18 もう逃げない
やけにすっきりとした目覚めだった。
瞼を開いた瞬間から視界はクリアで、意識もはっきりとしている。体を起こすと、腰の辺りが少し痛み、続いて左側の腰に痛みが走った。腹には包帯が巻かれており、肘の裏には点滴の針が射し込まれている。
「ここは……病院か」
肌色の患者服を見下ろしながら、自分の眠っていた場所を確認する。ほんのりと香る消毒液の臭いが反応の鈍い体に刺激を与えてくれる。
どうやら俺は夢を見ていたらしい。既に夢で見た景色は掠れてしまっているが、それでも全身を包む黒い手の感触は残っていた。
肌に残る温もりが窓の隙間から滑り込む風に流されていく。
白い天井を見上げ、それから外の景色に目を向ける。隣の敷地に見えたのは大きく開けた土地だった。草一つ生えていないだだっ広い敷地の中で、王国軍の服を着た集団が走っている。
あれは恐らく軍の施設。とすれば、ここは王国軍病院だろう。辺りには見覚えのない景色が広がっている。
(俺はどうしたんだっけ。確か……)
そこまで考えて急な吐き気に襲われる。左手で口を押え、右手で届く範囲に置かれていた容器を掴み、口に当てる。食道を通り、口から吐き出されたのは酷い味の胃液だけだった。空っぽの腹からはそれ以外に出るものが無かったのだろう。
少しして喉がヒリヒリと痛み出した。患者服の袖で口を拭い、容器を元の位置に戻す。手に取った容器はどうやら排泄用の容器だったらしく、蓋をすることも出来ず胃液の臭いが漂っていた。
「あれから何日たったんだ」
周囲を見回しても日付の分かるものなどなく、俺はゆっくりとベッドから足を下ろした。大部屋には俺以外にも患者がいるようだったが、皆カーテンを閉めていて誰がいるのかは分からなかった。
点滴と一応の気を使って排泄用の容器を手に持ち、病室を出る。
「お目覚めになったんですね」
出て直ぐに看護師の女性と出くわした。彼女は優しい表情でそう言うと、俺が手に持っていた容器を受け取る。
「新しいものを持ってきますので、お部屋でお休みになってください。直ぐに医師を呼んできます」
看護師は振り返ると、足早に去っていった。
俺は元の病室に戻り、またベッドに寝そべった。数分もしない内に医師が到着し、簡単な検査をした後に幾つかの質問を終えてから病室を出ていった。
「あの、いまって何日ですか」
俺は一人残った看護師に聞いた。
答えられた日付は、建国祭の最終日からすでに七日が過ぎていた。
「一週間も……」
「意識を取り戻すのに時間が掛かってしまいましたが、命の別状はありません。今は安静にしていてください」
「俺は、その、どういうふうにここまで運び込まれて……」
「私が聞いた限りではオリガナ城で意識を失い、そのままここに運び込まれたと。意識を失ったのは強いショックを受けたからだろうと医師は仰っていました。あの、光景を見たからだろうと、その、国王様の……」
そこまで聞いてようやく俺の脳裏にはっきりと七日前の記憶が蘇った。劫火に包まれたオリガナの景色。そして、玉座に眠る国王の姿。
「そうか、そうだった」
深く俯き、言葉を失う。
あれだけ平和で明るかった国が、たったの一夜で……。
重なるのは第二次魔王大戦の記憶。
戦乱の世が再び始まろうとしている。
「下を向いていてはダメですよ。体によくありません」
看護師の言葉に顔を上げると、優しい笑みでこちらを見ていた。釣られて笑おうとするが、笑える気がしない。心の中はまるでカオスだ。
恐怖が足元から這い上がって来るのが分かる。
「そんな顔をしているなんて珍しいねぇ」
今度の声は看護師のそれとは違っていて、明らかに男性の声だ。それも俺が良く知る教官の声。
「目が覚めたと聞いて駆け付けたんだ。無事で本当に良かった」
「先生こそご無事で。あの男は倒したんですね」
「それがね。戦闘の途中で逃げられてしまったんだ」
それ以上の思いは、リトリル先生の表情が物語っていた。怒りと後悔、悲しみ、さまざまな感情が入り交じったその顔を俺は黙って見つめていた。
「体調の方は?」
「大丈夫です」
「それなら外で少し話そうか」
看護師の許可を貰い、俺はリトリル先生と共に病院の中庭に出た。建物の中にいる時よりも日差しが数段強く、久々に射し込む光に目に強い痛みを感じた。心地良い風を身体に浴び、俺は深く息を吸い込んだ。全身に溜まった重たい物を吐き出され、新鮮な空気を取り入れる。
歩道の脇に置かれた緑のベンチに俺とリトリル先生は並んで座った。
「君が眠っている間に色々なことがあってね。街はいま大混乱だ。国王がお亡くなりになられたことや建国祭での一連の出来事。そして勇者アスタ=クレイエルがオリガナから姿を消したことも混乱の要因になっている。今日ここへ来たのは、この七日間のことを伝えるためともう一つ。君の今後について大事な話がある」
「リトリル先生」
「何だい?」
「そんなことはどうでもいい。俺が聞きたいのは、皆のことです。ファナは、ラミエラは、ブートやキイナは無事ですか」
「その四人は無事だよ。今も街の復旧活動に参加しているはずだ。ただし、ファナ=アシスタは別だ。彼女は未だ意識を取り戻していない。君と一緒に王城で発見されてからずっと寝たきりだ」
王城で見たのは横たわるファナの姿。その傍らにあの男は立っていた。
建国祭前の山の中での出来事からここまで、ファナはやはり俺の知らないところで何かをしていたんだ。恐らくアスタ=クレイエルに深く関係することを。
でもだとしたら、なぜ殺されなかったのだろう。城郭付近にいた兵士たちはみな命を奪われていたのに、俺たちだけは見逃された。どうして……。
考えれば考えるほど頭の中が余計に混乱してくる。疑問符の数が多すぎる。
「ファナのいる病室は何号室ですか」
「教えてもいいけれど会うことは出来ないよ」
「どうして……」
「彼女は現在王国軍の監視下に置かれている。王城への侵入の件、そしてアスタ=クレイエルと何らかの関わりを持っているという理由でね。当然ながら君も監視対象の一人だ」
そう言ってリトリル先生は自分の顔を指差した。
「リトリル先生が、俺の監視係ですか」
「正解。ただ君に関してはファナ=アシスタを追って王城に向かったという話も聞いているから、こうして僕が付き添うという形で話は纏まったんだけどね」
「それじゃあ、目覚めたと聞いて駆け付けたってのは嘘か。ずっと病室の外にいたんですね」
「それも正解。ファナ=アシスタの処遇についてはまだはっきりとは決まっていないけれど、彼女が目を覚ますまでは監視が付くことになっている。目を覚ましたら直ぐに尋問に掛けられるだろう」
「尋問ってあいつは何も」
「していないと本心からそう言えるのかい。君は王城で何を見た?」
俺が目にしたのは、全てが終わった後の光景。
そこに行き着く筋道は全く分からない。
「何も見てません。本当に何も……」
背中を曲げて足の間で両手を握り締めた。
「ずっと近くにいたはずなのに、何一つ気付くことが出来なかった。ファナはたった一人で先に進んでいた。今更になって無力な自分がとても憎い。たぶん俺は安心していたんだ。例え実力に差が出来たとしても俺たちはどこかでつながっているんだって。離れることなんて絶対にないって」
気が付けば言い訳ばかりしていた。
どうしてこんなに違うんだ。そう思うたびに悔しかった。けれどそれは次第に俺の当たり前になって、ファナの姿を眺める自分に慣れてしまっていた。
仕方ない。持って生まれたものが違うんだ。
心のどこかでそんな風に考えながら、外面だけは強くなる強くなると子供のように叫んでいた。口先だけじゃないぞと、特訓をしていたつもりだった。
でも、俺がそんな中途半端な自分から目を逸らしている間も、ファナはずっと追いかけていたんだ。俺が、俺たちが、憧れたあの背中を。
「リトリル先生。俺に力をくれ。もう二度とファナをあんな目に合わせないために」
少し間を置いてリトリル先生は答えた。
「そうか、それはちょうど良かった。僕からも君に一つ提案をしようと思っていたんだよ。ストラ=エリレック、僕らの許に来る気はないかい?」