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愛すればこそ恐ろしく  作者: 序流時
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私の傍ら

生まれて初めてだった。

一目で女性を好きになったのは。


今までの人生振り返ると、気を使えるところだとか、いつも支えてくれるところだとか、その他いろいろなところに理由を付けて女性を好きになっていた。

ああ

そんなものは嘘のモノだったのだ。

今、目の前にいる女性こそ私と共に歩くべき人間なのだ。

ああ

地面がふと柔くなり、足元から地面に飲み込まれて行くように、私は本当の恋と言うものに、落ちていく。


声をかけていた。

何を、どうやって声をかけたのか、食事に誘ったのか、分からなかった。

いや覚えていないだけなのだろう、ともかく必死だった。

なにせ彼女は表情を一切変えないのだ。

まるで三流の漫画家が書いた漫画のように表情に変化がなく、精気を感じさせない。

それでも、いや、だからこそ、彼女に笑顔を取り戻して欲しかったのだろう。

だから、必死だった。

だから、何を話したのかさえも全く覚えていないのである。

何を話しても、一向に彼女の表情は変わらない。

上手くいかなくなると、とことんまでうまくいかないのである。

まるで、流砂に足を取られているかのごとく上手く行かないものである

今から思えば、私は蟻である。

恋と言う名の、地獄に片足を突っ込んだのである。

あとは落ちてゆくだけなのである。

もがけばもがくほど、その深みにはまっていくのである。


2時間ほどの食事と会話の中彼女は、結局一度も笑顔を見せなかった。

見せなかったのである。

それでも不思議と居心地が良いのである。

彼女の笑顔を見ることが出来ないというのに。

不思議な気持ちだった。

不思議な女性なのだ。

表情を変えず、頷くしかしなかった女性なのに、来週の土曜に時間は有るのか?とだけ問うのである。

その日の私は、二つ返事で次の約束を取り付けたのである。

はじめての会話で、覚えているのは、次回会う約束そんな少しの事だけだった。

それでも、私は次の機会を得たことに歓喜した。



彼女は今どきの女性とはまるで違っていた。

健康骨の辺りまで伸びた髪は、動くたびまるでサラサラと音を立てるように動き、蜉蝣≪カゲロウ≫の羽のように薄く淡い緑色を、その黒い髪にまとわせ、細かい光を跳ね返す。

耳にかかる髪をかき分ける仕草と、人の目をずっと見て私の話を聞く人であった。

顔の色はあまり健康的といった感じではなく、余命1年と宣告された薄幸の女性の様に青白い。

いや、余命1年と宣告された薄幸の女性の様なのは、顔色だけと言うことではない、体も細く背は高い。

背丈が160~170CM位あり、女性では背丈の高い方に分類するのだろうと私は感じた。

彼女は、私の目からは不健康なほどに、華奢に見え、少し押したら倒れてしまうのではないか心配にさせるほどだった。

服装も地味な白いコートに、少し長めの黒いスカート、色の薄い青のシャツと質素で清楚なものを着ていた。

顔も一重であるものの、パーツの一つ一つは美しく、それが顔の在るべきところに並び、全体を調和させている。

彼女は化粧をしていない様子だったが、化粧などしなくても十二分に美しいと言えるだろう。

そう、彼女が無表情でなければ。

もし、彼女が化粧し、愛想笑いでも出来て華があれば、其処らのモデルなど比ではないだろう。

そう、彼女には、「華」がないのである。

素材はかなりのレベルのものを持ちながら、華がないのである。

彼女は、プラスティックで作られたイミテーションの水晶の様に透明でいて、くすんでいる。本物より透明度が高いはずなのに、どこかに濁りを秘めているイミテーションの宿星。

そう彼女には、どこと言えるようなところではない場所に影を孕んでいるように感じた。

その影のせいで、彼女には華を感じないのだと。

その影にもう自分は飲み込まれているのだと。



土曜日はなかなか来ないものである。

仕事から逃げたいと思っていると土日が来るまでの平日というやつは、果てしなく長い。

そこに待ち遠しさが加わるのだ、長くないわけがなかった。

来る日も来る日も、彼女の笑顔を想像した。

そう雪が溶けてそこから顔を出す蕗の薹は、深みのある苦さと旨みを持っているはずなのである。

彼女もきっとそうなのである。

つまらない仕事を淡々とこなす、こなす、こなす、少しずつ土曜日になる、近づけば近づく程、時間の進行が遅く、空気が体にまとわりつくように感じる。

堪らずに、金曜日は有休を使って休んだ、もちろん仮病であるが、罪悪感なんて微塵も感じていない。

明日が待ち遠しく、それ以外の感情などに捕らわれている時間など私にはないのだ。

明日の準備をする時間は、気づいたら夕刻を迎えるほど、過ぎ去っていた。

明日は遅刻などできないのである。

そう思うと、小学生の頃以来に夜の9時頃に就寝してしまった。





大失敗である!!!!?

あぁぁぁああぁぁあぁぁぁ

大失敗である。

大失態である。

ひどいものである。

こんな時に人間は、時間を戻したいと思うのである。

どうして、科学者という輩は、この時代にタイムマシンを作れないでいるのか?科学の発展に私の注ぎ込まれた税金分位の仕事をすべきなのである。

タイムマシンを作るべきなのである。

タイムマシンさえあれば、今日という日を丸ごとやり直す。

それほどの、大失敗である。


初めて見る彼女の表情は「退屈」

その日、私は彼女からその表情しか見ることはできなかったのである。

彼女には表情がないがないのではないかと、疑っていたのだが、そんなことはなかった。

そんな情報は望んでいなかった。

本当にそれが表情だったのかは別の問題なのだ、私はそう感じたのだ。

時の流れは、今日を待つ数日よりも長く感じられるほどだった。

彼女は全く、口を開くことはなかった。

堪らず、逃げ出すかの様に、勝手に来週また同じ時間に同じ場所で待つようにと言い放ち、返事も聞かずに帰ってきてしまった。

連絡先も、ましてや名前すら聞いていないことに気が付いたのは家に帰り付いてからである。

今日のこの失態を忘れたくてたまらなかった。

来週の土曜に彼女がまた来てくれるなどとはとても思えなかった。

考えたくなかった。

彼女のことを考えないようにするために、仕事にのめり込んだ。

一週間なんてほんの、一瞬だった。

土曜日なんて来て欲しくはなかった、彼女はそこに来てくれる筈もないのだから。

名前も知らず、来るはずもない女性を待たなければいけないのだから。

土曜日なんてきて欲しくはなかった、しかし勝手に言い放った時間まであと1時間を切っているのである。

来ないことなどは、分かっている、しかし足を前に出さないわけにもいかず、約束の場所へと向かうのだった。


彼女は普通ではなかった。

その雰囲気から普通ではないことは分かっているつもりだった。

むしろ異常だ!!

彼女は先週と同じ時間、同じで場所で待っていたのだから。

私は、彼女の元へ飛ぶように走る、待ち合わせまではまだ10分以上はあった。

蟻は終に羽を得たので有る。

それはまるで誘蛾燈だ、怪しく呼んでいるかのようだった。

彼女は普通ではないのである、だからこそ私はこんなにも引き付けられているのだろう。


彼女はその日も無表情だった。

しかし、彼女から「退屈」を感じないだけで十分なのだ。

むしろ彼女から「罪悪感」または「苦悩」と言う物を感じていた。

いや、気のせいかもしれない、なにせ彼女に表情はないのだから。

彼女は、「この前は、ごめんなさい」と消えそうな細い声でつぶやいた。

私が話し始める前に彼女が会話を始めたので、私が少し言葉を失っていると彼女は続けた。「私、お話するのが苦手で…」と言うと一拍置き、「この前も、何を話そうかと思っているうちに…」と言うとまた一拍、「空気が悪くなって、貴方は帰ってしまって…」

とまた一拍、「今日も、来ないのではないかと…」

彼女は、考えて来た言葉をやっとのことで、口にしているようだった。

私は前回のものが「退屈」ではないのだと分かっただけで、十分だったし、「罪悪感」「苦悩」はこれに起因していると分かってホッとしたのだ。

その日、彼女はほんの少しの自分のことを話してくれた、名前と連絡先だけだったが。

彼女は話す前に言葉を考えるようで、言葉にするまでに凄く時間がかかるのだ。

でも、一生懸命に言葉にしようとしている姿が、愛らしいのである。

だから、そんな些細な情報を得るだけでも時間が掛かったのだけれど、その時間に苦痛などなく、冬のお鍋に浮く湯豆腐の様に暖かくまったりとした時間だったのだ。

彼女は、自分から来週同じ時間場所、同じ時間でまた会いたいと提案してきた。

私は、二つ返事で約束をするのである。


それから、何度か彼女と会った。

彼女には変わらず表情はないものの、仕草と声色で私に好意を持っているのが伝わってくる。

口数が少なく、自分のことを中々話せない彼女の事もいくらか分かってきた。

歳は私の3つ上、両親は成人すると直ぐに亡くなっている事、縫製の仕事をしている事、私の家の近くに住んでいること、出身も私と同じであること。

その程度だった。

でも、それでいいのだ。

多くの会話は、郷土の話で費やされた、山のこと、川のこと、四季のこと、たわいもない話が、彼女の人柄を少しずつ私に教えてくれたのである。

彼女の多くのことを知るには、普通より時間がかかるのだろう、ならばその時間をかければいいだけのことなのである。

私たちは、暇があればあって話をした。

話といっても、私が9割話し、彼女が頷き、疑問を返す。

そして、時々彼女が自分のことを話すだけなのだが。


彼女と出会って、5ヶ月ほど経ってからだっただろうか。

遅刻などしない彼女が、30分も連絡なしにうつむき加減で遅れてきた。

その日彼女は、何も話さなかった。

未だに表情がないものの、私にはもう解るのだ、彼女が何を想っているのか。

彼女は、何か言いたそうにしているのだが、決心がつかないといった様子なのだ。

表情などなくても、私には解るのだ。

だから、私もその日はあまり話さなかったのでる。

沈黙の中でも、私たちは見つめ合った。

無言と無表情のなかでも無限の時間を共に有れると思った。

店員に閉店の時間だと促されるまで、時間の感覚などというものを無視していたのだ。

帰り際に、彼女はやっとのことで顎を引き、空気に振動をおくった。

「今日はごめんなさい…」

一拍置いて。

「話そうと思った事…」 

一拍置いて。

「有ったのだけれど…」

一拍も置かせず私が言い返す。

「大丈夫だよ、何か言いたそうなことは解っていたんだ。話したくないことは話さなくてもいいんだよ。」

と言いながら、彼女を抱きしめていたのだ。

彼女は驚いた様子だった、もちろん表情には出ていないのだが。

その驚きは、急に抱きしめたことなのか、私の発言なのかは解る術はないのだけれど。

すぐに彼女はその驚きを受け入れ、私に身を預ける。

五分ほど、呼吸をしていないかのではないかと思われるほど二人は動いてはいなかった。

彼女が、息を吹き返すように一歩後ろに下がり、私も声を発するために横隔膜を鼓動させる。

私が話し始める前に彼女が言う。

「明日…」

一拍置く、私は彼女の言葉に先に遮られ、急に抱きしめたことについて何か言う機会を逸してしまう。

彼女の声は、しっかり聞き取ろうとしないと聞き取れないほどか細いのである。

だから、話すよりも聞く方に一瞬で意識が行くようになってしまっているのである。

「明日こそ話すから…」

一拍。

「だから…」

少し長い間。

「明日も…」

と、表情の無い顔が私を見上げるのである。

私は、明日も会う約束をするのである。

彼女は表情を変えないまま、それでも確実にほっとした様子であった。

彼女は、彼女の影の一端を打ち明ける気持ちになってくれたようだ。

本当にほっとしたのは私の方なのかもしれない。

そして、彼女と別れたあとに吹き抜ける風が冷たく頬をなでるのであった。


その日の彼女も無表情であった、しかし強い決意を持っているのが、私にはひと目でわかった。

彼女はゆっくりと話し出す。

彼女の話はゆっくりで、とてもゆっくりで、全て話終わるまで相当の時間が掛かった。

その時間私は、ただずっと頷き、相槌をうち、彼女のことを見つめていた。

話の内容は、あまり聴きたくはない内容であった。

彼女も話したい内容ではなかっただろう。

しかし、話さなければ、彼女は…

そう、私に自らの過去を話しておくべきだと。

そうしなければ、いけないと。

そんなこと…こだわりはしないのに。

でも彼女は、決めたのだ……話そうと。

話が終わると、彼女は無表情のまま泣くのだった。

それは、彼女にとって辛い話だったのだ。

そう、男なんて生き物とは比べものにもならないのだ。

自らの腹を傷めて産んだ、子供を失う痛みなど。

その、思い出したくもない話をゆっくりと、ゆっくりと、自らに爪をつきたてて、傷つくことで贖うように、ゆっくりと。

私に話せて聞かせるのだ。



彼女は18の時に親の反対を押しのけ結婚したのだ。

その時は子供ができれば、両親も可愛がってくれると思っていたらしい。

しかし、結局は子供が生まれる少し前に事故で両親とも他界し、家を飛び出したときに見た両親が最後の姿になってしまったのだ。

夫側の両親は、息子を勘当しており、連絡すらつかなかった。

それでも、無事に子供は生まれた。

可愛い女の子だったらしい。

彼女が美しいのだ、相手がよほどでない限り、可愛くない子供が生まれるはずもないのである。

幸せな時間はながく続かなかったのだ。

娘が4歳の時に、夫が失業した。

現実は小説よりなんとやら、夫は飲んだくれ、暴力を振るうようになった。

そして、暴力を振るった後は、必ず泣いて謝るのだという。

毎日、毎日、続く暴力と懺悔。

娘に矛先が行かないようにと思って。

毎日、毎日、毎日、毎日、耐えていたのである。

夫が元に戻ってくれるように。

毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、祈っていた。

家族で幸せにと。

毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、願っていた。

気が狂いそうになりながら。

毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、毎日

毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日

持つはずもないのである。

彼女は人間なのである。

そんな日常…

それは、そう長くは続かず崩壊する。

そう、長くなど続いてはいけないのである。


その前日、彼女はいつもより多く暴力を振るわれた。

夫はいつもより多くの懺悔をした。

そして、出会った頃に良く行った、湖へ行こうという話になったらしい。

その日は、昨日までの冷たい雨が嘘のような、怖いほどの晴天だったらしい。

気温が低かったせいか、湖の周りにはボートの管理人が二人だけだった。

その日の湖は、前日の雨のせいか吸い込まれるような冷たい緑色に濁っていた。

二人は出会った頃、良くボートに乗ったらしいのだ。

夫はそれを思い出さいたらしく、ボートに乗ろうと誘ってきたらしい。

優しい時の夫は、本当に優しかったらしく、彼女と夫、娘の三人はボートに乗ることになった。

夫と彼女の間に娘を載せ、夫がオールを漕ぐ。

ボートが湖の中央付近に近づいたとき、娘がトイレに行きたいと言い出したのだ。

しかし、ここは湖のほぼ中央、ありに人気もないということで、湖の上で済まさせてしまおうということになったのである。

夫が娘を、ボートから水面へと持ち上げる。

娘が、怖い怖いと喚く。

夫が大丈夫だと言う。

それでも、娘は騒ぐ。

夫は、いらつきながらなだめようとする。

子供は、親の感情のきびには敏感であり、泣き始める。

夫が、少し大きなドスを効かせた声で怒鳴った。

昨日の夫の姿がフラッシュバックした。

毎日の暴力。

毎日の忍耐。

毎日の祈り。

毎日の願い。

毎日からの逃亡。


それは、自らの手で手に入れるべきものだった。

毎日からの別離。

毎日の崩壊。

毎日ではない、平穏。


平穏は、湖面を揺らす波のよう一瞬で心の海に伝播する。

心の港にたどり着いた波は、高さをまして毎日を飲み込む様に連れさらう。


彼女は、夫と娘を湖に落としていた。

彼女の毎日は、終わったのである。

彼女の限界など遠の昔に超えていたのだ。

それは、彼女の懺悔。

それは、彼女の後悔。

それは、彼女の罪。

彼女は人を殺していたのだ。


その日の湖は、前日の雨で、水温は下がっていた。

夫も娘も、10秒もしないうちにゆっくりと浮かんできた。

ボートの管理人もおしゃべり中だったらしく、全く気づいていなかったらしい。

彼女は、放心状態でそれから、数時間水面を漂っていたらしい。

さすがに、中々戻ってこない親子を心配し管理人がボートを見ると彼女一人しか乗っていない、異常を察し彼女の方へ向ったらしい。

そこには、二つの水死体と、呆然とする彼女。

それから、警察が呼ばれ、事情聴取。

彼女は放心状態で、聴取なんて状態じゃなかった。


家族の仲の良さそうな姿を見ていた管理人、ボートの方からの揉めるような声を聞いていなかったこと、放心状態の彼女、下着を脱いだ少女の遺体、遺体や服に揉めたあとがない事、溺死ではなく心停止だった事から、少女が用を足す際にボートから落ち、男性が助けようとしたが、低い水温に心停止を起こしたと推測したらしい。

事故として処理された。


彼女は後悔していたのだ。

私は、彼女に感じていたものがここに由来するのだと理解したのだった。

彼女の影も、表情を無くしているのもこの事件のせいなのだと…

彼女の心は、傷つききってしまっているのだろう。

彼女がそんな行動をしてしまったのも仕方のないことと思った。

彼女の辛い過去を聞いて、私は彼女を守ってあげたいと思うのだった。


私は、翌日彼女に結婚を申し込んだのだ。

彼女は、静かにただ頷くのだった。

無表情で。


彼女のことを私の両親に紹介した。

両親は彼女の表情が硬い事、いや無いことに少しして気づいた。

私の両親には、この件を事故として説明した。

両親は、無表情である事を理解したようだった。

哀れなものを見かのような目だった。

むしろ両親はバツイチだと言うことの方を気にしているようだった。

全く頭の固い昔の人間というのは面倒だ。

しかし、やっとのことで両親も結婚を決めた息子の結婚話を拒否したら、結婚しないとでも思ったらしく、結婚を承知してくれた。

そんなに、孫の顔が見たいのかい?

まあ、親の了承がとれたのは良いことだった。


彼女は敷牧 美琴≪しきまき みこと≫と婚姻届けに名前を書き、二人で届けを出しに行った。

こういったときに、喜びと共に男は責任感を重く感じるのである。

結婚式は挙げなかった。

入籍して、二人で暮らし始めた。

暮らし始めて4,5ヶ月位すると、彼女に表情が戻り始めたのである。

私は、彼女の変化に喜びを覚えた。

初めは、少しの変化が、その少しの変化が私にとっては嬉しかった。

徐々に徐々に戻っていく表情。

どれかの感情を表情に出せるようになったというよりも、喜怒哀楽すべての表情が氷を溶かすようにゆっくりと表に現れてきたのである。

嬉しいことと言うのは続くものである。

私と彼女は子供を授かったのである。

彼女の表情が戻って来ぐらいに妊娠していたらしい。

やはり、生物としての喜びに、彼女の死んだように動かなかった表情も生まれ直し、脈動し始めたということなのだろう。

彼女のお腹が日に日に大きくなっていく。

彼女の表情も大きく現れ来る。

私の両親も、人並みの表情をできるようになってきた彼女を喜んだ。

彼女は、とても穏やかな表情をすることが多くなった。

時に木々の幹から落ちる木漏れ日の様に優しく、時に洗いたてのシーツの様に暖かく、時に夕頃に隣家から漂うカレーの様に懐かしく、時に澄んだ朝の静さ様に清らかで、時に肺を満たす空気の様に新鮮に私を満たして行くのであった。

しばらくすると、彼女は苦痛の表情や不調の表情を見せるようにもなってきた。

頻繁にイライラしているのも伺えるし、時々何気ないことで怒りの表情を私に向けることさえあった。

妊娠から来るものであるのは一目瞭然であった。

私は、今までに見たことのない彼女のそんな表情を私に向けてくれる事を喜んでいた。

彼女は、そんな私の姿を見て、呆れたようにでも猫のように可愛く怒っていたものだ。

だから、私は彼女のお腹に耳を当て、二人の子供に優しく語りかけるのである。

そして、彼女の髪を彼女のお腹を撫でるように優しく触れ、彼女を落ち着けるのだった。


生まれてくるその子供に一番初めにしてやれる事は、名前を付けるということだ。

私が、男の子だったらこの名前、女の子だったらこの名前などと考えている中、彼女は、ゆいが良いと言い張るのだ。

男のだったら?という私に対しても、絶対女の子だから結にしようと言い張る。

あまりに言い張るので、男のだったら私が付けると約束をしたのだが、彼女は今まで見たことのないような、笑顔でうけてたつのであった。

初めて彼女の笑顔に恐怖を感じたのだ、勝ち目の無い掛けに乗った愚か者を見る哀れみの表情に写ったのだ。

やはりこういう時の女性というのは、自らの体内のことがわかるのか、神経質になり感が良くなっているのか解らないが、どうやらわかるらしい。

検査をしても女の子だったのから。

全くすごいものである、女性の感に恐怖を覚えた瞬間であった。

そして、その後知ることなる、「ゆい」とは彼女の失った娘と同じ読みであるということに。

ゆいの分まで健康に生きて欲しいからこの名前を付けたいのだと彼女は言った。

事件に関すること、死んだ娘の事は、あまり聞いていなかったので、娘の名前も初めて知ったのだ。

だって、そうだろう?

彼女の表情を奪わせるような出来事なのだ、聞けるはずがあるはずもないのだから。

私は、少し驚いたが、彼女の想いを大事にしようとおもった。

私たちの娘は立派に育てるのだと。

唯にも見守ってもらおうと。  


結が生まれた。

生まれたときに泣かなくて冷や冷やし、感動なんてしている暇なんてなかった。

婦人科の先生も全く泣かないなんて見たことはなかったらしいが、しっかり息もしているし大丈夫とのことだった。

私の父に私が生まれたとき、「中々泣かなくて逆さ刷りにしてケツをひっぱたいたんだ!」なって言われた。

心配そうに娘を見ていた、彼女の表情が少し和らぐのが見えた。

私は、生まれてすぐに父に虐待を受けたという事実がここに明らかになった。

生まれて来た娘をのぞき込む、彼女に似て可愛い女の子だ。

でも目元は私に似ている。

彼女と私の愛の結晶である。

私の半分を持った、私の半身。

妻と、娘、私には大切な物が二つになった。

私の父が無言のまま、肩にそっと手置いた。

父は伝えたいことを、言葉よりよく伝わる方法があるのを知っていた。


育児とは大変である。

24時間目が離せない。

全く困ったものである、こんなに手がかかるというのに、楽しいのである。

娘が可愛くて仕方ない。

親馬鹿である。

どうやら、うちの子は良い子らしい、あまり泣かないのだ。

夜泣きだってめったにしない、泣くとは必ず自分が何かして欲しい時だけなのであり、こちらがそのして欲しいことを始めると泣くのをやめるのだ。

私たちにして欲しいことがあると伝えるためだけに泣いているかのようだ。

いわゆる手間のかからない子だ。

しかし、大変なことには変わりないのである。

それは、私には、気がかりなことがあるからである。

結には、泣くとき以外に表情がないのである。


思い起こせば、彼女の表情が戻り始めたのは、結と言う命が芽吹いてからである。

まさか、彼女のソレが娘に移った!?

イヤ…そんなことは…

そんなことは…

病気の類ではないのだ。

病気…

自閉症という可能性があるらしい。

しかし、私の両親が言うのだ、ただ単に発育が穏やかなだけではないかと。

私も1歳をすぎても立ち上がれなくて心配したとか言っていた。

大体まだ生まれて、まだ数ヶ月なのだ、三歳位までは自閉症とは判断できないらしい、彼女も結に微笑みかけているのだ、ここは気長に待つべきだろう。

赤ちゃんというのは、大人の真似をして微笑み返すらしいのだから。

それに、泣かない赤ちゃんも、笑わない赤ちゃんも最近は多いらしい、表情の機微が少ない子が居ても不思議ではないだろう。


結は表情がない以外は平均的な発育を遂げた。

生後三ヶ月後には首も座ったし、1歳になる前には立ち上がり少ししてから話し始めるようになりよちよち歩き始めた。

言葉数は少ないもののコミュ二ュケーションは取れている、知的に遅れなどは見られない。

今では泣くこともなくなり、本格的に表情がないのではあるが。

どうやら、そういう個性のようだ。

私は、彼女の時と同じように、結が無表情であっても感情がわかるようになっていた。


結は4歳になった。

そう、4歳になったのだ。

そして、私は終に見ることになる、ゆいの笑顔と言うものを。


その日は、曇天の空が一面広がっていた。

会社に出る前に、結に傘を渡されたのを覚えている。

仕事を終え、帰る頃にはポツポツ雨が降り出し、家に着く頃にはザーザー降りになっていた。

だから、帰宅途中に買った結の誕生日プレゼントを如何に濡らさないようにするかに必死だった。

やっとのことで、家にたどり着く。

結に、40cmもある、兎の人形を買ったのが失敗だった。

兎は大して濡れてはいないが、私はびしょ濡れだ。

明日が休日で良かったのである。

結がとてとてと走ってきて、何時ものように無表情なまま「オカエリ」と声をかける。

「ただいま、結」と声をかけ、大きな袋に入ったあからさまに誕生日プレゼントを渡す。

彼女が、タオルをもって歩いてくる。

タオルを受け取り、頭を拭く。

促され、風呂に向かう、玄関は水浸しである。

結の嬉しそうにしている姿を後ろに風呂場に向かう。

居間に大きな袋を置いて結が風呂場に向かってくる。

どうやら一緒に入りたいらしい。

お父さん子な娘だ、何時までこうして一緒に入ってくれるのだろう?

私が両親と一緒に入っていたのは小学校に上がる前ぐらいまでだった、結と入れるのもあと2,3年ということだろう。

結の頭と体を洗う。

結の髪はまだ肩のあたりまでしか伸びてはいないが、彼女と同じ黒と淡い緑をうっすらと塗った美しい髪である。

自分の体を洗い結と一緒に風呂に入る。

結は無表情で、今日幼稚園で教わったのかいつもと違う歌を歌っている。

ああこれは、シャボン玉だ。

まだ、覚えたてらしい、なんだかうろ覚えだ、教えるように歌って聴かせる。

良く浸かったので十秒数えさせて、二人でお風呂から上がる。

居間に向かうと、結の誕生日のための豪華な料理とケーキが並べられている。

私たちは、結の誕生日をお祝いした。

ハッピバースデーの歌を歌い、結はケーキのろうそくを消す。

私は再び、結に大きな兎の入った袋を「お誕生日おめでとう」と言いながら手渡した。

結は「アリガトウ、パパ」と言って、袋を受け取り嬉しそうに袋を開ける。

もちろん、いつもの通り無表情だ、こういう時は顔も嬉しそうにして欲しいと思うものである。

否、こういうときぐらいしか無表情であることに疑問を持たないようになっていた。

まあ仕方ないのだ、彼女と出会った頃からなのだから。

彼女はもうすっかり普通に笑えるのだけれど。

娘がそうなると、それに直ぐになれてしまっているのだ、私は。

慣れとは怖いものである。

怖いものである。

結は袋を開け終わり、大きな兎の人形を取り出すと、ぎゅーっと抱きしめている。

結はいつもの通り無表情で「ウサチャン、アリガトウ」とこちらを見返す。

結は自分の身長の半分程ある兎に頬を擦りつけている。

まるで、姉妹のようだ。

そろそろもう一人…

とか考えていると、彼女は言うのである。

湖に行こうと……

結は嬉しいようだ、そうしようそうしようと言い賛成する。

私は、何かの違和感を覚えていた、根拠がないが。

いや覚えはある。

彼女が行きたいというのだ。

唯は4歳の時の湖で死んだというのに?

だからか?だからなのか?

私は、あえて聞かないのだ。

彼女がそうしたいというのだから。

そして、私たちは湖に行くことになる。

明日は土曜日である。


昨日の雨は、すっかり止んで、澄み切った空が広がっていた。

空には雲ひとつなくアクリル版に青い絵の具をうっすらと塗ったかのような晴天、どこまでも透明な空に、私は違和感を覚えるのだ。

まるで作り物みたいだ。

彼女が湖まで車を運転した。

私は運転できないわけではないが、家族で出かけるときは彼女が運転するのが何時ものことだった。

その間、仕事があってかまってあげられない分を結と遊ぶのだ。

1時間ぐらい私と結は後部座席でイチャイチャしていた。

すると、目的地に到着する。

結は無表情にでも嬉しそうに車から飛び降りる。

私と彼女も車から降りる。

彼女が「……いも………が…きだった」ぼそっと一人事を言う。

私は、走り出して喜んでいる結を追うのに必死で右から左に言葉は抜ける。

結を抱きしめ、手をつなぎ、彼女を待つ。

まるで、捕まった宇宙人のように結を真ん中に三人で手を繋ぎ湖の周りを歩く。

10分ほど歩くと貸しボートが見える。

結は「ボート二ノリタイ」と私に向かってせがんでくる、無表情が必死にせがんでくる。

彼女が、「また… パパにおねだりして」と少し呆れたように言う。

誕生日プレゼントに大きなうさぎが欲しいと結がせがんだのを思い出した。

彼女は「あなたはいつもそうね」と、遠く虚空を眺めながら言うように感じた。

結局ボートに乗ることになった。

三人で。

私は、彼女に乗らなくても良いと告げたが、「私は乗らなくてはいけない」と強い口調で言うのだった。

私は、彼女自身の過去を払拭したいのだと思ったのだった。

ボートを借り、結を真ん中にして乗り込み私はオールを漕いだ。

その日は、前日の雨のため、湖の水は緑色に濁っていた。

結に手を入れないようにと注意をする。

緑の湖と澄んだ青空のなか、ボートを漕いでいるのは私たちだけであった。

こんな晴天の土曜日に、他の人間はいないのである。

ボート乗り場では、管理人2人が暇そうにおしゃべりをしている。

この商売は成り立つのだろうか?

何処とはなくボートを漕ぐ。

結構筋力を使うものである。

結がやってみたいというが、そういうわけにもいかない、代わってもらいたいのはやまやまではあるが。

気がつくとボートは湖の真ん中まで進んでいた。

太陽に雲がかかり始め、日差しを弱め始めた。

結が、無表情で恥ずかしげに言う。

「おしっこ」

小さい子はなぜか直前までそうことに気がつかないので困る。

もう、もたないらしい。

娘にとっては一大事だ、もちろん私にとってもである。

困ったものである。

湖の上で子供におしっこをさせる話を思い出した。

仕方ないと、恥ずかしがる結のパンツを脱がせボートから体を外に出す。

どこかで聞いた風景である。

そして気が付くのが遅かった。

結は、ありえない位に首をぐるっと回しこちらを向く。

そして、初めて見る。

笑顔で言うのである。

小声で言うのである。

感情の全くこもっていない笑顔で。

「今度は、落とさないでね。」と。

「今度は…」

私は頭が良いほうではないが理解したのだ。

唯だと…

腕は震え、目前が白くなり、激しく動悸した。

声は出ないし、動けもしない。

そこにはジョボジョボと言う、唯から放たれる放物線の着水音が響くだけだった。

私は、あまりの恐怖で唯を落とすことさえ出来なかったのだ。

彼女の方を見る。

心配そうに見ているだけで、さっきの声が聞こえた風はない。

気のせいだと思った。

「パパ、オワッタヨ」と結が言う。

はっとし、自然と結をボートに戻す。

そして、結がまたあの顔をこちらに向ける。

「今度は、二人とも落ちなかったね」と。

勘違いの可能性は、放物線の向こう側で水泡に帰すのである。

そして、唯ははっとした様子で言う「ママには、内緒だよ、私のこと」

背筋が凍りつくのが分かった。

唯は真ん中に戻り彼女と話し始めている。

さっきのそれがまるでなかったかのように。

雲の割れ目から日が差し込み二人を照らし、結の影を濃くしている。

幻想的な光と、言いようのない黒い影がその空間を支配し、目に映る世界が本物かどうかさえ疑わしく思える。

目がチカチカする。

徐々に視界の黒が多くなり、思考は恐怖に飲み込まれる。

「疲れたの?」と彼女が優しく声をかけてくれた。

彼女が私の心をこの世界に引き止める。

最愛の彼女は、黒の世界から私を救ってくれたのだ。

救ってくれたのだ、前とは違い彼女は助けてくれたのだ。


本当の恐怖は遭遇するものではなく、そこにあり続けることなのだと気づかされる。

だって、唯は結なのだ。

私の娘なのだ。

殺すことなど出来はしないのだ、湖に落とすことなど。

たしかに私の娘なのだ。

私は未だに彼女にこのことを伝えられずにいる。

自分の娘が普通ではないことを。

無表情のままの唯がこの世界に漂っていることを。

だって彼女は、過去から解放され笑顔を取戻したのだ。

彼女は知らなくていいのだ、結を慈しむその笑顔を恐怖に歪めたくはないのだ。

だから私は一人、隣にある恐怖と共に生きて行かなくてはならないのだ。

私の娘なのだから……


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