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『サヤームの鈴 ―日本人義勇隊の軍師になった男―』四百年前のアユタヤ王朝、君に渡せなかった鈴が今、歴史の彼方から鳴り響く~  作者: 十夢矢夢君ーとむやむくんー
第十一章 英雄の落日

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チャオプラヤと梅

 カラホム軍の一次撤退から数日。


 日本人町は、嵐の前の(つか)()の平穏に包まれていた。


 折れた竹柵の修復や負傷者の手当てに追われる日々の中で、レックとハナがようやく二人きりになれたのは、昼間の熱気が和らぎ始めた夕暮れ時だった。


 町外れの運河に突き出した、朽ちかけた桟橋。


 レックは、手の甲に負った傷をハナに手当てされていた。


 母、お滝から教わったという薬草の、青臭くも清涼感のある緑の汁を、ハナが指先で丁寧に塗り込んでいく。


「痛みますか、レック様」


 ハナの指先は驚くほど優しく、そして微かに震えていた。


「……いや。ハナさんの手の方が、よっぽど温かいよ」


 レックがそう言うと、ハナは夕映えの(だいだい)を写したように頬を赤らめ、視線を落とした。


 ハナの()れた横顔を見た途端、レックの胸の奥で眠っていた孤独がふわりと揺れた。

 

 自分はこの世界の住人ではない。


 歴史の流れに逆らい、いつか消える存在かもしれない。


 だが、この柔らかな髪の匂いや、指先の確かな温もりだけは、どんな教科書にも公文書にも記されていない、彼だけの真実だった。


「ねえ、レック様。戦いが終わったら、お母様と三人で、長政様が言っていた『遠い未来』の話、もっと聞かせてくださいね。レック様の故郷には、本当に夜を昼に変える魔法があるのでしょう?」


 無邪気(むじゃき)に問いかけるハナ。


 レックは、彼女が思い描いていた「未来」が、まさに今、現実の中で崩れ始めていることを知っている。


「うん、ほかにも聞かせたいことはたくさんあるんだ……」


 彼は、(ふところ)から大切に忍ばせていた布包みをそっと取り出した。


「……これ。(いくさ)が始まる前に渡したかったんだ。ずっと、出しそびれていて」


 包みを解くと、梅の花を(かたど)った“かんざし”が現れた。


 極彩色の地元の装飾品とは異なる、日本の早春を思わせる控えめな白梅の柄模様。


 その白い模様が、夕暮れの中で淡く白光を放っているように見えた。


「これは……」


「梅という木の花だよ。厳しい冬に耐えて、春になると一番最初に咲くんだ。……再会や、希望の象徴なんだよ」


「そうなんだ……梅の花」


「ハナは、日本、いや、日ノ本の国には行ったことがないの?」


「私はここアユタヤで生まれたから……。でも、一度は行ってみたい。お父様とお母様が生まれた国の景色を、この眼で見てみたいです」


 ハナは、かんざしを宝物のように両手で包み込み、そっと自分の髪に挿した。


「似合いますか?」


「ああ。この世で一番似合っている。約束するよ、いつか、君に全部見せてあげたい。……たとえ私がいなくなっても、君がその光の中にいられるように」


「……大切にします。あなたが言った『冬』が終わるまで。そして、この花が咲く『春』からも、私はあなたの道標(みちしるべ)となります」 


 不安げに見上げるハナを、レックは優しく微笑み、そっと引き寄せた。


 運河を渡る風が二人の髪を揺らし、水面には黄金色の夕映えが波打っている。


 二人の間には、この瞬間のために生きてきたのだという、(もろ)くも美しい確信が芽生えていた。


 永遠に続くかと思われた甘い一時(ひととき)は、わずか数秒で幕を閉じた。


 町の南、静かな田畑を突っ切ってくる、馬蹄(ばてい)の響きが二人の世界を粉々に砕いた。


「レック軍師殿! おハナ様っ!」


 張り詰めた声で叫びながら、重松蔵人が落馬せんばかりの勢いで桟橋へ突っ込んできた。


 顔を強張(こわば)らせ震える声を上げた。


「長政様が……! リゴールの傷が()み、熱に(うな)されておいでだ! 早く、早くお屋敷へ!」



 駆け戻った長政の居室は、さっきまでの穏やかな時間が嘘のように、重苦しい湿気に満ちていた。


 開け放たれた襖から、(むせ)るような薬草の匂いと、傷口を清める強い酒の匂いが漏れてくる。


 特別に召し出されたポルトガル人の医師が、沈痛な面持ちで白い包帯を手に取っていた。


「……長政様!」


 レックの呼びかけに、寝床の主がわずかに肩を揺らす。


「長政様、どうかそのまま」


 ハナの気遣う声が、震えを帯びていた。


 アユタヤ日本人義勇隊を率いた威風堂々(いふうどうどう)たる骨格は、薄い麻の肌着の下でひと回り小さく見える。


 リゴールで受けた毒矢の痕は、今なお熱を帯び、主の命をじわじわと(むしば)み続けていた。


「……遅いぞ、軍師殿。拙者は少し、身体が火照っただけだ」


 長政は、ひび割れた唇を歪めて不敵に笑った。


「熱が引かない。毒が全身にまで回っている。……並の男なら、(とう)に事切れていてもおかしくはない」


 青い目の医師が、感嘆とも諦めともつかぬ吐息をつき、長政の額に湿った布を当てがう。


 アユタヤの空に雨季が近づき、(うな)るような遠雷を運んできた。


 その響きは、刻一刻と迫り来るカラホム軍の進軍の銅鑼(どら)()を予感させる。


 不意に長政が、その震える手でレックの手首を掴んだ。


 その(てのひら)の温度は、異常なほどに熱い。


「軍師よ、よく聞け。奴らは拙者のこのざまを好機と見て、一気に畳みかけてくる。今度こそ、この町を跡形もなく灰にする気だ」


 激しく咳き込み、肩が大きく上下する。


 長政は気力を振り絞るように、レックの目を覗き込んだ。


「……“未来の世”のことは拙者には計りかねる。だが、お主はまぎれもなく、この“今の世”に命を賭けておる。……拙者が再びこの足で立つ時まで、全軍の指揮はお主に託す。よいか、頼むぞ」


 レックは、長政の熱い手を祈るように両手で握り返した。


 彼が再び陣頭に戻るまでの時間を、一秒でも長く稼ぎ出す。


 それが今の自分の、唯一の使命だ。


「……承知しました。それまでこの町は、私が守り抜きます」


「軍師殿、お主ならやれる……。頼んだぞ……」


 長政は荒い息を吐きながら、再び寝床へ深く沈み込んだ。


 レックは託された重責を胸に、ゆっくりと立ち上がった。


 床の間の隅、鎧棚(よろいだな)には「朱塗(しゅぬ)りの大鎧(おおよろい)」が掛けられている。


 幾度も戦場を駆けてきたその甲冑は、静かに“その時”を待っていた。



 長政の居室を出た廊下には、重松蔵人と、騎兵隊を率いる河村権兵衛が、数人の諸将と共に待ち構えていた。


 使い込まれた胴大丸の小札(こざね)が擦れる音が、板張りの回廊に硬く響く。


 男たちの視線は、レックの背後、長政が伏す奥室の闇に吸い寄せられていた。


「……長政様は」


 重松が問いかけた。


 刀の柄を握る指先が白く強張っている。


「今も、病魔と戦っておいでです。ご自身が戦場へ戻るまで、一歩も引くなとの仰せです」


 レックの言葉に、武将たちの間に微かな動揺が走った。


「長政殿は戦える御身(おんみ)ではない、ということか」


 河村権兵衛が苛立ちを隠さず、一歩踏み出した。


「カラホム軍の象部隊が水路を塞ぎ、歩兵はすでに南の防壁を越えようとしている。頭領の姿が見えねば兵の士気は持たぬぞ。この瀬戸際、誰が兵を束ねるというのだ」


「私が、指揮を()ります」


 レックは退かず、武将たちの視線を正面から受け止めた。


「長政様より、全軍の指揮権を預かりました。異論のある方は、今ここで私の首を()ね、好きになされるがよい!」


 静かな宣告に、回廊の空気が一変した。


 アユタヤで長政と共に歩み、同じ泥に塗れてきた男の、退路を断った覚悟がそこにあった。


 張り詰めた空気を切り裂くように、遠くからカラホム軍の銅鑼(どら)(かね)()が、夜風に乗って響いてくる。


 重松が、ゆっくりと膝を折った。


「……御意。軍師殿の指図に従おう。長政様の命とあらば、たとえ魔物であっても、(それがし)は付き従う」


 重松の言葉に、河村も、居並ぶ諸将も、苦渋を飲み込むように次々と頭を下げた。


 町会所の一室に据えられた円卓に、一枚の地図が広げられた。


 レックは言葉を選びながら、丁寧に戦闘方針を告げた。


「敵は我々の動揺を待っている。だが、水路の象部隊は雨季の増水で足元が脆い。そこを狙い撃つ。……私は、長政様が戦場へ戻られるまでの『(たて)』となります。敵に、山田長政が健在であると思い知らせるために」


 その時、夜空を引き裂くような轟音が響いた。


 建物全体が震え、円卓の上の地図が激しく揺れる。


 カラホム軍による総攻撃の号砲――大砲の初弾が、日本人町の外郭を容赦なく叩き潰したのだ。


「……では参る!」


 レックは短く告げ、砲煙が立ち昇る南の空へ向かって、暗い廊下を歩き出した……。


(つづく)

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