第09話 雨-3
南支部に連れ帰られたカナは、私室で一人、灯りもつけずカーテンも閉めたまま床にうずくまって泣き続けていた。外でふりしきる雨のこもった音が部屋を覆う。
慣れない力の使い方をして必死に助けても、ヨータは自分を振り払ってそのまま戻ってこなかった。どれだけ待てば帰ってくるのかもわからない。これ以上誰を責めても、誰を頼ってもその保証はない。
記憶も故郷も失くして、自分自身すら自分のことを知らず、誰も自分たちのことを知らない世界の中で、彼だけがたった二人でずっと一緒にいてくれた。
でも、もういない。
底なしの海に放り出され沈んでいくような、ひどく重たい絶望がカナの体にのし掛かっていた。
ただ一人取り残された部屋で、雨音に掻き消されそうなカナのすすり泣く声だけが響く。
――かに思えた。
「――――カナ……」
不意に、〝彼〟の声が聞こえた。
頭の中で生み出した幻聴だろうか。カナは驚きのあまり我に返り、膝にうずめていた顔を上げる。
「……カナ……」
思考に反して再度彼の声が聞こえた。それも、耳からというより聴覚に直接。
「ヨータ……?」
直感的に外から聞こえると感じたカナは半信半疑で部屋の窓へ振り返る。
「そこにいるの……?」
窓の下にあるベッドに上がり、カーテンを開く。暗雲と雨が岬の景色を塗り潰している。
「まだ……森の中にいる……今はそこに戻れない……」
その声は辛そうに掠れて疲弊しているが、雨に遮られることなく語りかけ続ける。
「でも……カナの力で傷を治してくれれば……二人でここを離れられる……」
その言葉が、カナの頭の中でやけに冴えて響いた。
窓に手をついてガラスの向こうを見つめるカナの表情には、まだ迷いがある。アイとジフはどう思うだろうか。……でも、自分があんな乱暴な言葉を投げつけたばかりに困惑していた二人が、これ以上力を貸してくれるだろうか――
カナは窓に触れる手に力を込めた。
「ヨータ……そこにいるんだね」
人目を盗んで南支部から抜け出したカナは、森の中を走っていた。
――『森の中を北に進むと洞穴がある』。声に教えられた目印を辿っていくと、やがて本当に岩壁にできた洞穴の入り口に辿り着いた。息を上げながら固唾を呑むカナは、意を決して傘を閉じ、洞穴の中へと入っていく。
岩肌にはところどこ所々に植物が生え、花弁から淡く発光する緑の蛍光色が暗闇を妖しくも幻想的に照らし出す。恐る恐る歩みを進めるカナが中に向かって叫ぶ。
「ヨータ!!」
「――カナ!!」
そして、奥の方からも自分の名を呼ぶ彼の声が発せられ、今度は耳で直に感じ取る。彼がいる。と確信を得たカナは、傘を手に握りしめて走り出した。奥に行くほど植物の光が増えていき、サイケデリックな緑の光が強まっていく。やがて逆光の中に立つ人影が現れる。
しかしそれはヨータの姿ではなく――少女の体格をしていた。
「本当に来てくれるなんて嬉しい~!」
カナの前に現れたのは、氷人形のメイアだった。
顔の前で両手を広げ嬉々とした笑みで立つ彼女に、カナは言葉を失う。
「…………え?」
「だからずっと言ってるじゃない、『ここにいるって』」
愉快そうに喋るメイアの声に、ヨータの声が重なった。どちらの声もメイアの口から発しているのだ。
「もう何度も会ってるのに、あたしの力が音を操る力だって覚えてないの~? 悲しい~! でもいつも戦ってるのはアイくん達だから、カナちゃんは興味ないのかな?」
わざとらしく名前を口にするメイアにカナは戦慄し後ずさる。しかし背後からも手に持っていた傘を奪われ、思わず振り返った。その時、背後に潜んでいたアルテノーラの蔦が襲い掛かる。
「きゃあああ!!」
「あ~あ、今まで苦労してきたのが馬鹿みたい」
蔦で拘束したカナを宙吊りにし、アルテノーラは心底つまらなそうに息を吐く。
「この子自身は大したことないじゃない。……早くアルズに教えてあげないと」
「ううっ……あああ……っ」
カナを捕らえている蔦の力が強まる。さらに蔦から魔力が放たれ、電撃のような痺れがカナの全身を襲う。
「きゃああああああああああああ!!」
「よっぽど痛みに慣れてないみたいねぇ。あんたの周りが代わりにこれを喰らってるのをわかってるの?」
アルテノーラが嘲る間にも、しきりに攻撃を浴びるカナの悲鳴が上がり続ける。不意に攻撃が途切れると、カナの体もぐったりと力を失った。
「ノーラばっかりズルいじゃ~ん! 次はちゃんと優しくしてあげるから」
メイアがむくれていたかと思えば、場違いな明るい笑顔をカナに向ける。そして、すぅと息を吸い、合成音じみた声を響かせた。
「や……やめて……」
メイアの声がカナの五感を刺激し、支配しようとする。鉛のような鈍重感と柔らかな微睡みが体の中で相反しながら、強い睡魔となってカナの意識を苛む。
ここで無防備に目を閉じれば、この後自分はどうなってしまうのか。恐怖感と微睡みの正反対の感覚が、苦痛となって全身を支配する。
痛みから逃れようとする体は微睡みに委ねつつあった。その心地良さの先に恐怖があることをわかっているのに。どれだけ必死に抗っても、それを打ち破る力がカナにはなかった。
――こんな場所に来たのは、ヨータを探すためだったはず。まだ見つけられてないのに。アイやジフにもこのことを教えられてないのに。
……そうだ……その前に……アイとちゃんと――
「……あ……」
やがて、カナは意識を失い、糸が切れたように動かなくなった。
「え~もう終わり~? あっさりすぎな~い?」
「調子に乗って失敗する方が馬鹿らしいでしょ。早く帰るわよ」
「ちぇ~」
カナを捕らえている蔦の地面から黒い渦が出現し、アルテノーラが渦の方へさっさと進んでいく。メイアは口を尖らせながらスキップするように追いかける。
そしてカナを捕らえたままの蔦は、得体の知れない真っ黒な空間に彼女を引き摺り込むように、渦の中へと沈んでいった。
* * *
時同じくして、岬の森のどこかにある鬱蒼とした廃墟。
そこでは、地面に倒れ伏したアイが痛々しく腫れた生傷だらけになって、カイルに一方的に痛ぶられていた。
「アルズに連れてこいって言われたけど、最近アルズがお前の話ばっかりするのがムカつくんだよね」
そう言いながらカイルはアイの体を玩具のように蹴り飛ばす。もはやアイには抵抗する力も残っておらず、されるがままに暴行を受けている。
アイは今の自分の状況どころか、いまだヨータがいなくなったことを受け止めきれていない。
ヨータを助けられなかった自分が、助けを乞う資格などあるのだろうか。
あの時助けられなかった罰が今降りかかっているだけじゃないか。
自分の力で何かをどうにかできたことなどない。何か好転したとしても、それはいつも誰かのおかげだった。アイ自身が何かしようとするだけ無駄なのだ。それなら後はなるがままにしてくれればいい。もし誰も来なくても、それが当然の結果だとわかっているから。
もう何もかも、自分で考えたくなかった。
怯える様子すら見せず、ただずっと無気力なまま横たわっていた。一向に反撃しないアイに、カイルはつまらなそうに舌打ちする。
「俺がこんなにイラついてんのに全然面白くねーじゃん。飽きた」
両腕の長い袖からブレードを突出させ、一思いに右腕を振り下ろす。
――直前。
走ってきたジフが、二人の間に飛び出した。
カイルのブレードにその身を斬り付けられ、右瞼と胸元の裂傷から鮮血が飛び散る。
目の前で起こった事態に、アイは虚ろだった目を見開いた。
そのまま地面に倒れ込んだジフと、倒れたままのアイの視線が交わる。
「……なんで……」
彼に愛想を尽かされ見放されたはずだった。自分を庇ったジフはあまりに大きな傷を負い、流れ出す血と引き換えに顔色がみるみる青ざめていく。
「…………」
ジフは何か言おうと口を動かすが、血を失って上手く力が回らない。かわりに、投げ出された右腕をわずかに伸ばす。彼の右手から腕に魔力の筋が走り、赤と青の光が交互に明滅する。それを見たアイは自分の右手にも同じ反応が起きていることに気づく。
魔力リンク。アイは以前ジフと共に互いの魔力を接続し、反応を共有した。リンクを施した時のリオウの言葉を思い出す。
――『魔力リンクを施し魔力を繋いだ者同士は、どちらかが生きている限り互いの魔力の反応を感じ取ることができます。離れた場所にいても相手の魔力を辿れば位置や状態がわかる』
アイがまだ生きていたから、リンクしているアイの魔力を辿ってジフはこの場所を発見したのだ。
……だとして。何故その場所まで再びジフが庇いに来るのだ。もうこれ以上アイに付き合う理由も義理も、彼にはないはずなのに。
「えぇ~!? なんだよいきなり。お前に用はねぇのに」
思わぬ乱入によって阻まれたカイルが、ブレードに付着した血を粗雑に振り払う。
ジフが痛みで起き上がれずにいると、今度はカイルの背後から足音が聞こえ、ジュディエが現れる。
「お前が戻るのが遅いとアルズに八つ当たりされた」
カインを詰りながら歩み寄るジュディエは、足元に倒れているアイとジフに気づき、無言で見下ろしている。
そして虫の息のジフの腹を思い切り蹴り上げると、ジフは完全に気絶した。動かなくなったその体を軽々と肩に担ぎ上げる。
「先に戻るぞ」
「え~! わざわざ出てきたのにこれで終わり~!?」
ジュディエは踵を返し、あっさりとその場から立ち去ろうとする。素通りしていった彼に向けてカイルの間の抜けた声が響く。
「……おい……どこに連れて行く気だ……!!」
アイが這いずるように腕を伸ばしながらジュディエの背中に叫ぶ。ようやく感情を見せたアイにカイルは満面の笑みを見せた。
軽快な足取りでアイのもとまで近づき、その笑顔がよく見えるようにしゃがんでアイの顔を覗き込む。
「もう一人の女のガキも今はアルズが仲良くしてるってさ」
カイルのその一言で、頭が真っ白になったように、無情なほどアイの脳裏に響いた。
そこでアイはようやく思い出した。最後に聞いたヨータの言葉を。
――『……カナを頼んだぞ……』
はっと目覚めたような顔で、アイは地面に這っていた手のひらを握りしめる。
その拳に力を振り絞って、アイはよろめきながらも立ち上がった。アイの鈍重な動きをのんきに眺めていたカイルは彼を見上げ、さらに弾けた笑顔になる。
「やっと起きたかよ!!」
飛び跳ねるように立ち上がって右腕のブレードを振り上げた。半ば圧されるように身を引いて避けたアイも、右手の拳をカイルの腕に殴りつける。
アイの体に魔力が宿って以来、いつの間にか戦うのが当たり前になっていたが、本来素手での殴り合いなど経験したことはない。それでもアイが激情を剥き出しにして必死に殴りかかってくるだけで、カイルは十分に興奮した。
「お前らはッ……!! なんで!! いつもいつもいつも!! そんなこと!!」
「そういうのでいいんだよ!! どうせここには誰もいねぇんだから、お前も好きなだけ暴れてみろよ!!」
今のアイの体力では、カイルにとってみれば簡単に沈められるだろう。しかしカイルは一方的に痛めつけたいのではなく、ぶつけ合ってその反応が見たいのだ。さながら遊びに手応えを感じた子供のようだった。あえてアイの拳を受けては、自分の腕をふるってアイを振り払う。
「大星座のくせに、何で今まで大人しく突っ立ってたんだよ! つまんねぇ奴だな!!」
「うるせぇ……!! うるせぇ!!」
カイルのような過激な子供というのは、アイの世界でも得てしてこんなものだった気がする。それに対するアイの苛立ちもなんだか今更のような、体が覚え慣れている嫌な感覚がした。一方のカイルもそこにアイを嘲笑う意思はなく、ただ純粋にこの刺激を楽しんでいた。幼い少年のもてあます衝動が、不毛な暴力となって殴り合い続ける。
だが、カイルにも目的があり、遊びの達成点がある。
カイルはそれまで受けていたアイの拳を不意にかわした。その勢いで懐にアイの体が倒れ込み――みぞおちの奥まで拳を殴りつけた。強い衝撃を受け、胃の中の空気がアイの口から吐き出て、間もなくアイは意識を失った。
そのまま腕にしなだれかかるアイの体を、カイルが脇腹に担ぎ上げた。
「ジュディエ~! 終わった~!」
とうに去ってしまったジュディエを呼びながらカイルが駆け出すと、彼の眼前に黒い渦――煉獄の火口が現れる。中へくぐっていくカイルの背後、廃墟の物陰から彼を追う小さな影があった。
「おおおおお前らあ~~!!」
一生懸命に駆けてきたガリュマが、カイルに担がれ遠ざかっていくアイに向かって叫ぶ。
そのまま彼らに続いて無我夢中で飛び込み、ガリュマを飲み込んだ煉獄の火口は霧散するように消失した。




