2. 重いドアの向こう側
「なんか、緊張するんだけど」
「こんな時間に女の子を連れて帰ったら、母さんは倒れちゃうかもしれないな」
「そ、そうなる前にちゃんと説明してよ」
「この状況をなんて説明するんだよ」
「確かに……」
帰りに寄り道をしていたら泣いている女の子がいたから拾ってきた、それもトウキョウからオカヤマまでテレポートしてきた女の子だ。自分でも頭が痛くなる。母さんが倒れるとしたら、深夜に女の子を連れてきたことではなく、息子が話す理解不能な経緯に頭がショートしたときだろう。
「ほら、着いたよ」
同じ時期に一度に建てられたのか、似た造りの一戸建てがいくつも並んでいる。その中の一つ、まだ明かりの点いている自宅の前でポケットに手を潜らせた。
取り出した鍵を差し込んで回すとガチャッと音がして、向こうからは微かに足音が聞こえる。きっと母さんが出迎えにきたんだろうなと思いながら、後ろにいるユミのことをどう説明しようかとまた考える。チラッと後ろを振り返っても、当の本人は意識している素振りもない。なるようにしかならないか。と観念したようにドアを開けた。
「ただいま」
「おかえりなさい。ずいぶん遅かったわね……えっと、その子は誰?」
「はじめまして、ユミと申します。夜遅くにすみません」
礼儀正しく母さんに挨拶する姿は、僕と話すときの態度とは全く違っていた。勝手に自由奔放な性格だと思い込んでいたが、常識的な振る舞いも難なくこなせるらしい。
「説明はするから、今日は泊めてあげて」
「突然そんなことを言われても……ご両親はご存知なの?」
「ちゃんと話してきたので大丈夫です!」
ハキハキと答えてもやはり無理があるようで、腑に落ちない表情の母さんは僕に手招きをする。ユミには先にリビングに行ってもらって、二人きりになったところで今夜の交渉が始まった。
「ヨキ、どういうことなの?何を隠してるの?」
「隠してるわけじゃなくて、どう言えばいいか考え中……です」
じっと僕の目を見つめて表情を確かめる。嘘をついていないかどうかを見極めるためにやっていることだが、何もかもを見透かされているようで目を逸らしたくなる。
数十秒、いや、数秒だったかもしれない。僕にとっては長い長い無言の時間を耐え抜いて、母さんがようやく折れた。
「……はあ。深夜だから今日は泊まっていきなさい。ただし、明日ユミちゃんを送り届けるときに菓子折りを持っていくこと。それから、お付き合いするのは自由だけれどやましいことはしない。部屋も別々。わかった?」
素直に従っておいたほうが賢明だと頭では理解していたが、お付き合い、の言葉に反応してたまらず否定する。
「いや、別に付き合ってるわけじゃないんだけど……」
「わかった?」
「……うん。わかったよ」
二度目の殺気迫る勢いに押し負けて、それ以上強くは否定できなかった。盛大に勘違いされてはいるが、許可が下りたことで肩に圧し掛かっていたプレッシャーから少しだけ解放されたような気がする。納得してもらえたわけではないが、なんとか話を終えた母さんと僕は二人並んでリビングへと歩いていった。
毎日帰ってきている場所でも、今日ばかりはすごく懐かしく感じる。今日起きた衝撃的な出来事に混乱する脳内は、見慣れた家具たちを見て安心しているようだ。
唐突に腹の虫が騒ぐ音が聞こえた。僕ではない。視線を隣へ向けると、耳まで真っ赤に染めながら足元を見つめているユミの姿があった。
「ご、ごめん。朝から何も食べてなかったから……」
「あら、じゃあ何か軽いものでも作るわね」
そう言って母さんはエプロンをかける。冷蔵庫からいくつか食材を取り出してキッチンに立つ姿は、さすが母といったところだ。
「僕も夕飯まだだから、二人分お願い」
「ヨキはユミちゃんの手料理のほうがいいんだろうけど、今日は我慢しなさいね」
「だから、そんなんじゃないんだって……」
悪気がないからこそタチが悪い。冷ややかな視線を感じて目をやると、大袈裟に胸を隠すような仕草をしている。しょうがないだろ、と困った顔でアイコンタクトをしたが、伝わってくれているだろうか。
食事が出来上がるまでの間、未だ軽蔑したような目をしているユミを連れて家を案内する。トイレ、バスルーム、それから空いている部屋が一つ。今日はそこを寝室として使ってもらう予定だ。
「そういえばお父さん、まだお仕事なの?」
「死んじゃったよ。僕が九歳のときだった」
仕事中に突然倒れた父さんは、そのまま帰らぬ人となった。駆けつけたときにはもう冷たいベッドの上で眠っていて、静まりかえる病室に響く母さんの泣き喚く声はずっとこびりついている。
当時、まだ幼かった僕に理解できていたわけではないが、二度と会えないということは感じていたと思う。なんとなく、周りの普通ではない空気で。
「ごめんなさい。亡くなってるとは思わなくて……」
「気にしなくていいよ。もう昔のことだから」
咄嗟に出た言葉は、神妙な表情をするユミを気遣うためではなく本心からだった。けれど、月日が過ぎる毎に少しずつ曖昧になる父さんとの思い出だったり、ぼんやりとしか覚えていない顔つきだったり、寂しく思ったりもしている。
「夕飯、できたわよー」
気まずい沈黙を破るように母さんの呼ぶ声が聞こえ、僕らはリビングへ向かった。
***
「「いただきます!」」
テーブルに並んだ料理を前に、ほぼ同時に発した声。僕が野菜炒めを一口頬張るのを確認してから、同じようにユミも食べ始める。
「お母さん、美味しいです!」
「それはよかった。でも、こんなものしかなくてごめんなさいね」
「いえいえ、急にお邪魔したのにありがとうございます」
僕と会ったときもそうだったが、ユミは人見知りとは無縁の性格らしい。初めて会う男とその母親を前にしても萎縮することもなく談笑できるのは、相当図太い証拠だ。
途切れることのない会話と時折聞こえる笑い声の中で、僕は話に入ることはせず考え事をしていた。言うまでもなく、これからのことについてだ。ユミを送り届けるにしても、車を持っている友人もいなければ電車やその他交通機関に乗せてあげられるお金もない。となると歩いて行くしかないが、仕事を長期間休むとなると僕と母親は生活ができなくなってしまう。何か別の方法を考えようと頭を働かせていると、いつの間にか夕飯は空っぽになっていた。
「えっ?トウキョウからきたの!?」
「あの、えっと、はい……」
突然の大声に母さんに視線を向けたが、当然の反応だ。驚き方が僕とそっくりで親子だなと一瞬頭をよぎったが感心している場合ではなく、今日のこととこれからのことを話さなければならない。
「待ってよ。そのこと、今から話すから。理解してもらえる自信はないけど」
「はあ……とりあえず話してみてちょうだい」
「トウキョウで普通に暮らしてたはずが、気がつくとオカヤマにいたらしい。どうやって来たのかは全くわからない。僕は帰り道でユミを見つけて、放っておくわけにもいかないし連れてきた。家まで送ってあげられればいいんだけど、方法が思いつかなくて困っているところ」
「それ、本気で言ってるの?」
詳しく説明するつもりが、自分でもこれ以上どう説明していいのかわからず言葉に詰まった。母さんが信じられない様子で僕とユミの顔を交互に眺めているのも仕方がない。
「本当なんです……」
それまで俯いていたユミが精一杯言葉を吐き出す。肩を震わせている姿を見た母さんは少し冷静になったようだった。
「正直、簡単に信じられる話じゃないわ。でも、信じます。どうすればいいか考えましょう」
「あ、ありがとうございます……えっ、あっ、ごめんなさい」
無意識にユミの頬に涙が零れ落ちた。あれ、と困った顔をして拭ってみても次から次へと溢れてきて、隠すように顔を覆う。それも通用しなくなり、堪えきれなくなったのか遂には声を上げて泣いてしまった。ユミの涙を見るのは二度目だが、一度目とは違って安心しているように見えたのは間違いではないと思う。
「一人は怖かったでしょう。ちゃんと、ちゃんと考えるから。ね?」
オロオロする僕とは反対に、母さんが子供を諭すように頭を撫でる。泣き止むのにはもう少し時間がかかりそうだった。