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『サヤームの鈴 ―日本人義勇隊の軍師になった男―』四百年前のアユタヤ王朝、君に渡せなかった鈴が今、歴史の彼方から鳴り響く~  作者: 十夢矢夢君ーとむやむくんー
第十二章 隔世の鼓動(最終章)

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ハナの日記

 ――そして次の瞬間、レックは目を開けた。


 鼻腔を突いていた硝煙(しょうえん)の臭いも、喉を焼くような火炎の熱も、すべてが嘘のように消えていた。


 代わりに肺に流れ込んできたのは、静かに空調が吐き出すひんやりとした空気。


 そこは、現代のアユタヤ歴史展示館――映像シアターの薄暗い闇の中だった。


 夕方の遺跡ショーが始まるまでの、退屈な時間つぶしのうたた寝だったのか。


 ……いや、違う。


 確かに自分は、特別展示の小さなガラスケースの前で、当時の町人が書き残した、あの一葉の日記を読んでいたはずだ。


 その瞬間、激しい眩暈(めまい)に襲われ、逃げ込むようにこのシアターの椅子に倒れ込んだのではなかったか。


 硬い椅子の感触が背中に伝わり、レックは意識の交錯を振り払おうと頭を強く振った。


 正面のスクリーンには、『アユタヤ日本人町の終焉(しゅうえん)』という文字が静かに浮かんでいる。


「……山田長政の死と共に、日本人町の歴史はここで幕を閉じることになります――」


 ナレーションの抑揚のない声が、レックの耳を虚しく通り抜けていく。


 “幕など、閉じていない……”


 レックは反射的に自分の脇腹を、肩を、指先で強く押さえた。


 矢が貫いた衝撃、弾丸が肉を削いだあの生々しい痛みが、全身に張り付いて離れない。


 だが、指先に触れるのは、傷一つない安物のTシャツの、頼りない布地だけだった。


「……夢だったのか……?」


 血で塗れていたはずの両手には、首から掛けていた一眼レフが握られている。


 だが、ハナを抱きしめた時の彼女の心臓の音、あの柔らかな手の温もり、ジャスミンのような髪の香り、そして何よりも愛らしい微笑んだときの笑窪……。


 すべてが夢で片付けられるはずがなかった。


 レックは弾かれたように席を立った。


「お客様、もうすぐ閉館の時間です……!」


 学芸員の声を背中で遮り、迷わず展示室の奥へと走った。


 あの場所だ—


 一時間ほど前、そこに展示されていたのは、虫食いと(かす)れがひどい、一人の町人の走り書きに過ぎなかった。


 しかし、今――ガラスケースの中で待っていたその(ページ)は、まるで息を吹き返したかのように、レックの眼を釘付けにした。


 それは、ハナが誰に宛てるでもなく、ただ己の心情を刻んだ日記だった。


 古めかしい仮名遣いと、震えるような墨の跡。


 ところどころ字が掠れ欠落しているが、レックの脳裏には“ハナの優しい声”が直接響いてくる。


『――未来より来たりし御方、レック様。有希と申す恋人の遺し給ひし鈴を握り、我が傍らにて命を賭して戦ひ給ひき。この奇妙なる猫の姿をした鈴の音の鳴るたび、我が腕の内に覚ゆるものなり』


 ――書き換わっている!


 レックは息をすることさえ忘れ、その文字を凝視した。


 心臓の鼓動が耳元までせり上がり、膝の震えが止まらない。


 自分がアユタヤの戦場を駆け、ハナの腕の中で力尽き、あの鈴を託した事実。


 四百年の時空を超えて、ハナが書き記した「文字」が今ここに現存している。


 ハナは、町の人々を率いて北の古都、ピサヌロークへと無事に逃げ延びていたのだ。


 さらに、手記の末尾へと続く。


 『母上が命を懸けて(ひら)きし北門より出で、川を(さかのぼ)りて彭世洛(ピサヌローク)へと逃れり。 我ら日本人町の住人と義勇の武士ら、合わせて六十余名。 未来より来たりし、れっくさまの導きにより、北の深き山脈へと分け入りぬ。 我らはその地の民と(むつ)み、子をなし、日の本の血を引く一族の(いしずえ)とならんと欲す』


 お滝が命を懸けて()じ開けた出口。


 そこから脱出し、チャオプラヤ河の激流を遡っていく町人や義勇隊の武士たちの姿が、レックの脳裏に鮮烈に蘇る。


「やはり、北へ逃げてくれていたのか……」


 そして、彼女が繋いだその血脈は、四百年の歳月を幾重にも積み重ね、どこかで今も、この世界を歩いているのかもしれない。


「俺は間違いなくそこにいた……」


(つづく)

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