チャオプラヤと梅
カラホム軍の一次撤退から数日。
日本人町は、嵐の前の束の間の平穏に包まれていた。
折れた竹柵の修復や負傷者の手当てに追われる日々の中で、レックとハナがようやく二人きりになれたのは、昼間の熱気が和らぎ始めた夕暮れ時だった。
町外れの運河に突き出した、朽ちかけた桟橋。
レックは、手の甲に負った傷をハナに手当てされていた。
母、お滝から教わったという薬草の、青臭くも清涼感のある緑の汁を、ハナが指先で丁寧に塗り込んでいく。
「痛みますか、レック様」
ハナの指先は驚くほど優しく、そして微かに震えていた。
「……いや。ハナさんの手の方が、よっぽど温かいよ」
レックがそう言うと、ハナは夕映えの橙を写したように頬を赤らめ、視線を落とした。
ハナの照れた横顔を見た途端、レックの胸の奥で眠っていた孤独がふわりと揺れた。
自分はこの世界の住人ではない。
歴史の流れに逆らい、いつか消える存在かもしれない。
だが、この柔らかな髪の匂いや、指先の確かな温もりだけは、どんな教科書にも公文書にも記されていない、彼だけの真実だった。
「ねえ、レック様。戦いが終わったら、お母様と三人で、長政様が言っていた『遠い未来』の話、もっと聞かせてくださいね。レック様の故郷には、本当に夜を昼に変える魔法があるのでしょう?」
無邪気に問いかけるハナ。
レックは、彼女が思い描いていた「未来」が、まさに今、現実の中で崩れ始めていることを知っている。
「うん、ほかにも聞かせたいことはたくさんあるんだ……」
彼は、懐から大切に忍ばせていた布包みをそっと取り出した。
「……これ。戦が始まる前に渡したかったんだ。ずっと、出しそびれていて」
包みを解くと、梅の花を象った“かんざし”が現れた。
極彩色の地元の装飾品とは異なる、日本の早春を思わせる控えめな白梅の柄模様。
その白い模様が、夕暮れの中で淡く白光を放っているように見えた。
「これは……」
「梅という木の花だよ。厳しい冬に耐えて、春になると一番最初に咲くんだ。……再会や、希望の象徴なんだよ」
「そうなんだ……梅の花」
「ハナは、日本、いや、日ノ本の国には行ったことがないの?」
「私はここアユタヤで生まれたから……。でも、一度は行ってみたい。お父様とお母様が生まれた国の景色を、この眼で見てみたいです」
ハナは、かんざしを宝物のように両手で包み込み、そっと自分の髪に挿した。
「似合いますか?」
「ああ。この世で一番似合っている。約束するよ、いつか、君に全部見せてあげたい。……たとえ私がいなくなっても、君がその光の中にいられるように」
「……大切にします。あなたが言った『冬』が終わるまで。そして、この花が咲く『春』からも、私はあなたの道標となります」
不安げに見上げるハナを、レックは優しく微笑み、そっと引き寄せた。
運河を渡る風が二人の髪を揺らし、水面には黄金色の夕映えが波打っている。
二人の間には、この瞬間のために生きてきたのだという、脆くも美しい確信が芽生えていた。
永遠に続くかと思われた甘い一時は、わずか数秒で幕を閉じた。
町の南、静かな田畑を突っ切ってくる、馬蹄の響きが二人の世界を粉々に砕いた。
「レック軍師殿! おハナ様っ!」
張り詰めた声で叫びながら、重松蔵人が落馬せんばかりの勢いで桟橋へ突っ込んできた。
顔を強張らせ震える声を上げた。
「長政様が……! リゴールの傷が膿み、熱に魘されておいでだ! 早く、早くお屋敷へ!」
*
駆け戻った長政の居室は、さっきまでの穏やかな時間が嘘のように、重苦しい湿気に満ちていた。
開け放たれた襖から、咽るような薬草の匂いと、傷口を清める強い酒の匂いが漏れてくる。
特別に召し出されたポルトガル人の医師が、沈痛な面持ちで白い包帯を手に取っていた。
「……長政様!」
レックの呼びかけに、寝床の主がわずかに肩を揺らす。
「長政様、どうかそのまま」
ハナの気遣う声が、震えを帯びていた。
アユタヤ日本人義勇隊を率いた威風堂々たる骨格は、薄い麻の肌着の下でひと回り小さく見える。
リゴールで受けた毒矢の痕は、今なお熱を帯び、主の命をじわじわと蝕み続けていた。
「……遅いぞ、軍師殿。拙者は少し、身体が火照っただけだ」
長政は、ひび割れた唇を歪めて不敵に笑った。
「熱が引かない。毒が全身にまで回っている。……並の男なら、疾に事切れていてもおかしくはない」
青い目の医師が、感嘆とも諦めともつかぬ吐息をつき、長政の額に湿った布を当てがう。
アユタヤの空に雨季が近づき、唸るような遠雷を運んできた。
その響きは、刻一刻と迫り来るカラホム軍の進軍の銅鑼の音を予感させる。
不意に長政が、その震える手でレックの手首を掴んだ。
その掌の温度は、異常なほどに熱い。
「軍師よ、よく聞け。奴らは拙者のこのざまを好機と見て、一気に畳みかけてくる。今度こそ、この町を跡形もなく灰にする気だ」
激しく咳き込み、肩が大きく上下する。
長政は気力を振り絞るように、レックの目を覗き込んだ。
「……“未来の世”のことは拙者には計りかねる。だが、お主はまぎれもなく、この“今の世”に命を賭けておる。……拙者が再びこの足で立つ時まで、全軍の指揮はお主に託す。よいか、頼むぞ」
レックは、長政の熱い手を祈るように両手で握り返した。
彼が再び陣頭に戻るまでの時間を、一秒でも長く稼ぎ出す。
それが今の自分の、唯一の使命だ。
「……承知しました。それまでこの町は、私が守り抜きます」
「軍師殿、お主ならやれる……。頼んだぞ……」
長政は荒い息を吐きながら、再び寝床へ深く沈み込んだ。
レックは託された重責を胸に、ゆっくりと立ち上がった。
床の間の隅、鎧棚には「朱塗りの大鎧」が掛けられている。
幾度も戦場を駆けてきたその甲冑は、静かに“その時”を待っていた。
*
長政の居室を出た廊下には、重松蔵人と、騎兵隊を率いる河村権兵衛が、数人の諸将と共に待ち構えていた。
使い込まれた胴大丸の小札が擦れる音が、板張りの回廊に硬く響く。
男たちの視線は、レックの背後、長政が伏す奥室の闇に吸い寄せられていた。
「……長政様は」
重松が問いかけた。
刀の柄を握る指先が白く強張っている。
「今も、病魔と戦っておいでです。ご自身が戦場へ戻るまで、一歩も引くなとの仰せです」
レックの言葉に、武将たちの間に微かな動揺が走った。
「長政殿は戦える御身ではない、ということか」
河村権兵衛が苛立ちを隠さず、一歩踏み出した。
「カラホム軍の象部隊が水路を塞ぎ、歩兵はすでに南の防壁を越えようとしている。頭領の姿が見えねば兵の士気は持たぬぞ。この瀬戸際、誰が兵を束ねるというのだ」
「私が、指揮を執ります」
レックは退かず、武将たちの視線を正面から受け止めた。
「長政様より、全軍の指揮権を預かりました。異論のある方は、今ここで私の首を刎ね、好きになされるがよい!」
静かな宣告に、回廊の空気が一変した。
アユタヤで長政と共に歩み、同じ泥に塗れてきた男の、退路を断った覚悟がそこにあった。
張り詰めた空気を切り裂くように、遠くからカラホム軍の銅鑼と鐘の音が、夜風に乗って響いてくる。
重松が、ゆっくりと膝を折った。
「……御意。軍師殿の指図に従おう。長政様の命とあらば、たとえ魔物であっても、某は付き従う」
重松の言葉に、河村も、居並ぶ諸将も、苦渋を飲み込むように次々と頭を下げた。
町会所の一室に据えられた円卓に、一枚の地図が広げられた。
レックは言葉を選びながら、丁寧に戦闘方針を告げた。
「敵は我々の動揺を待っている。だが、水路の象部隊は雨季の増水で足元が脆い。そこを狙い撃つ。……私は、長政様が戦場へ戻られるまでの『盾』となります。敵に、山田長政が健在であると思い知らせるために」
その時、夜空を引き裂くような轟音が響いた。
建物全体が震え、円卓の上の地図が激しく揺れる。
カラホム軍による総攻撃の号砲――大砲の初弾が、日本人町の外郭を容赦なく叩き潰したのだ。
「……では参る!」
レックは短く告げ、砲煙が立ち昇る南の空へ向かって、暗い廊下を歩き出した……。
(つづく)




