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『サヤームの鈴 ―日本人村の軍師になった男―』~400年前のアユタヤ王朝、君に渡せなかった鈴が今、歴史の彼方から鳴り響く~  作者: 十夢矢夢君ーとむやむくんー
第三章 丁稚奉公のレック

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8/10

雷魚獲りとがレオンの影

 お滝の店で(なまず)(さば)く生活が始まって数週間。


 レックの日常は、夜明け前の仕入れから始まった。


 アユタヤの湿った朝気が立ち込める中、レックは店先のあ炭床を整え、お滝の厳しい監修のもとでタレの煮詰め作業を手伝う。


「いいかい、レック。火加減は命だよ。焦がせばただの炭だし、弱ければ泥臭さが残る。あんたのその大きな体は、うちの団扇(うちわ)を仰ぐためでもあるんだからね」


 お滝の叱咤が飛ぶ。


 レックは、現代の仲間とキャンプで培った、バーベキューの炭の扱いとは次元の違う、職人的な火起こしに悪戦苦闘していた。


 しかし、ひとたび焼き上がれば、その香ばしさは日本人町の通りを支配した。


「母さん、レックにばっかり厳しくしちゃって。この人、これでも長政様からも一目置かれているのよ」


 ハナがくすくすと笑いながら、朝食のカオトム(タイのお粥)を運んでくる。


 しかし、具材には朱印船で運ばれてきた、日本の紀州の梅干しや、津田又左衛門の地元、肥後藩からのイワシの煮干しが入っている。 


「ふん、長政様がねぇ。うちじゃ、ただの“丁稚奉公(でっちぼうこう)”さ。ほら、レック、手が止まってる! 炭の声を聴きな!」


 お滝の勢いに押され、レックは「はい!」と裏返った声で答えるしかなかった。


 昼時になれば、ハナと並んで接客に追われる。


 二人は交互に忙しく狭い店先を動き回るが、すれ違うたび、レックの鼻腔をかすめるものがあった。


 それは、ハナが身にまとっている柔らかくも甘いお香の匂いだ。


 タイで古くから愛される「ジャスミン」の花のような、蜜の甘さと湿り気を帯びた香りが、レックの胸を不意に締め付ける。


(有希の匂いだ……いや、違うけれど)


 有希が好んでいたのは、デパートのカウンターで買った少し背伸びしたブランドの、柑橘系が混じる甘酸っぱい香水だった。


 ハナのお香はそれよりもずっと土着的で、この熱帯の空気に溶け込んでいる。


 そして彼女が笑った瞬間の、頬の曲線や目元の柔らかさまでもが有希を想起させ、レックは時折、自分がどの時代、どの世界に立っているのか分からなくなるほどの眩暈(めまい)を覚えた。


 レックは、色々と店の“改善”を思いつき、現代の飲食店では当たり前の「おしぼり」の提供を始め、さらには「(まつ)(たけ)(うめ)」の価格設定を提案してみた。


 (まつ)(たけ)(うめ)……江戸時代の寿司屋や蕎麦屋で生まれたメニューのランク付けのことだ。


「ハナ、サイズを三段階に分けて、真ん中の『(たけ)』を一番お得に見せれば、客は自然とそれを選ぶ。これを(おとり)効果と言うんだ」


「おとり? またあんたは、詐欺師みたいなことばっかり言って。……でも、確かに真ん中の『竹』串が一番売れるようになったわね」


 ハナは感心したように、竹筒の売上金を数える。


「あんたのその不思議な知恵、本当はどこで教わったの? 長政様や又左衛門様が執心するのも分かる気がするわ」


 ふと見せたハナの真剣な眼差しに、レックは胸の鼓動が速まるのを感じた。



 ある晴れた休日――乾いた空気は何処までも澄んで、チャオプラヤ河を滑っていく。


 レックは、のんびりと一人で運河の奥へと舟を出していた。


 とはいうもの、お滝から命じられた「雷魚(らいぎょ)(プラー・チョン)」を獲るための“命令”でもあったのだ。


「日本村の町人には“極上の(うなぎ)”だと言い張り、シャムの衆には雷魚を“元気の出る魚”として売るのさ、この国では商いを巧くやんねぇと生きていけないのさ……」


 お滝の商売哲学を思い出し、レックは独りごちた。


 だが、泥抜きをした雷魚は、ハーブを詰め込んで炭火で焼けば、その白身の美味さは確かに絶品だ。


 運河の岸辺、張り出したマングローブの根元は絶好の雷魚の住処(すみか)だ。


 レックは舟を固定し、慎重に間合いを測る。


 水面に浮く睡蓮(すいれん)の葉の隙間で、親指ほどの稚魚が群れている。


 その下には必ず、鋭い歯を持つ凶暴な母魚が潜んでいるのだ。


 レックは手慣れた手つきで投網を打つ。


 網が円を描いて広がり、銀色の飛沫とともに水面へ吸い込まれた。


 手応えがある。


 網を引き揚げると、斑点模様の筋肉質な巨体が数匹のたうち回った。


 水面に広がる波紋と、静かな竹林のざわめき。


 このまま、この穏やかな時代で、一人の日本人として歳を重ねていくのも悪くない。


 有希に似たハナと、ぶっきらぼうだが気立てのいいお滝。


 この「家族」のような場所を守って生きていくのも――。


 そんな甘い考えが頭をよぎった、その時だった。


 腰に掛けていたキティの鈴が、微かな川風を受けたのか、不意に「チリン……」と乾いた音を立てた。


 小さな音なのに水鳥たちが一斉に飛び立ち、運河の底から泥が巻き上がった。


 河下から水面を押し潰すような轟音が響いてきた。


「……なんだ、あのでかいのは?」


 マングローブの影から姿を現したのは、アユタヤの風景にはおよそ不釣り合いな、巨大な浮遊要塞だった。


 三本のマストを高く掲げ、船体には無数の砲門が黒い口を開けている。


 マストの頂点に翻るのは、赤と白のブルゴーニュ十字旗――スペイン(エスパニア)帝国の軍旗だ。


 当時、スペインはフィリピン・マニラを拠点にタイ(シャム王国アユタヤ王朝)への圧力を強めていた。


 だが、これほど重武装のガレオン船が、検問のあるポンペットを突破する勢いで、日本人町の鼻先まで侵入してくるのは、明らかな宣戦布告に等しかった。


 甲板には、太陽を照り返す鉄の胸当てを着けた兵士たちが、マスケット銃を構えて並んでい

る。


 その銃口は、迷うことなく日本人町の方角、つまりハナやお滝がいる場所を向いていた。


「大変だ……知らせないと……!」


 レックが網を放り出し、泥を蹴って立ち上がろうとしたその瞬間。


 背後の茂みから、冷ややかな声が届いた。


「動くな!……そのまま、泥の中に伏せとれ」


 振り返ると、そこには編笠を深く被り、抜き身の刀を逆手に持った津田又左衛門がいた。


「エスパニアの狂犬どもが、ようやく牙ば剥きおったばい。……レック、お主の言う『未来の呪術』ちゅうもんは、あの大きか巨艦ば沈める役に立つとか?」


(つづく)

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