悪役令嬢は、断罪の台本を燃やした
第一章 婚約破棄は計画どおりに
「リディア・フォン・アルヴェイン。貴様との婚約を、ここに破棄する!」
王立学園の卒業記念舞踏会。
第一王子アレクシスの宣言が響いた瞬間、それまで流れていた優雅な音楽が途切れた。
楽団の指揮者は指揮棒を掲げたまま硬直し、踊っていた貴族の子息や令嬢たちも足を止める。
黄金のシャンデリアが照らす大広間で、百を超える視線が一人の令嬢へ集中した。
リディア・フォン・アルヴェイン公爵令嬢。
腰まで届く銀色の髪。
夜空のように深い青の瞳。
細い身体を包む漆黒のドレスには、北方の星を模した銀糸の刺繍が施されている。
そんな彼女の前で、第一王子アレクシスは勝ち誇った表情を浮かべていた。
王子の隣に寄り添っているのは、ミア・ローレンス男爵令嬢だった。
淡い桃色の髪と、春の若葉を思わせる緑の瞳。
可憐という言葉を、そのまま人の姿にしたような少女である。
対するリディアは、冷酷、傲慢、鉄血の令嬢などと陰で呼ばれていた。
二人が並べば、どちらが物語の主人公で、どちらが悪役なのか。
誰の目にも明らかだった。
「婚約破棄の理由を、お伺いしてもよろしいでしょうか」
リディアは静かに尋ねた。
声は震えていない。
驚いてもいなければ、怒ってもいない。
それが気に入らなかったのだろう。
アレクシスの表情が険しくなった。
「白々しい!」
王子の怒声に、ミアの肩が小さく震える。
アレクシスは彼女を守るように抱き寄せた。
「貴様は嫉妬に狂い、ミアに数々の嫌がらせを行った。教科書を破り、制服を汚し、階段から突き落とした。そればかりか、先日の茶会では毒を盛ろうとしたではないか!」
広間にざわめきが走った。
貴族たちの視線に、露骨な侮蔑が混じる。
リディアは扇を開き、口元を隠した。
「それは恐ろしいことですわね」
「他人事のように言うな!」
「わたくしが行ったという証拠はございますの?」
「証人ならいる!」
アレクシスの背後から、三人の青年が進み出た。
騎士団長の息子、カイン・バルガス。
宰相の息子、ユリウス・レーデン。
大神官の甥、セルジュ・グラシエル。
いずれも第一王子の側近候補であり、この数か月でミアに心を奪われた者たちだった。
「僕は見ました」
ユリウスが眼鏡を押し上げた。
「リディア嬢の侍女が、ミア嬢の鞄へ何かを入れているところを」
「俺もだ」
カインがリディアを睨みつける。
「階段でミアが倒れていた日、君がその場から立ち去るのを見た」
最後に、セルジュが悲しげに首を振った。
「神はすべてをご覧になっています。今からでも罪を認め、悔い改めるべきでしょう」
「なるほど」
リディアは感心したように頷いた。
ずいぶんと都合のよい証言が揃っている。
まるで、あらかじめ書かれていた台本を読んでいるかのようだった。
いや。
実際に、これは台本どおりなのだ。
十年前。
七歳だったリディアは高熱にうなされ、生死の境をさまよった。
三日後に目を覚ましたとき、彼女の頭には、それまで存在しなかったはずの記憶が宿っていた。
魔法も貴族も存在しない、遠い世界の記憶。
そして、そこで読んだ一冊の恋愛小説。
題名は『春風の聖女と金色の王子』。
平民同然に育った男爵令嬢ミアが王立学園へ入学し、第一王子をはじめとする高貴な青年たちから愛される物語である。
その小説において、リディアは第一王子の婚約者として登場する悪役令嬢だった。
家柄と美貌を鼻にかけ、ミアを執拗に苦しめ、最後には王子の命を狙う。
卒業記念舞踏会で罪を暴かれ、婚約を破棄され、北の修道院へ送られる。
しかし、その道中で馬車が崖から落ちる。
遺体すら発見されないまま、悪役令嬢は物語から姿を消す。
小説では、わずか数行で片づけられた最期だった。
すべてを思い出した夜、リディアは恐怖に泣いた。
自分はまだ七歳なのに。
誰にも意地悪などしていないのに。
それでも十五歳になればミアと出会い、十八歳の卒業記念舞踏会で断罪され、死ななければならない。
それが決められた運命だった。
だからリディアは、運命に従うことをやめた。
泣いたのは一晩だけ。
翌朝から、彼女は生き残るための準備を始めた。
領地経営を学び、法律を読み、商人と交渉し、崩れかけていた公爵家の財政を立て直した。
十歳で北方の鉱山に新たな採掘方法を導入し、十二歳で領内の街道を整備した。
十四歳になる頃には、アルヴェイン公爵領は王国最大の穀倉地帯となっていた。
そして十五歳。
王立学園で、ミアと出会った。
小説と同じ桃色の髪。
小説と同じ明るい笑顔。
小説と同じように、入学初日にアレクシスとぶつかり、持っていた書類を落とした。
それから、物語は恐ろしいほど忠実に進んだ。
ミアが図書室で困っていればユリウスが現れた。
訓練場で転べばカインが助け起こした。
礼拝堂で一人祈っていればセルジュが声をかけた。
リディアがミアへ近づかなくても、嫌がらせは発生した。
破られた教科書。
泥で汚された制服。
靴箱へ入れられた枯れた花。
そして、そのすべてがリディアの仕業であるかのように証拠が残された。
物語そのものが、リディアを悪役にしようとしている。
彼女は早い段階でそれに気づいた。
だからリディアは証拠を集めた。
作られた証拠ではなく、本物の証拠を。
「リディア」
アレクシスの声が、彼女を現在へ引き戻した。
「今なら、まだ間に合う。ミアに謝罪し、自ら罪を認めろ」
「それをすれば、どうなりますの?」
「アルヴェイン公爵家には寛大な処置を約束する。貴様は北の修道院で、生涯をかけて罪を償うのだ」
「生涯をかけて、ですか」
「ああ。王家の慈悲に感謝するがいい」
「わたくしが修道院へ到着できれば、の話ですわね」
アレクシスの表情が固まった。
ほんの一瞬。
けれど、リディアは見逃さなかった。
王子は知っている。
自分を乗せた馬車が、修道院へ到着しないことを。
「何を言っている?」
「いいえ。こちらのお話ですわ」
リディアは扇を閉じた。
広間に集まった者たちは、悪役令嬢が泣き崩れる瞬間を待っていた。
ある者は同情を装いながら。
ある者は嘲笑を隠しながら。
またある者は、公爵令嬢が失脚した後に手に入る利益を計算しながら。
だが、彼らの期待に応えるつもりはなかった。
リディアは背筋を伸ばし、第一王子を正面から見つめた。
「第一王子アレクシス殿下」
「なんだ」
「婚約破棄、謹んでお受けいたします」
広間が静まり返った。
誰かが落とした杯が床に当たり、乾いた音を立てる。
アレクシスも予想していなかったのだろう。
目を見開いたまま、言葉を失っていた。
「罪を認めるということか?」
「いいえ。わたくしは何もしておりません。しかし、殿下のご意思が変わらないのでしたら、婚約を続ける理由もございません」
「強がりを言うな」
「強がりではございませんわ」
リディアは微笑んだ。
「ただし、婚約契約の終了に伴い、王家には清算をお願いいたします」
「清算?」
リディアが小さく手を上げる。
広間の壁際で控えていた初老の男性が進み出た。
アルヴェイン公爵家の財務官、オルドである。
彼は分厚い書類の束を抱えていた。
「まず、五年前の戦争に際し、アルヴェイン公爵家が王家へ貸し付けた戦時資金、金貨八十万枚」
広間にどよめきが走る。
「次に、王都へ食料を供給するために無償開放していた北部穀倉地帯の使用権。王都と北方領を結ぶ三本の街道。アルヴェイン商会が肩代わりしている王宮使用人の給与。そして、外国から購入する医薬品の代金です」
玉座に座っていた国王の顔から、みるみる血の気が引いていった。
王国は表面上こそ豊かに見える。
しかし、五年前の戦争で国庫はほとんど空になっていた。
さらに昨年の長雨で南部の収穫量が減り、王都の食料価格は上昇を続けている。
王家が威厳を保ち、国民が飢えずに済んでいるのは、アルヴェイン公爵家が物資と資金を提供しているからだった。
その援助はすべて、リディアとアレクシスの婚姻を前提としている。
「待て」
国王が立ち上がった。
「婚約破棄は若者同士の感情的な行き違いだ。正式に決定したわけではない」
「父上!」
「黙れ、アレクシス!」
国王の怒声に、王子が怯んだ。
リディアは国王へ優雅に一礼する。
「恐れながら陛下。第一王子殿下は各国の大使と多くの貴族が見守る中、婚約を破棄すると宣言されました」
広間の一角では、隣国の大使たちが鋭い目で成り行きを見守っている。
すでに何人かは従者へ命じ、発言を記録させていた。
「王族のお言葉が、まさか冗談ということはございませんでしょう?」
国王には答えられなかった。
王族が公の場で行った宣言を簡単に撤回すれば、その権威は失われる。
かといって婚約破棄を認めれば、王家は最大の支援者を失う。
「私は撤回しない!」
アレクシスが叫んだ。
「リディアの脅しに屈するものか。王国は王家のものだ。公爵家の援助などなくとも、どうとでもなる!」
国王が頭を抱えた。
リディアは財務官へ目配せする。
オルドは書類を開き、各国の大使たちへ写しを渡していった。
「こちらが貸付金と物資援助の記録です。写しはすでに王国議会、商業組合、北方諸侯へ送付しております」
「なぜ、そこまで準備している?」
アレクシスが呆然と尋ねた。
「まるで今日、この場で婚約を破棄されると知っていたようではないか」
「偶然ですわ」
リディアは微笑んだ。
「優秀な貴族令嬢は、どのような事態にも備えておくものです」
実際には、すべて知っていた。
場所も時間も、王子が口にする言葉さえも。
ただ一つ、計算外だったことがある。
リディアは王子の隣に立つミアへ目を向けた。
少女は青ざめ、震えていた。
悪役令嬢が断罪され、王子との結婚が約束された。
本来ならば幸福の絶頂にいるはずである。
それなのに彼女は、まるで自分が処刑台に立たされたかのような顔をしていた。
リディアはゆっくりとミアへ歩み寄る。
「おめでとうございます、ミア様」
「え……?」
「これで、あなたが次の王妃ですわ」
「私は……」
「ご安心ください。お二人の仲を邪魔するつもりはございません」
「違うの」
ミアは小さく首を振った。
「私は、こんなことになるなんて知らなかった」
「何をおっしゃっているのです?」
「だって、あなたは泣いて怒るはずだった」
その声は、周囲には聞こえないほど小さかった。
「私を悪女だと罵って、殿下に取り押さえられて、罪の証拠を突きつけられる。それから修道院へ送られるはずだった」
リディアの目が細くなる。
「ずいぶん詳しくご存じですのね」
「それは……」
「あなたも覚えているのでしょう」
リディアはミアの耳元へ顔を寄せた。
「この世界が、恋愛小説の中だということを」
ミアの瞳が大きく見開かれた。
その反応だけで十分だった。
やはり彼女も、自分と同じ記憶を持っている。
ただし、二人の選択は正反対だった。
リディアは運命から逃れようとした。
ミアは運命を利用しようとした。
「いつからですの?」
「入学した日から」
観念したようにミアが答える。
「殿下とぶつかった瞬間に、すべて思い出したの。私は物語の主人公で、最後には王子様と結ばれる。だから、書かれていたとおりにすれば、絶対に幸せになれると思った」
「それで、嫌がらせを自作自演したのですね」
「違う!」
ミアは慌てて否定した。
「教科書や制服のことは私じゃない。何もしていないのに、勝手に起きたの。気がついたら、あなたの家紋が入ったハンカチが落ちていた。階段からも誰かに押された。でも、振り返っても誰もいなかった」
リディアは沈黙した。
ミアが嘘をついているようには見えない。
彼女が物語を利用し、王子へ近づいたことは事実だろう。
しかし、すべての事件をミアが仕組んだわけではない。
だとすれば、誰が嫌がらせを演出したのか。
リディアを悪役にし、物語を筋書きどおりに進めようとしている者がいる。
「リディア嬢」
セルジュの声がした。
「ミア嬢へ何を吹き込んでいるのです。彼女から離れなさい」
「少しお話をしていただけですわ」
「あなたの言葉には、人の心を惑わせる力がある」
「大神殿では、証拠もなく他人を魔女と呼ぶのが教えなのですか?」
「今、神を侮辱しましたね」
セルジュの足元に白い光が広がった。
神聖魔法によって作られた光の鎖が、リディアへ襲いかかる。
しかし、鎖が彼女へ届く直前、乾いた音とともに砕け散った。
広間の天井から、黒い羽根が舞い落ちる。
いつの間にか、一人の青年がリディアの前に立っていた。
濡れたような黒髪。
血を思わせる赤い瞳。
黒一色の軍服には、隣国ヴァルハイム帝国の紋章が刻まれている。
「公爵令嬢一人を相手に、ずいぶん大げさな魔法を使うものだ」
ヴァルハイム帝国第二皇子、クロード。
残虐な戦争狂。
血塗られた皇子。
小説ではリディアの死後、王国へ戦争を仕掛ける最大の敵として登場する男である。
「クロード殿下」
リディアは彼の名を呼んだ。
「お約束の時間より、少し早いのでは?」
「退屈だったのでな。それに、面白いものが見られそうだった」
クロードは砕けた光の残骸を踏みつけ、セルジュを見た。
「祝いの席で他国の要人へ攻撃魔法を放つ。それがこの国の礼儀か?」
「他国の要人だと?」
アレクシスが眉をひそめる。
クロードは懐から一通の書状を取り出した。
「リディア・フォン・アルヴェイン公爵令嬢は、本日付でヴァルハイム帝国北方開発局の特別顧問に就任する」
広間は完全な沈黙に包まれた。
「彼女への攻撃は、帝国の官吏への攻撃と見なす」
「待て!」
アレクシスが声を上げる。
「リディアは私の婚約者だ。勝手に帝国の官職へ就くことなど許されない!」
「つい先ほど、お前自身が婚約を破棄したのではなかったか?」
クロードは心底不思議そうに首を傾げた。
「それは、それとこれとは話が別だ!」
「なるほど。王子の言葉は、数分で意味が変わるらしい」
各国の大使から、抑えきれない失笑が漏れた。
リディアはクロードの隣へ並ぶ。
これも、十年かけて用意してきた逃げ道の一つだった。
アルヴェイン公爵領は、ヴァルハイム帝国と国境を接している。
リディアは秘密裏に帝国と交渉し、鉱山開発や寒冷地農業の知識を提供していた。
クロードと出会ったのも、その交渉の席だった。
彼は噂どおり冷酷な男だったが、少なくとも感情だけで約束を破る愚か者ではなかった。
「それでは、殿下」
リディアはアレクシスへ最後の一礼をした。
「長い間、お世話になりました」
「どこへ行くつもりだ」
「北方領へ戻ります。王家との契約を清算し、その後は帝国での仕事がございますので」
「逃げるのか!」
「いいえ」
リディアは静かに彼を見つめた。
「殿下がお望みになったとおり、王家と無関係な女になるだけですわ」
リディアは振り返らず、大広間を後にした。
扉が閉まる直前、背後からミアの声が響いた。
「待って、リディア様!」
その声を遮るように、舞踏会場の蝋燭が一斉に消えた。
完全な闇の中で、ミアの悲鳴が響く。
数秒後、再び蝋燭に火が灯った。
舞踏会場には、先ほどと変わらず貴族たちが立っている。
誰も傷ついていない。
ただし、中央にいたはずのミアだけが消えていた。
彼女が立っていた床には、一枚の紙が落ちている。
リディアが紙を拾うと、そこには前の世界の文字で物語の一節が記されていた。
悪役令嬢リディアは、すべてを失って修道院へ送られた。
主人公ミアは第一王子と結ばれ、永遠の幸福を手に入れた。
物語は二人の結婚をもって、幕を閉じる。
「何語だ?」
クロードが紙を覗き込む。
「わたくしにも分かりません」
リディアは嘘をついた。
紙を燭台の炎へ近づける。
「何をするつもりだ?」
「くだらない台本を処分するのです」
炎が紙の端を舐め、文章を灰へ変えていく。
しかし、燃え落ちる直前、紙の裏側に新たな一文が浮かび上がった。
筋書きから外れた悪役令嬢を、世界は決して許さない。
廊下の窓が、ひとりでに開いた。
冷たい風が吹き込み、紙を焼いていた炎が消える。
暗い中庭から、誰かの笑い声が聞こえた。
幼い子供のようであり、しわがれた老人のようでもある、不気味な笑い声。
リディアはドレスの内側に隠していた短剣を抜いた。
「どうやら、婚約破棄より面倒なことが始まったようだな」
クロードも腰の剣へ手をかける。
「怖くないのですか?」
「怖いさ」
皇子は赤い瞳を細めた。
「だが、予定どおりに進む人生ほど退屈なものはない」
「同感ですわ」
中庭の闇に、二つの白い目が浮かんだ。
「悪役が、主人公を助けるの?」
幼い声が響く。
壁から。
床から。
天井から。
まるで王宮そのものが話しているようだった。
「役割は守らなくちゃ。主人公は愛される。悪役は嫌われる。王子は主人公を助ける。そして最後は、みんな幸せになる」
「その物語のどこに、わたくしの幸せがありますの?」
「悪役に幸せはいらない」
あまりにも無邪気な声だった。
だからこそ、残酷に響いた。
「悪役が苦しむから、主人公の幸せが輝く。悪役が負けるから、正しい人が勝てる。君はそのために生まれたんだよ、リディア」
「そうですか」
リディアは短剣を握り直した。
「あなたは一つ、勘違いをしています」
「何を?」
「わたくしが何のために生まれたのか。それを決めるのは、あなたではありません」
「違うよ。僕が決めるんだ」
「いいえ」
リディアは闇を見据えた。
「わたくしが決めます」
次の瞬間、闇が生き物のように床を這い、リディアへ襲いかかった。
第二章 消えた主人公
リディアは迫り来る闇へ短剣を振り下ろした。
刃が黒い影に触れた瞬間、金属同士がぶつかったような甲高い音が響く。
衝撃が腕を駆け抜けた。
細い身体が弾き飛ばされ、壁へ叩きつけられる直前、クロードがリディアの腰を抱いて引き寄せた。
「無茶をするな」
「助けてくださるのでしたら、もう少し丁寧にお願いいたします」
「壁に激突するよりはましだろう」
「比較の基準が低すぎますわ」
軽口を交わしながらも、二人の視線は闇から離れない。
黒い影の表面に、白い亀裂が走った。
その隙間から無数の文字がこぼれ落ちる。
知らない。
怖い。
助けて。
帰りたい。
どれもミアの言葉だった。
「ミア様!」
リディアは闇の奥へ目を凝らした。
暗い水の中に沈められたように、ミアが目を閉じている。
その手首には、白い文字でできた鎖が巻きついていた。
クロードが剣を振るう。
黒い斬撃が闇を裂き、中に捕らわれたミアの姿があらわになった。
「今だ!」
リディアは迷わず闇の中へ飛び込んだ。
全身が凍りつくような冷たさに包まれる。
足元には何もない。
上も下も分からない暗闇を落下しながら、リディアは必死に手を伸ばした。
指先がミアの手に触れる。
「ミア様、目を覚ましなさい!」
返事はない。
それでもリディアは少女の腕を掴んだ。
白い文字の鎖が、ミアを闇の奥へ引きずり込もうとする。
鎖の表面に文章が浮かんでいた。
主人公ミアは第一王子に救われる。
悪役令嬢の手を取ることはない。
「また台本ですのね」
リディアは短剣を鎖へ突き立てた。
一度では壊れない。
二度。
三度。
何度も刃を振り下ろす。
刃に亀裂が入り、手のひらから血が流れた。
「リディア様……」
ミアが薄く目を開けた。
「どうして?」
「何がですの」
「どうして、私を助けるの?」
「今、それを尋ねますの?」
「だって、私はあなたが悪役になればいいと思っていた」
ミアの瞳から涙がこぼれた。
「あなたが物語どおりに負ければ、私は幸せになれる。あなたが何もしていないと分かっていたのに、殿下たちがあなたを責めても否定しなかった」
「分かっております」
「だったら、どうして!」
「あなたには責任を取っていただかなければなりません」
「責任?」
「自分の選択で傷つけた人々に謝罪し、奪ったものを返す責任です。勝手に消えて楽になろうなど、許しませんわ」
「助ける理由が厳しすぎるよ……」
「感動的な言葉をご希望でしたら、王子殿下にお願いなさい」
リディアが短剣を振り下ろす。
ついに刃が折れた。
同時に、文字の鎖も砕け散る。
リディアはミアを抱き寄せた。
しかし、二人の身体はさらに深い闇へ落ちていく。
そのとき、闇の中に一筋の光が差し込んだ。
クロードの剣だった。
「掴まれ!」
リディアは片手で剣の刃を掴んだ。
鋭い刃が皮膚へ食い込み、血が剣を伝う。
「手を離すな、リディア!」
「女性に刃を掴ませるなんて、最低ですわね!」
「文句は生きて戻ってから聞く!」
クロードが剣を引く。
白い文字が無数の手となり、ミアの足首へ絡みついた。
「悪役がいなくなったら、お話が壊れてしまうよ」
声が繰り返す。
「それなら」
リディアは剣を掴む手へ力を込めた。
「壊れてしまえばよろしいでしょう!」
クロードが大きく剣を引いた。
闇の裂け目から、リディアとミアの身体が一気に飛び出す。
二人は絡まり合うように廊下へ転がった。
闇の中に無数の白い目が浮かぶ。
「次は、ちゃんと終わらせるからね」
その声とともに、闇は中庭の奥へ引いていった。
リディアは立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。
クロードが彼女の身体を支える。
「顔色が悪い」
「暗闇の中を落ちて、剣を素手で掴んだばかりですもの。顔色くらい悪くなりますわ」
「それだけ話せるなら大丈夫そうだな」
「心配するか見捨てるか、どちらかにしてくださいませ」
「では、心配しておこう」
クロードはリディアを軽々と抱き上げた。
「お放しなさい!」
「歩けないのだろう」
「歩けます」
「そうか。だが、下ろすのは面倒だ」
「わたくしの意思はどこへ行きましたの?」
「先ほど闇の中へ置いてきたのではないか?」
リディアは抗議する代わりに、深く息を吐いた。
一方、救い出されたミアはアレクシスの前に立っていた。
「ミア、無事だったか!」
王子が駆け寄ろうとする。
しかし、ミアは後ずさった。
「来ないでください」
「何を言っている。私は君を助けようとしたのだぞ」
「助けてくださったのは、リディア様です」
アレクシスの足が止まる。
「それは、そうかもしれない。しかし、そもそも彼女が何かしたせいで、君が危険な目に遭ったのではないか?」
「違います!」
ミアの叫びが廊下へ響いた。
「リディア様は何もしていません」
「ミア、混乱しているのだ。今は休んだ方がいい」
「混乱していません。殿下たちに話したことには、嘘があります」
「嘘だと?」
「リディア様に階段から突き落とされたと、私は一度も言っていません。あの日、誰かに押されたことは事実です。でも、犯人の姿を見ていません」
「しかし、カインがリディアを見たと」
「リディア様が階段から立ち去るところを見ただけです。押したところは、誰も見ていません」
ミアは震えながらも、言葉を続けた。
「教科書が破られたときも、制服が汚されたときも同じです。証拠らしいものが残されていただけで、リディア様本人が嫌がらせをしたところを見た人はいません」
「では、毒の件はどう説明する?」
「毒が見つかったという話も、私は殿下から聞いただけです」
「何?」
「私はあの日、体調を崩して休んでいました。お菓子を食べていませんし、毒が入っていたという実物も見ていません」
広間がざわめく。
リディアはアレクシスを見つめた。
「殿下。毒は、どなたが調べたのです?」
「宮廷医師だ」
「お名前は?」
アレクシスは答えられなかった。
代わりにユリウスが進み出る。
「証拠は王宮で保管されています。必要なら、後日あらためて確認すればいいでしょう」
「後日?」
リディアは笑った。
「わたくしを公衆の面前で犯罪者として断罪しておきながら、証拠の確認は後日ですの?」
「言葉尻を捉えないでいただきたい!」
「では、証拠を今すぐお見せください」
リディアは広間を見渡した。
「破られた教科書、汚された制服、毒が入っていたという菓子。すべてここへお持ちください。各国の大使と王国議会の代表者立ち会いのもとで検証いたしましょう」
ユリウスは沈黙した。
「その必要はない」
国王の低い声が響く。
「今夜は学園の卒業を祝う宴だ。これ以上、騒ぎを大きくするべきではない」
「騒ぎを起こしたのは、わたくしではございません」
「分かっている。アレクシスの先走った行動については、後日、王家から正式に説明する。婚約破棄についても、いったん保留とする」
「お断りいたします」
国王が目を見開いた。
「婚約破棄は、すでに成立しております」
「しかし、告発に誤りがあった可能性が出てきた。そなたの名誉を回復するためにも、調査が終わるまで婚約は維持した方がよい」
「調査によって無実が証明されたとしても、殿下との婚約を続ける理由にはなりません」
「王命でもか?」
空気が張り詰めた。
リディアはクロードの腕から下り、国王の前に立った。
「陛下。わたくしは十年間、未来の王太子妃となるために学んでまいりました。外交、法律、歴史、経済、礼儀作法。アルヴェイン家の資産を使い、王国の街道を整え、食料を送り、戦争で傷ついた兵士たちのために療養所を建てました」
誰も口を挟まなかった。
「それでも殿下は、わたくしではなく、根拠の不確かな噂を信じました。そして皆の前で、わたくしを罪人とお呼びになったのです」
アレクシスが唇を動かす。
しかし、言葉は出てこなかった。
「陛下は婚約を保留にすると仰いました。しかし、わたくしは物ではございません。不要になれば捨て、必要になれば拾い直せるとお考えでしたら、大きな間違いです」
リディアは深く一礼した。
「王家との婚約は、これにて終了いたします」
彼女は踵を返した。
今度こそ、誰も呼び止められなかった。
数歩進んだところで、ミアが声を上げる。
「私も連れていってください!」
リディアは足を止めた。
「あなたは王子殿下の大切な方でしょう?」
「もう、殿下のそばにはいられません」
「ミア、何を言っている!」
アレクシスの声を無視し、ミアはリディアを見つめた。
「私は殿下に本当のことを話しませんでした。殿下も、私が望む言葉だけを信じました。このまま結婚しても、幸せにはなれません」
「わたくしはあなたを信用しておりません」
「分かっています」
「屋敷へ迎え入れれば、アルヴェイン家が第一王子殿下の想い人を誘拐したと言われます」
「それなら、使用人として雇ってください!」
「王妃になるはずだった方に、何をさせればよろしいのです?」
「お掃除とか」
「できますの?」
「やったことはありません」
「料理は?」
「卵を割れます」
「殻を入れずに?」
「練習します」
「お帰りなさい」
「見捨てないでください!」
リディアは額を押さえた。
クロードが口を挟む。
「連れていけばいい」
「簡単におっしゃいますけれど」
「その娘は闇に捕らわれていた。置いていけば、再び狙われる可能性がある」
それはリディアも理解していた。
あの存在は、物語を本来の筋書きへ戻そうとしている。
ミアがアレクシスと結ばれるまで、何度でも干渉してくるだろう。
リディアはミアへ向き直った。
「条件がございます」
「何でもします」
「あなたが知っている物語の内容を、すべて話してください。覚えていない部分も、誤魔化さずに答えること」
「はい」
「今までの事件について、王国議会へ正式な証言書を提出すること」
ミアの顔が強張った。
それをすれば、彼女自身もただでは済まない。
悲劇の主人公として得た名声を失い、虚偽の証言について責任を問われる可能性もある。
それでも、ミアは頷いた。
「分かりました」
「最後に」
リディアは冷たい声で告げた。
「わたくしはあなたを許しておりません。屋敷へ来たからといって、友人になれるとは思わないことです」
「はい」
ミアはまっすぐにリディアを見つめ返した。
「それでも構いません」
その夜。
物語の主人公は王子を選ばず、悪役令嬢の馬車へ乗った。
本来の筋書きには存在しない選択だった。
第三章 北へ向かう馬車
王都から北方領までは、馬車で五日かかる。
ただし、それは通常の旅程であればの話だ。
リディアたちは夜明けを待たず、卒業記念舞踏会が終わった直後に王都を出発した。
豪華な公爵家の馬車は使わない。
アルヴェイン商会の紋章が入った、飾り気のない黒い馬車を三台用意していた。
一台目には囮となる護衛。
二台目には財務官オルドと重要書類。
そして三台目には、リディア、ミア、クロードが乗っている。
「なぜ、あなたまで同じ馬車にいらっしゃいますの?」
リディアは正面に座るクロードを睨んだ。
「俺の馬車だからだ」
「こちらはアルヴェイン商会の馬車です」
「帝国が五年前に売ったものだ。元をたどれば俺の馬車と言える」
「その理屈なら、剣を作った職人が戦場の所有権を主張できますわね」
「面白い。今度やらせてみよう」
リディアは反論を諦め、窓の外へ目を向けた。
王都の城壁はすでに遠い。
東の空が、わずかに明るくなり始めている。
街道の両側には麦畑が広がっていたが、穂は細く、色も悪かった。
「リディア様」
隣に座るミアが、遠慮がちに声をかけた。
「先ほどから、何をご覧になっているんですか?」
「畑です」
「何か変ですか?」
「土の色が薄すぎます。あの状態では、来年の収穫量はさらに減るでしょう」
ミアは窓へ顔を寄せた。
「私には、普通の畑に見えます」
「普通に見えるからこそ、問題なのです」
「どういう意味ですか?」
「人間は、突然起きた異変には気づきます。しかし、十年かけて少しずつ悪化する異変には慣れてしまう。昨日と今日で大きな違いがないから、まだ大丈夫だと考えるのです」
リディアは遠ざかる畑を見つめた。
「そして、誰もが異変を認めた頃には、手遅れになっている」
その言葉は、王国だけに向けたものではなかった。
リディア自身も、闇の存在を甘く見ていた。
不自然だとは思っていた。
しかし、自分さえ断罪を切り抜ければ終わると考えていたのだ。
「リディア様は、ずっと北方領を治めていたんですか?」
「父の手伝いをしていただけです」
向かいのクロードが鼻で笑った。
「王国へ送る穀物の量を決め、帝国との交易路を整備し、二つの鉱山を再開発した人間が、手伝いをしていただけと言うらしい」
「余計なことをおっしゃらないでください」
「褒められると照れるからか?」
「違います」
「耳が赤いぞ」
「朝日です」
外はまだ薄暗かった。
ミアが小さく笑う。
リディアが視線を向けると、ミアは慌てて口元を押さえた。
「申し訳ありません」
「笑うくらいでしたら自由になさい。ただし、わたくしを見て笑う場合は料金をいただきます」
「おいくらですか?」
「金貨一枚です」
「高いです!」
「公爵令嬢ですもの」
馬車の中に、かすかな笑い声が広がる。
しかし、その穏やかな時間は長く続かなかった。
不意に馬車が大きく揺れた。
馬のいななきが響き、御者が鋭く叫ぶ。
馬車は急停止した。
クロードの表情が瞬時に変わる。
窓の隙間から外を確認した。
「木が倒れている」
「自然に?」
「切り口が新しい」
街道を塞ぐように、大木が横たわっていた。
前方を走っていた馬車も停止し、護衛たちが周囲を警戒している。
リディアは座席の下から、小型の弓を取り出した。
「そんなものまで用意していたのか」
「殿方の隣に座るときは、身を守る準備が必要ですので」
「俺に使うつもりだったとは驚きだ」
「状況によっては」
リディアはミアにも短剣を渡した。
「使い方は分かりますか?」
「分かりません」
「相手が近づいてきたら、尖っている方を向けてください」
「説明が簡単すぎませんか?」
「戦闘が終わるまで馬車から出ないこと。こちらの方が重要です」
その瞬間、森の中から矢が飛んできた。
窓へ命中し、木製の扉に突き刺さる。
続けて何本もの矢が降り注いだ。
「襲撃です!」
外から護衛の声が聞こえる。
「人数は?」
クロードが尋ねた。
「確認できるだけで二十! 森の中に、さらに潜んでいる可能性があります!」
クロードは剣を抜いた。
「ここにいろ」
「わたくしに命令する権利はございませんわ」
「では、お願いしておこう」
クロードはリディアをまっすぐに見つめた。
「ここにいてくれ、リディア」
思いがけず真剣な声だった。
リディアが答えるより早く、クロードは扉を開けて外へ飛び出した。
直後、剣と剣がぶつかる音が響く。
襲撃者たちは全員が黒い布で顔を覆い、紋章のない革鎧をまとっていた。
盗賊に見せかけているが、動きに統一性がある。
明らかに訓練を受けた兵士たちだった。
一本の矢が馬車の壁を貫き、リディアの頬をかすめる。
鏃には、黒い液体が塗られていた。
「毒です」
ミアの顔が青ざめる。
「では、彼らの目的は」
「わたくしたちの殺害でしょうね」
誰が命じたのか。
王家との婚約を破棄したリディアを危険視する者。
アルヴェイン家の利権を狙う者。
ミアに事件の真相を語られては困る者。
あるいは、物語を本来の結末へ戻そうとする存在。
リディアは目を閉じ、外の音へ意識を集中させた。
剣戟。
怒号。
馬のいななき。
その中に、かすかな音が混じっている。
馬車の後方から、誰かが近づいていた。
リディアはミアの手を掴み、座席の下へ引き寄せる。
ほぼ同時に、馬車の扉が外から開かれた。
黒装束の男が短剣を構えている。
男の刃がリディアへ迫る。
リディアは身体を横へ倒して避け、弓の引き金を引いた。
短い矢が男の肩へ突き刺さる。
しかし、男は倒れなかった。
負傷を無視し、再びリディアへ飛びかかる。
「リディア様!」
ミアが男へ体当たりした。
だが、体格の差は歴然としている。
ミアは簡単に振り払われ、馬車の壁へ背中を打ちつけた。
男が彼女へ短剣を向ける。
リディアは壊れた座席の木片を掴み、男の手首へ振り下ろした。
短剣が床へ落ちる。
それでも男は止まらない。
空いた手でリディアの首を掴み、馬車の壁へ押しつけた。
息ができない。
視界が暗くなっていく。
そのとき、男の胸から剣の刃が突き出した。
男の身体から力が抜け、床へ崩れ落ちる。
背後にはクロードが立っていた。
「無事か」
「見れば分かるでしょう」
リディアは首元を押さえ、激しく咳き込んだ。
「まったく無事ではございません」
「口は無事なようだ」
クロードは倒れた男の覆面を剥いだ。
男の首筋には、青い鳥の刺青がある。
「王国南部の傭兵団だ」
「ご存じなのですか?」
「三年前、帝国の輸送隊を襲った連中と同じ印だ。しかし、あの傭兵団は俺が潰した」
クロードが刺青を指でなぞる。
青い印の一部が崩れた。
「刺青ではありませんわね」
「俺たちに、南部の傭兵団が襲ったと思わせたかったらしい」
リディアは男の手を調べた。
右手の中指に、硬いまめがある。
「この方は剣士ではありません」
「文官か」
「それも、毎日かなりの量の文字を書く方でしょう」
男の袖の内側には、王宮で公文書を作成するときに使われる特殊なインクが付着していた。
「王宮の書記官ですわ」
外での戦闘も終わりつつあった。
襲撃者の半数は倒れ、残りは森の奥へ逃走している。
護衛たちは、二人の襲撃者を生け捕りにしていた。
一人は四十歳ほどの男。
もう一人は、まだ二十歳にもなっていない青年である。
ミアを見た瞬間、青年は目を見開いた。
「聖女様」
青年が呟く。
「誰から、その呼び方を聞きましたの?」
リディアが尋ねた。
青年は俯いた。
「答えなさい」
「言えない」
「では、誰にわたくしを殺すよう命じられたのです?」
「誰にも。俺たちは正しいことをしている」
青年は顔を上げた。
瞳が異様な光を帯びている。
「悪女を殺せば、聖女様が王子と結ばれる。そうすれば国は救われる。飢える者も、苦しむ者もいなくなる!」
「どうして、そんなことを」
ミアが震える声で尋ねる。
「神が教えてくださった」
青年は恍惚とした笑みを浮かべた。
「夜ごと夢の中に現れ、物語を見せてくださる。聖女様は王子と結ばれ、王国を永遠の繁栄へ導く。だが、悪女がそれを邪魔している」
青年の視線がリディアへ向けられる。
恍惚の笑みは消え、激しい憎悪へ変わった。
「お前さえいなければ!」
青年が立ち上がった。
縄で縛られていた両手が、不自然な方向へ曲がる。
骨を折り、自ら縄を抜けたのだ。
護衛が剣を抜くより早く、青年はリディアへ飛びかかった。
クロードが剣を振るう。
しかし、青年の身体へ届く直前、その全身から黒い霧が噴き出した。
青年の口が、人間には不可能なほど大きく開く。
その喉の奥に、二つの白い目が浮かんだ。
「見つけた」
舞踏会で聞いた声だった。
「次は、ちゃんと終わらせるって言ったでしょう?」
青年の身体が膨れ上がる。
黒い文字が皮膚の下を這い、手足を異形の姿へ変えていく。
背中から、無数の文字で作られた翼が広がった。
翼の表面には、同じ文章が繰り返し浮かんでいる。
悪役令嬢リディアは、北へ向かう途中で命を落とした。
それは小説に書かれていた、本来のリディアの最期だった。
修道院へ送られる途中。
馬車ごと崖から落ち、誰にも助けられずに死ぬ。
「ここで、物語を元に戻すよ」
怪物が笑った。
リディアは弓を構える。
「残念ですけれど」
彼女の背後では、アルヴェイン家の騎士たちが次々と武器を構えていた。
隣には、帝国最強と呼ばれる皇子がいる。
ミアも震えながら短剣を握っている。
小説の中で、リディアは一人きりだった。
誰にも信じてもらえず、誰にも助けを求められずに死んだ。
しかし、今は違う。
「わたくしはもう、あなたの知っている悪役令嬢ではございませんわ」
リディアが引き金を引いた。
矢が怪物の右目を貫く。
白い目が砕け、黒い文字が飛び散った。
怪物の絶叫が森を揺らす。
クロードが地面を蹴り、剣を振り上げた。
その刃が朝日を受け、鋭い光を放つ。
物語に書かれていなかった戦いが始まる。
未来を奪おうとする者に、リディアはもう一歩も譲らない。
たとえ、その相手が国王でも。
運命でも。
神でも。
世界を作った何者かであっても。
自分の人生は、自分で決める。
自分の結末は、自分で選ぶ。
その誓いだけは、誰にも書き換えさせない。
悪役令嬢リディアの物語は、卒業記念舞踏会で終わるはずだった。
けれど、決められていた最後の一行は、彼女自身の手によって焼き捨てられた。
ここから始まるのは、王子と聖女が結ばれるための恋物語ではない。
決められた役割から逃れ、自分たちの未来を取り戻す者たちの物語だ。
世界を敵に回した一人の悪役令嬢。
彼女に興味を抱いた孤独な皇子。
そして、物語の主人公であることを捨てた少女。
三人の運命が交わるとき、世界に隠された本当の筋書きが動き始める。
リディアは迫り来る怪物へ、二本目の矢を向けた。
「さあ、続きを始めましょう」
冷たい風が銀色の髪を揺らす。
その青い瞳には、もう恐怖も迷いもなかった。
「今度の物語は、わたくしたち自身の手で書くのです」




