牢屋の呪術
「さぁ入れ、大人しくしとれば、命までは取らん……たぶん、な」
浪人に背中を蹴飛ばされ、レックは湿った床に転がった。
重い鉄格子の扉が閉まり、鈍い金属音が響く。
そこは、日本人町の外縁に位置する、半地下の牢屋だった。
壁面には無骨なラテライトの石材が積み上げられ、熱帯の湿気を吸って赤黒く沈んでいる。
レックは震える手で、ポケットの中を確認した。
指先に触れるキティの鈴と、バイクの鍵束。
この冷たい金属の感触だけが、自分を「2026年の人間」として繋ぎ止める唯一の錨だった。
「……落ち着け!落ち着くんだ!」
通路には一人の牢番が座り、手持ち無沙汰に竹の棒を削っている。
その傍らには、又左衛門が奪っていった「あの雄鶏」が、足を縛られて転がされていた。
そこへ、軽い足音が響く。
ハナだった。
彼女は竹で編んだ籠を抱え、シャム人の若い牢番に小さな包みを渡すと、格子の隙間からレックを覗き込んだ。
「これ、食べなさい。死んだら、あんたを助けた私の嘘が、無駄になるじゃない」
差し出されたのは、バナナの葉に包まれた黒ずんだ塊だった。
レックが口に運ぶと、強烈な腐敗臭と、舌を刺すような辛味、そして喉の奥にへばりつく薬草の過酷な苦味が襲った。
「……っ、これは?」
「プラ・ラーปลาร้า(川魚の塩辛)の薬草和えよ。悪い霊が憑かないように、苦い木の実を混ぜてあるわ」
あまりの不味さに涙が出るが、その刺激が、朦朧としていたレックの脳を覚醒させた。
「ええ、これがプラ・ラーなの?アユタヤ時代の味?不味くて食えないよ!」
「でしょうね、私の村の日本人も決して食べないわ、ははは!」
ハナが白い歯を見せて大声で笑うと笑窪ができる。
確かに有希も同じような笑窪ができて、本当に可愛らしかった。
しかし、今のレックにとっては、この不条理な味こそが、今この時代の「現実」なのだと悟るのだった。
レックは気を取り直し、ポケットからキティの鈴と、ホンダのロゴが入ったバイクの鍵を取り出した。
暗い牢屋の中で、ホンダのロゴが刻まれたニッケルメッキの鍵が、鈍く、薄明かりの中で光を反射する。
(こいつは使えそうだな……)
レックはわざと、有希との形見の鈴を「チリリン……」と軽く鳴らした。
「ちょっと、あんた、何おっぱじめる気なの?」
驚きの目で耳元に囁くハナの声がくすぐったい。
レックは、じわりと鍵の鋭いエッジを牢番へと向けた。
「ハナ、僕の言葉を訳してくれ。……『その鶏を今すぐ放せ。さもなくば、この“呪いの鍵”が封印を解く。お前の家系は三代先まで、この鈴の音とともに魂が削り取られることになるだろう』と」
レックの発する低い声がハナの耳元に響く。
彼女一瞬、呆気に取られたが、レックの話す現代の日本語を理解したのか、声色を変えて牢番へ語りかけた。
ハナがアユタヤ時代のタイ語で、より呪術的なニュアンスを込めて翻訳する。
シャム人の牢番の動きが止まった。
彼は、レックが掲げた「銀色の物体」を凝視した。
17世紀の技術では、これほどまでに歪みのない鏡面、これほどまでに鋭利で複雑な溝を掘り出すことは、神か悪魔にしか不可能だ。
ましてや、その横で揺れる「奇妙な白い猫」の無表情な顔が、彼には底知れぬ呪いの偶像に見えた。
「……そ、そんな呪いなど……だ、だれが信じるものか!」
牢番の声が、ガチガチと震え始める。
レックは追い打ちをかけるように、現代日本語で、あえて感情を殺した無機質な声を響かせた。
「システム起動……全回路、接続。ターゲット、ロック!」
意味は通じない。
だが、その「未知の言語」の響きは、牢番にとって致命的な死の宣告に聞こえた。
「さあ! 鈴が独りでに鳴り始める! この“呪いの鍵”が、お前の命を喰らおうとしているわ!」
ハナが語尾を強くしていく。
牢番は悲鳴を上げ、縛られていた雄鶏を放り投げると、尻餅をつきながら闇の中へと逃げ出した。
「……ふん、案外脆いわね」
ハナは皮肉げに笑い、牢番が落としていった牢屋の鍵を拾い上げた。
彼女の指先が、一瞬だけレックのバイクの鍵に触れる。
そのとき、ハナの顔から嘲笑が消えた。
「これ……本当に、この世の物じゃないのね。冷たくて、滑らかで……まるで、月の欠片みたい」
彼女の心の底で、何かが静かに変化した。
「これって……」
そう言いかけて、彼女は鍵束をレックに返した。
騒ぎを聞いて駆け付けた津田又左衛門に、ハナは冷静な落ち着いた口調で願い出た。
「津田様、この“呪いの鍵”は扱いを間違えると一族が滅びる恐ろしい代物です。私が預かり、長政様の前でこの男に説明をさせます。どうかこの者を牢屋から出してください」
又左衛門は、ハナの強引な押しに根負けして、レックを一時釈放することにした。
ただ、レックをハナの屋敷で暫く面倒を見ることを約束させた。
泥だらけの道を行く途中、前方から数頭の象と、武装した兵士たちの行列が現れた。
周囲の民たちが一斉に平伏する。
「伏せなさい! 御大将が通られるわ」
ハナに腕を引かれ、レックも道端に膝をついた。
行列の中心にいたのは、馬上に黒塗りの甲冑を身に纏い、南国の太陽を浴びてなお涼しげな眼光を放つ、一人の日本人だった。
山田仁左衛門長政。
アユタヤ王国の上級官職「オークヤー・セーナーピムック」に昇り詰め、日本人義勇軍を率いる英雄。
「……長政様だ。これから『日本人会評議』へ向かわれるところよ。次の王位継承の件で、町中が殺気立っているわ」
背の丈が六尺(約180センチ)もあるうえ、馬上の勇姿は大王の如く大きく見える。
その視線が、異様な格好をしたレックと、その隣に立つハナに注がれる。
「ほぉ……又左衛門殿の言っていた『魔界の妖人』とは、お主のことか!」
長政の声は低く、そして深い知性に満ちていた。
歴史の教科書で見た英雄の姿ではない。
レックは自嘲気味に、しかし確かな高揚感とともに、心の中で呟いた。
(八百万の神はこの国にはいない。……だけど、信じるに値する一人の『人間』なら、今、目の前にいる)
王位継承という名の、魑魅魍魎が渦巻く嵐が吹き荒れる直前のことだった。
時は西暦1627年、仏歴2170年も終わろうとしていた。
(つづく)




