ほりい しょぼう
核家族化が進む現代で、家族の在り方について深く考える機会は少ないように私は感じます。
また、社会に出るまでに両親や学校の先生など限られた大人とのコミュニケーションだけで、私たちは何十年と続き、多くの見知らぬ大人と関わりながらの人生を送ろうとしています。
そしてきっと失敗は数え切れないほどするでしょうし、怒られてばかりの毎日を送るかもしれません。
もしかしたらそんな毎日にうんざりしてあらゆる形で逃げ出そうとするかもしれません。
そんな時、久しぶりにおばあちゃんに会いに行ってみませんか。
うっとおしいくらいお節介で、「会わなければ良かった」と思うかもしれません。
しかしそれはおばあちゃんからすれば愛しい我が子の子、さらに愛しい孫が会いに来てくれたので、いつもより気遣い、お節介と思われてしまったということなのです。
人生の先輩であるおばあちゃんに「生きる」とは何か。人類の長年の疑問、そして課題である難題を解いてもらえるかもしれません。
“ほりい しょぼう”
そのひらがなで書かれた年季ものの看板の下にはよく“タマ”という犬がいる。この書房の店番兼看板犬だ。
「タマ、今日も店番か。」
赤いリードで店の柱に繋がれたタマは、今日も何か考えている。僕はタマの何か考えていることは分かるのに、何を考えているのか分からない。いつも遠くを見つめながら考えている。
「あら、よっちゃん。タマと話しとるんね?」
堀井 フミさん、86歳。
この田舎町に嫁いできて60年、ずっと堀井書房を守ってきた優しく頼れるおばあちゃんだ。
「いや、タマが何か考えとるんよ。」
僕がそう言うと堀井のおばあちゃんは、
「そうね、考えとんね。タマ、考えとるんね?」
タマに向かって目を細めながら言った。
「義務教育」という国から守られて教育を受け、高校生になった私はまだまだ知らないことだらけです。
きっと一緒に暮らすおばあちゃんから見れば、私はまだまだ1人では何もできない大きな赤ん坊のように見えると思います。
そんな私でもおばあちゃんが好きだと思えていることは確かですし、一生そばにいたいと思っています。
しかし歳は半世紀以上離れている私たちには今の科学では不可能でしょう。
そして、どちらかが相手を失うというのは大きな悲しみです。
だからこそこのお話を読んでくださった方でおばあちゃんに会える人はぜひ会っていただきたいです。
そして、おばあちゃんと日常を送ってみてください。
きっとさらに素敵なおばあちゃんが見えてくるでしょう。