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『サヤームの鈴 ―日本人義勇隊の軍師になった男―』四百年前のアユタヤ王朝、君に渡せなかった鈴が今、歴史の彼方から鳴り響く~  作者: 十夢矢夢君ーとむやむくんー
第九章 アユタヤ燃ゆ、前夜

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日本人町のバリケード

 現在のタイ南部、ナコンシータマラート県。


 バンコクから南へ約八百キロ。


 現在なら国内線の飛行機で一時間強も飛べば、タイ南部最大の都市ハジャイに次ぐ、緑豊かな土地に降り立つことができる。


 レックにとっても、そこは馴染(なじ)みのある土地だった。


 従兄妹(いとこ)がタイ人の夫と結婚して移り住み、現地で有名な「カノムジン(激辛グリーンカレーをかけて食べる米麺料理)」の店を開いていたからだ。


 真っ白な麺の上に、薄緑のカレーと山盛りの生野菜。


 SNSで「タイ南部で最も美味しいカノムジン」と拡散され、地元民や観光客で行列ができる繁盛店。


 レックもかつてその店のテラスで、南国の穏やかな風に吹かれながら、従兄妹の幸せを祝ったことがあった。


 だが、十七世紀の「リゴール」は、そんな平穏な観光地ではなかった。

 

 そこは王都アユタヤの支配が及ばない「火薬庫」だ。


 マレー半島南部のパタニ王国と国境を接し、イスラム教徒による大規模な反乱と越境の脅威にさらされている最前線。

 

 そしてレックは、歴史の文献に刻まれた冷酷な事実を知っている。

 

 山田長政はリゴールへ送られ、戦いで負傷し、その傷口に塗られた毒によって命を落とす――。


 カラホムにとって、長政をリゴール領主(りょうしゅ)に封じることは、栄転などではなく、体よく「死地」へ追放することに他ならなかった。


 いま、レックが知る「現代」と、彼が立たされている「過去」が、リゴールという地名を境界にして激しく火花を散らし始めた。


 時は、合戦の場へと飛ぶ。


 朝霧のリゴールの平原を埋め尽くす、パタニ国の軍勢は七万。


 その軍容は、大地そのものが(うごめ)いているかのようだった。


 先陣には百頭を超える戦象(せんぞう)が並び、背後の矢倉からは弓兵(きゅうへい)が鋭い弦の音を響かせている。


 象の皮膚は(よろい)のように厚く、その巨大な足一本で大人三人を容易に踏み潰す。

 

 小高い丘の古い要塞(ようさい)跡に陣を張り、馬上の長政は、日本の合戦とは全く異なる光景に戦慄を覚えた。

 

 そして、(はや)る心を押し殺し冷静に号令を放った。


「よーし、鉄砲隊、前へ!」


 いっせいに火縄に火が入る、乾いた音がした。

 

 一方、日本人義勇隊隊四千、シャム軍六千、現地軍五万が加わり、総勢六万の軍。


 日本人の多くは関ヶ原の敗将に従い、あるいは大坂城が落城する夜に逃げ堕ちた、謂わば“落武者(おちむしゃ)”たちだ。


 彼らに迷いはない—


 ただ敵を殺し、生き残ることだけを信条とする。


「撃ち方用意、放て!」


 最初の斉射(せいしゃ)が朝霧を真っ二つに割った。


 弾の破裂音と共に硝煙(しょうえん)が上がり、先頭の戦象が狂ったような咆哮を上げてたじろいだ。


 敵兵が怖気(おじけ)づく隙を、義勇隊は見逃さない。


「突っ込め!」


 角倉友助が、数人の部下と共に要塞の斜面を滑るように駆け下りた。


 角倉の手には、返り血を吸い込んで赤黒く光る大身槍(おおみやり)がある。


 彼は突進してくる象の巨体の脇を紙一重でかわすと、その強靭な足の関節を、槍の石突(いしづき)で力任せに打ち据えた。


「おりゃぁああ!」


 巨象の膝を突く―。


 その瞬間、角倉は象の背の矢倉へ飛び乗り、混乱するパタニ軍の弓兵を槍の穂先で()ぎ払った。

 

 地上では、日本人部隊が象の鼻を刀で切り裂き、鼻先から噴き出す鮮血で土面が赤く染まる。

 

 パタニー兵がその凄惨な白兵戦に戦々恐々とする中、長政自身も馬を飛ばし、数人の兵の首を馬上から斬り去った。

 

 そして、丘の中腹に陣取った鉄砲隊に檄を飛ばし、敵の将が乗る最高位の象を一斉射撃で止めを刺した。

 

 遂に、七日目の夜明け、最後の将をパクパナン川の支流に追い詰め、その首を討ち取った。

 

 勝機が見えたその瞬間、長政は右足に奇妙な熱を感じた。


 視線を落とすと、膝の下に一本の矢が深く突き刺さっている。


 いつ射られたのか、自覚すらなかった。


 アドレナリンが引いていくと共に、激痛が津波のように押し寄せる。

 

「敵は後退した! 勝鬨(かちどき)だ!」


 長政は叫んだが、その瞳は北方の空を見つめていた。

 

 数日前、アユタヤから届いた密使の(しら)せが、心を凍らせていたからだ。


『アーティタヤウォン新王、カラホムの手により処刑さる』


 恩義ある主君から託された幼い王子が、もうこの世にいない。


 カラホムの狙いは最初から、この厄介な武力をリゴールに釘付けにし、その間に王位を盗むことだった。


 長政が勝てばパタニの脅威が消え、負ければ長政が消える。


 どちらに転んでもカラホムにとっては「勝ち」の博打(ばくち)だったのだ。


「ぬうっ……!」


 長政は折れた矢を自ら掴み、歯を食いしばって一気に引き抜いた。


 噴き出した鮮血が南国の乾いた土を汚す。


 血に濡れた手で刀の柄を握り直したが、その傷口の痛みは、単なる外傷を超えた不吉な疼きを帯びていた。


「戻らねば……今すぐに……軍師殿のいるアユタヤへ」



 同じ頃、アユタヤ日本人町。


 町の中心部、重い静寂に包まれた町会所(まちがいしょ)の広間には、リゴールへ出征(しゅっせい)せず町に残った老武士や、多額の軍費を提供した商人たちが顔を揃えていた。


 その中心に、レックがいた。


 彼は広げられた地図の上に、小石と木箸を淡々と並べていく。


「町の入口にあるジャスミンの木、あれをすべて切り倒してバリケードにします、えーと、防塞(ぼうさい)のことです。運河沿いには逆茂木(さかもぎ)を。それと、敵の騎馬兵が踏み込む場所にはあらかじめ油を()き、いつでも火を放てる準備をしてください」


 レックが語るのは、かつて日本の戦国時代の武将の野戦築城の術だった。


 しかし、それは“今”の時間から言えば、僅か八十年ほど前の出来事ではあったが。


 集まった長老たちは、当初は若造の放言と侮っていたが、レックが語る「敵の侵攻ルート」と「死角の作り方」の理路整然とした説明に、次第に身を乗り出していった。


 その傍らで、お滝は娘のハナと並び、レックの横顔をじっと見つめていた。


 つい先日、雨の中で鯰を獲っていた青年とは打って変わり、居並ぶ歴戦の老いた男たちを言葉一つで黙らせ、戦場を俯瞰(ふかん)しているレックの眼差しは、まさしく長政が全幅の信頼を寄せた“軍師”そのものだった。


(大したもんだね……。この子の頭の中には一体、いくつの兵法(へいほう)が詰まっているんだい)


 お滝は、その頼もしさに目を見張っていた。


「レック殿、だが相手は大砲も持ち出してくる。その、“ばりけぇど”って、いや、その、木の柵だけで防げるのか?」


 一人の老武士が訊いた。


 レックは手のひらを斜めに動かし、躊躇(ちゅうちょ)なく答える。


「防ぐのではありません。大砲の射線(しゃせん)をこのように変えさせるんです。カラホムの軍勢が『ここを通れば楽に攻め落とせる』と思い込む道こそが、我らが用意した落とし穴になります」


 レックの言葉には、確信に基づいた自信があった。


 町会所の広場を通り抜ける夜風が、ジャスミンの香りをさらっていく。


 それは静かに研ぎ澄まされた刃のように、集まった者たちの頬をかすめて行った……。


(つづく) 

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