折カナが口ずさんでいる、昼下がりの子守唄のような歌とはまた違った温度の、命の安らぎをもたらす歌声。
それを顕在化するように、サナの歌声に反応してジフの体が光を発し出す。
やがて――彼の意識は歌と光に覆われて霧散した。




