特急シンデレラ
二分前に見た景色が流れていく。今度は逆回転で。
三鷹から中野までの運転手は山中だから、到着するのに十五分はかかるだろう。おれはそう考えて、座席にもたれて目を閉じた。明日の会議のシミュレーションを、もう一度頭の中で行ってみる。
腕時計を見ると十一時五十分になろうとしていた。十二時までには帰ってくるよね? 息子の真人がそう言った時は、夕食までには帰ると請け負ったはずだった。さすがにこの時間だと、真人も夕食は適当に済ませているだろう。
それにしても、会社に行くために通勤電車に乗るのは久しぶりのことだった。企業の完全IT化が完了したのが二〇二四年の年度末だから、おれが最後に電車に乗ったのは、もう十年近くも前のことになる。しかし、どこも同じようなものだろう。
今では、外に勤めに出るのはJRの職員くらいだ。
ふと目を開けると、前の座席に座った老人が、懐かしそうにこちらを見ている。コンピュータ一台で仕事が出来る現在、スーツ姿のサラリーマンになんてお目にかかることはない。大方、暇を持て余した老人が昔を偲んで乗車しているのだろう。
おれの親父も死ぬ前の二年間、毎日朝からスーツを着て、電車に乗りに行っていた。一度だけ車両を借り切って、雇った百人程のエキストラと一緒に詰めてやったら、学生服の少年が背負った大きなスポーツバッグとサラリーマンの巨体に挟まれながら親父は、ああ懐かしい、と涙を流した。
苦しい思いをしてまで、何が嬉しいのか、おれにはさっぱり解らなかった。
「お勤めですか」
「ええ、会議の打ち合わせがありまして」
「ほう、打ち合わせですか」老人は懐かしそうに顔を綻ばせ、
「私どもが現役の時代には、やれ残業だの休日出勤だので大変でしたなア」
「もはや仕事人間だなんて言葉は死語ですね」
「いやはや、便利な時代ですよ」
老人は皮しかついていない腕を、つるりと撫でた。
「しかし、最近は会議もネットが主流でしょうに」
窓の向こうの吉祥寺の街並みが途絶えた頃、老人がポツリと呟いた。
「ええ、もちろん、普段はそうですよ。でも」
おれはさっと辺りを見回した。この車両に乗っているのは二人だけだということを確認する。それを見て老人は楽しそうににやりと笑った。
「今回は先方の事情だそうです」
「ああ……色々大変ですね」
全て了解したという風に、頷く。
「しかし、久々に出勤すると、慣れなくて戸惑ったのではありませんか」
老人が話の続きを促した。腕時計を確認し、もう少し老人の話に付き合うことにした。
西荻窪です、低いバリトンが告げて、ドアが開く。
「普段は、ご存知の通り、インターネットを通して会議をしているんですがね」
おれはさっきまでの出来事を思い出しながら話し始めた。
「簡単なものならチャット形式で済ませます。インカムやカメラは会社から支給されていますから、そちらを使うことの方が多いわけですが」
「成り済ましを防がないといけませんしね。それに、そっちの方が楽だ」
「問題点はあったんですよ。カメラによって家の中が見えてしまうとかね」
老人は笑いながら頷く。
「導入したばかりの頃は、自分の映像は見えませんでしたから、男所帯のむさ苦しい部屋を見せ合う破目になりましてね。スクリーン機能が開発されて自動で背景が生成されるようになるまでは、会議の前日は徹夜で掃除でしたよ」
ほう…… と相槌を打つ。出来ればその当時の話も聞いてみたかったが、今夜は時間がなさそうだ。
「それで、今日は久々に同僚と対面しての会議だったんですが、いやア、いかに自分達が在宅での職務に慣れきってしまっていたかを実感しました」
乞われるままに象徴的なエピソードを披露した。集まった半数以上がネクタイを着用していなかったこと。擦り切れたジーンズを穿いて来た者さえ、一人二人ではなかったのである。
「おそらく普段は、スクリーン機能を使ってスーツを合成していたのでしょう」
ひとしきり笑った後に、老人が指摘した。実物と合成の見分けがつかなくなったのは、もうどのくらい前からだっただろうか。
ビールを飲みながら会議をしようとした者の話では、おれも井口の顔を思い出して苦笑せざるを得なかった。井口の奴、普段から飲みながら会議をしていたようで、アルコールによって頭の回転が良くなるのだと抜かしたのである。
「とにかく、このままでは先方にどんな失礼があるかわからない。そこでビジネスマナーの講習会をやることになりましてね」
如何せん、仕事相手と直接会って仕事をしていたのが十年以上も前の話だ。まず、当時のマニュアルを検索するのに手間取った。昔のデータも大体はデータ管理されていたはずなのだが、社員に向けたビジネスマナーのマニュアルは社員が各自で管理していたのか、データが検出されなかったのである。当時は分類方法もめちゃくちゃで、あちこちのファイルを覗く度に、おれはうんざりした。そうやってようやく見つけ出したデータを現在の社会常識に照らし合わせ、適当な部分を各自の端末で確認してみると、拡張子が違うために開くことが出来ないものが大半で、結局会社の会議室を使ってえらく旧式な講習会を行なう破目になったのである。
「それは、本当にお疲れ様でしたね」
「あとは、会議が成功するのを祈るだけですよ」
「きっと先方も同じ気持ちでしょう」
「そうだと良いのですが」
老人はにっこり微笑み、
「それでは、今夜はいい気分転換になるでしょうな」
「いやまったく。お話できて良かったです」
久々に電車に乗ってみた甲斐があったと、おれは思った。
「ところで、お勤め先はどちらのほうですか」
ふと思い出したように、老人が尋ねた。
「飯田橋です」
おれが答えると、一瞬眉根を寄せた後、微笑んで
「では、わざわざこちらの電車に」
「中野の自宅から飯田橋に行くには、一旦三鷹へ出てから総武線に乗ったほうが早いと、弟に教わりまして」
「ああ、田中さんの電車をご利用になったのですね」
おれは頷いた。三鷹・新宿・飯田橋・秋葉原・津田沼にしか止まらない田中運転手の車両を使えば、自動運転で運行している私鉄よりもよっぽど早く目的地へ到着することができるのである。この車両の山中運転手は、徹底した安全運転のため必要以上に乗車時間がかかることで有名らしいのだが、田中運転手との乗り合わせを考えると、この車両が一番効率的なのだ。
鉄道オタクの真人からその話を聞いたときには半信半疑だったが、試しにその通りに通勤したところ確かに早かったので、帰りも同じルートを利用したのだった。
「総武線で運転手ダービー制が施行されたときにはたまげましたがね」
老人が言った。
「結果的に、現在も人間が運転しておるのは総武線だけじゃないですか。電車の運行を完全に運転手に委ねるというのが、なかなか斬新な試みだったからでしょうな」
五年前に総武線が始めた『運転手ダービー』は、徐々に浸透しつつあった。これは当時、電車通勤という仕組みが終了するまでわざわざ出勤する必要のあった職員の慰労と、刺激に飢えていた都民に向けた新たなアトラクションという側面もあった。
停車駅はもちろん、車中のインテリアや車内放送まで、それぞれの運転手が自分の好きなように車両をプロデュースするというスタイルを採っているが、各車両に装備が義務付けられているGPSと、車両間隔を調整する自動列車制御装置のおかげで、これまで衝突事故を起こったことは一度もない。
「通勤という言葉を知らない子供たちにも、かえって新鮮なようですしね」
息子の顔を思い出して、おれは答えた。
高円寺駅のホームが見えてきた。あと一駅だ。
真人は起きているだろうか、思わず腕時計を覗きこんだおれに、老人が時間を尋ねてきた。
「ちょうど十二時を回ったところです」
そう答えたとき、高円寺駅のホームが猛スピードで車窓を駆け抜けていった。
高円寺を、通過したのである。
「さて、それでは行きましょうか」
おれを連れて、老人は前の車両に移った。空っぽの車両。もう一つ前の車両へ。空っぽの車両が続く。おれは混乱したままついていくしかなかった。
先頭車両に導かれ、ドアをスライドさせた瞬間、耳を劈くクラッカーの爆音に、思わずしゃがみこみそうになった。
続いて入ってきた老人が、腰の引けたおれの肩に手を置いた。
「いやア、ありがたいことでございますな」
黄色いドレスを着た背の高い女性が近寄ってきて、老人に花束を手渡した。
どこからか乾杯の声が聞こえてきて、あちこちでグラスが響きあう。
いつ間にか手にしていたグラスの中身を飲み干すと、冷たいシャンパンが喉を焼き、目尻が熱くなった。
――十二時までに帰ってこないといけないよ。
真人の言葉を思い出す。
日付が変わる前に帰ってくるよね? 明日は山中さんの誕生日なんだ。あの人、一年に一回、ものすごく飛ばすんだよ。
「申し遅れましたが、山中の父です」
老人が、楽しそうに笑った。
「今日はお疲れのご様子でしたから、どうぞ今夜は、楽しんでいってくださいね」
「この電車は、どこで止まるんですか」
おれは、おそるおそる訊ねた。今日持ってきている携帯端末では、会議の資料を送ることすらできないのだ。早く家に帰らないと、大きな失態を犯すことになる。
「さア、どこまででしょうか」
老人は楽しそうに言った。
「去年は木更津までで折り返しましてね。息子はもう少し遠くへ行ってみたいと申しておりました。今年は三十歳の節目の年だから、と」
派手な音楽が流れ、乗客たちが先頭車両で踊り狂っている。
幾晩でも続きそうな喧騒と狂乱の中で、おれは頭を抱えた。
※本作品は自サイトより転載したものです。