行間 知ってる人と出会ったらまず挨拶をしましょう
男は道に迷っていた。
風来坊が如く彷徨い歩いたわけでもなく、ただ目的地に真っ直ぐ進んでいたつもりだったが、気が付けば辺りは霧に包まれ、今いる位置すらも掴めない。
立ち込める濃霧の正体はバビオン湿地帯特有の自然現象であったが、そんな知識など持ち合わせていない男は煩わしい真っ白な景色にただただ眉を顰めていた。
古くから秘境として言い伝えられ、一度足を踏み入れれば戻ることは出来ないと言われる場所であろうとも、男にとっては景色の悪い、じめっとした湿地帯に過ぎない。その地域のみに住む猛獣が昼夜を問わず迷い人を狙っていようとも、男にとってはハエが飛んでいるのに等しかった。
男はただ目的の方角へと一直線に進むだけ、魔力の感じる方角へと歩みを進めるだけなのだ。
にも拘らず、
「ここはどこだ」
男はまた立ち止まる。今いる場所が先程通った川の傍であることにも気づかずに、鉄紺の衣服を翻しながらきょろきょろと白一色の景色を見回し、また同じ方角を向いた。
何十分、いや何時間歩いただろう。
霧の深さは相も変わらず、どんよりとした空気が体に重たく圧し掛かる。
いつになれば出られるのだろう。男は思う。
しかし、その思いとは裏腹に今いる場所は幾度となく通過した川の傍のままである。
「方角は合っているはず」
尖った耳を掻きながら男は言う。
その言葉に間違いはない。彼自身が持つ天性の魔力探知能力は他の者に追従を許さぬほどの探知範囲と精度を持つ。
索敵勝負においては生まれてこの方負けたことはないし、敵の位置を瞬時に見つけ、陣営を指揮し、犠牲を最小限に抑えて打ち勝ったことも幾度もある。
けれど、そのような時には、彼の周りには常に誰かがいて、行動も一緒にしているのである。彼自身は気付いていないが、周りにいた者たちはいつも彼を先導し、目的地へと導いていた。
何故なら周りにいる者たちは、その男の持つもう一つの天性のスキルを知っていたから。
超強力な魔力探知能力を持っていながら、同時にその発見地点に決して行き着くことの出来ない能力。
そう、つまり彼は、超方向音痴なのだった。
例え位置を掴めても、そこまで至ることは絶対にない。
何とも矛盾した話だが、しかしそれは純然たる事実であり、残念なことに男はまだその事に全く気付いていなかった。
「ここはどこだ。あっちだよな、あっちであってるよな……」
男の言葉から少しずつではあるが自信が失われていく。
自分ですら制御できない凶悪なスキルにそろそろ疲れが見え始めたその時、立ち込める霧を丸ごと飲み込むように、巨大な口が男の頭上から迫り来る。
男はその場を動かない。
しかし既に攻撃は終えている。
迫り来る危険も過ぎ去った。
男を飲み込むより早く、巨大な口が頭もろとも真っ二つに切り分けられ、泥の飛沫を上げながら川の中へ落ちていく。直後、水面がバチャバチャと波打ち、瞬く間に巨大な口を持つ名も知らぬ猛獣は川に生息する肉食魚によって骨だけの姿となる。
身の毛もよだつような光景を視界の隅に入れながら、それでも男は表情一つ変えることはない。それよりもなによりも目的地に着くことが先決なのだ。
「方角は分かっているのに何故つかない。行けども行けども霧ばかり、……まさかこの私が道に迷っているのか」
ようやく思い至る。これまで考えすらしなかった事実に。
しかし。
「いやこの私にそんなことはありえない。第一に探知によって行く方角は分かっているのだ。それで道に迷うなど、論理的に考えてあり得ない。それでは私が方向音痴と言っているようなものだ。馬鹿々々しいことこの上ない」
時に人は自分自身を誤解する。
自分に限っては、と何の根拠も論理性もない言葉を並べ、自分自身ですら気付かない嘘を吐く。
始まりが間違いである理論は必ず間違った答えへと帰結する。それは証明するまでもなく当たり前の事なのだ。
という訳で、この場合も男の考えは誰も予想しえない結論へと行き着いた。
「そうかわかったぞ、誰かが私の索敵を妨害しているのだな。気配を消しながら私の行く手を遮ろうという者がいる。そうだ、そうに違いない。何者だ、出てこいっ!」
その叫びは辺りを覆う霧にあっという間に溶け込んでいく。残るのは悲しい沈黙と男の勝手な怒りだけ。
「そうか、出てこないつもりか。ならばこちらから行くとしよう」
男は胸の前で手を合わせ、フンッ! と鼻から強く息を吐き出しながら両の手を左右へと開いた。たったそれだけで男を中心に半径百メートルの範囲に暴風が吹き荒れ、決して晴れないとされてきた霧がその一帯だけ吹き飛んだのだった。
「見つけたぞ」
そう言って男は南西の方角を振り向いた。そこには確かにオリガナ王国軍の軍服を着た兵士が立っていた。
ニヤリと男は笑ったが、それはあくまでも偶然の出会いであり、兵士にとっても予期せぬハプニングだった。
「魔人!」
兵士は叫ぶと同時に、男に背を向けて走り出した。対して男は急ぐ素振りも見せず、のろのろと兵士の逃げた方向へと歩いていく。
けたたましい笛の音が湿原に響き渡る。
多数の足音が聞こえ、無駄のない動きで男の周囲を数十人の兵士が取り囲んだ。
「何故こんなところに魔人がいる」
「無駄なこと考えるな。目の前の敵に集中しろ。相手は魔人だ」
「だが武器を持っている様子はない。それにどうして空の鞘だけ腰に付けてるんだ」
口々に何かを呟いているようだが、男にとっては関係ない。人間界に赴いた時からこうなることは想定済みだった。ここはまさに敵側の領地。これまでに経験してきた数々の戦場を思い出し、男はそっと目を閉じた。
再び目を開けた時、男の正面に他の者とは逸脱した魔力を纏う兵士が立っていた。一目見て敵の大将であることは容易に想像できた。そして、その者の顔にも見覚えがあった。
日に焼けた肌に白を基調とした独特の正装。身長は二メートルを超し、その背には身の丈よりも巨大な大剣を携える。防具は一切身に付けず、代わりに身に纏う魔力と強靭な肉体が鋼以上の硬度を誇る。
幾度かの戦場で相対し、その度に命を削り合った難敵。忘れるはずもない。
「ベール=バルガボンド」
「リール=ベルガモンドだ。いいかげん聞き飽きたわ」
もう絶対わざとだろ、と内心思うリールだったが、口には出さない。
オリガナ王国軍軍隊長にしてオリガナ一の戦士とも名高いリール=ベルガモンドは、そこに立つ敵を見据え、怪訝な表情を浮かべる。
「反逆者を追う途中でまさか貴様と出会えるとはな」
「リール=ドルガムンドだったか」
「もうその話はいい! あの戦争でお前の屍は最後まで見つからなかった。姿を消し、その後の行方も分からなかった貴様が目の前にいる。どういう目的で人間界に来たかは知らんが、魔王の右腕と呼ばれた男を消すには絶好の機会だ。殺し損ねた貴様の命、今ここでいただく」
「戦争は終わったにも拘らず、まだ戦か。やはりお前たち人間の中には悪鬼が棲みついている」
男の言葉にリールは笑う。
「悪鬼というならお前ら魔人の中にこそ宿っているだろう。凶悪な魔の力を生まれ持ち、存在するだけで他に害悪を成すものこそが貴様らだ。その力によってどれほどの者たちが苦しんだか分かるまい。魔界こそが悪。我々はその悪から国を、国民を守るためにここにいる」
「ふん、どこかで聞いたような言葉だな。表しか見ないお前たちには所詮分からぬこと。そういった思想の裏に苦しむ者たちがいることに早く気付くべきなのだ」
「何を言う。攻めてきたのは貴様らの方だ」
「ただ一人それに気づいた者もいたが、結局は何も変わらなかった」
「何の話だ」
「約束の期限は過ぎた。我が主を返してもらおう」
男の周囲から放たれる圧迫感。湿原の草木が波打ち、その一帯が男の領域となる。
「今すぐにこの場から離れろ。私以外の者は決して奴に近づくな」
リールの声に兵士たちが動揺する。敵を完全に包囲し、今にも一斉攻撃で敵を殲滅すると確信していた彼らの思考に、その指示が伝わるまでのほんの一瞬。
兵士たちの動きが鈍ったその隙を見逃さず、戦場の中心に立つ男は静かに片腕を振るった。空中を撫でるような滑らかな動き。しかし次の瞬間、伸ばした片腕の延長線上にいた兵士たちがまとめて切り裂かれる。
血しぶきが舞い上がり、複数の悲鳴と共にバタバタと兵士が倒れていく。
そこでようやく兵士たちは再認識する。目の前に立つ敵がかつて魔王の右腕と呼ばれ、世界から恐れられた存在であることを。
「透明な魔力……」
呟くと同時にリールは飛び出した。
目に映らず、感じることすら出来ない静寂で澄み切った魔力。その魔力を刃や球体、さまざまな形態へと変化させ、敵へと放つ。敵は己の身が削り取られるまでその魔力の存在に気が付かず、攻撃を受けたという結果のみが残される。
リールは背の大剣を取り、容赦なく男の頭上に振り下ろした。
敵の眉間まであと十センチの所で、大剣は唐突に見えない壁に止められ、二人の間で爆風が吹き荒れる。
「監獄棟の姫を取り返しに来たか。だがもう遅い。あれは一足先に高名な反逆者が奪い去っていったぞ」
「そうか、ならば探すまでだ」
「それは不可能だ。貴様はここで死ぬ」
大剣が弾かれ、リールの体が後方へ飛ばされる。柔らかい土を深く抉り取りながら着地し、間髪を入れずに再び男に向かって飛び出す。腕や足に刃で切られたような傷ができ、赤い液体が傷口をなぞるように流れていく。
「相変わらず固い体だ。ただの刃では傷を負わせることも難しい」
リールは己の魔力を常に全身から放出し続けることで肉体の強化を行っていた。通常の鋼よりも固い体の上に、超高硬度の一切の隙間がない鎧を纏うように、例え刃を生身で受けようとも決してその身を断つことは出来ないほどの究極の装備。
故にリールに防具は必要ない。
大剣が男の胴を捉える。見ない壁が剣の行く手を阻むが、構うことなくリールは剣を振り抜いた。男の体がくの字に折れ曲がり、未だ霧の残った付近まで吹っ飛ばされる。
霧を纏うようにして男はゆっくりと起き上がり、肩の力を抜きながら細い息を吐いた。
「まだ、名を言っていなかったな」
「名などとうに知っている」
「いや、これは私の流儀でね。命を取る相手には必ず最後に名乗るようにしている。黄泉で再会した友との話の種くらいにはなるだろう」
男は魔族特有の琥珀色の瞳をリールに向け、
「名はハトン=デオモディオン。魔王に仕えし、一人目の従者」
「魔王は死んだ。お前ももう主人の許へと帰れ」
人と魔人。
共に王に仕え、己が誇りのために戦う者。
戦乱の世を生き残った二人の強者が長い月日を経て、今一度刃を交える。




