阿分の剣
一振りの宝剣が完成した、名匠に作らせた見事な鉄剣である。
輝く剣には金で銘文を彫らせた。
満足な出来だ。
「我は大彦命を祖とする産まれ、阿分臣なり!
代々武門の頭(四道将軍の家系)を務め大王を補佐してきた家柄である。
我もまたその祖先たちと同じく大王の補佐として仕えてきた。
今この地に、我が塚を作ろうと考えている。そこにこの宝剣を添えるのだ!
この宝剣に記した銘文は、偉大なる若建大王のご治世を補佐した我が名誉の証となるだろう!」
そう言って阿分臣は剣を皆の前に掲げた。
鉄剣は太陽の光を浴び、清らかな輝やきを放つのであった。
阿分臣の子孫はその後も繁栄し、自らを「阿部氏」と称するようになる。
平安時代には安倍と改め、陰陽師を生業とする家系となったとも言われている。
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埼玉県行田市にある、稲荷山古墳から出土した鉄剣は獲加多支鹵大王の文字の刻印されていることで有名である。
この、阿分臣と言う人物は、その鉄剣の銘文から解釈して書いてみたものである。
原文では乎獲居臣と書かれていて、そこに記されている系譜から阿部氏の先祖ではないかと言われている。
阿部氏の系図
大彦命
武渟川別命
豊韓別命
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・
・
阿部大麻呂
銘文の系図
意富比危
多加利足尼
弖已加利獲居
多加披次獲居
多沙鬼獲居
半弖比
加差披余
乎獲居臣
「とよから」が明らかに「てよかり」と変な当て字になっているので、その他もそのまま読むわけではないと思う。
そこで乎獲居臣の「乎」は「阿」と書きたかったのではないだろうかと考えた。
そして、獲居の字に「分」を充てれば、阿分、阿部になったのかもしれないと考えたのだ。
この短い物語では自らの塚へ添えるための宝剣として描いたが、もしかしたら戦乱の多かった雄略天皇の時代、今で言う軍人の身につける認識票のような意味合いだったのかもしれない。
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辛亥年七月中 記乎獲居臣
上祖名意富比危
其児多加利足尼
其児名弖已加利獲居
其児名多加披次獲居
其児名多沙鬼獲居
其児名半弖比
其児名加差披余
其児名乎獲居臣
世々為杖刀人首奉事来至
今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時
吾左治天下令作此百練利刀
記吾奉事根原也
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かのといの年7月中旬、オワケの臣記す。
始祖の名はオオヒコ、その児をタカリのスクネ、その児の名をテヨカリワケ、その児の名をタカヒシワケ、その児の名をタサキワケ、その児の名をハテヒ、その児の名をカサハヨ、その児の名をオワケの臣と言う。
代々、代々武門の頭(四道将軍の家系)を務め奉じてきた家系である。
今、ワカタケルオオキミの【照らし敷きます時】、我もまた祖先と同じく天下を補佐したので、この百錬利刀を作らしめ、これをその証として残すものである。
※【】の部分は一般には「大王の寺がしきの宮に在る時」と読むとされている。
読み下しも、独自の読みなのでそのまま資料などには用いないように注意してください。