表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『サヤームの鈴 ―日本人義勇隊の軍師になった男―』四百年前のアユタヤ王朝、君に渡せなかった鈴が今、歴史の彼方から鳴り響く~  作者: 十夢矢夢君ーとむやむくんー
第八章 迫り来る黒雲

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

23/37

血に染まる王冠

 サーンペット・プラーサート宮の黄金の床には、どれほど磨き上げても拭いきれない、生臭い血の匂い漂っていた。


 回廊には白檀(びゃくだん)香煙(こうえん)が立ち込めていたが、それがかえって血の粛清(しゅくせい)の跡を際立たせている。


 先王ソンタムの弟、シーシン親王を支持した高官たちの首が次々と()ねられ、挙兵した親王軍との凄惨な身内同士の殺し合いも、ようやく幕を下ろしたばかりだ。


 泥沼の戦況を強引に終わらせたのは、長政率いる日本人軍団が放った、容赦のない鉄砲の斉射だった。


 だが、王都を血で洗って守り抜いたはずの、若きチェーター王は今やこの世にいない。


 王宮の回廊、雨季の到来を告げる雷鳴が、遠く近くで小さく響いている。


「長政さま、やりきれませんね、先王の長子チェーター王まで()き者にするとは……」


 レックは隣に立つ長政に嘆き声を漏らした。


「先王への義理を果たすために、我らはあの十五歳のチェーター新王を守った。なのに、結局はあいつの思い通りだ」


 長政は無言で、(にわ)かに陰りを落とす、庭の生い茂った緑を見つめていた。


 黄金の柱についた、乾いた血飛沫の跡が、薄暗い雷光に照らされてどす黒く浮かび上がった。


 シーウォラウォンは長政と同じ、宮廷の最高官位のオークヤー・カラホムを冠し、自らをアーティッタヤウォン新王の「摂政(せっしょう)」となった。


 救い出したはずのチェーター王を酒と女で骨抜きにし、民の心が離れるのを待ってから、軍司令官カパインに「お前が次の王になれ」と(ささや)(そそのか)した。


 カパインが王宮を占拠してチェーター新王を処刑すると、カラホムは即座に「主君殺しの逆賊」としてカパインを処刑台に送った。


 すべては、カラホムが王位を簒奪(さんだつ)するための一人芝居だった。



 二人の前に、音もなくカラホムが姿を現した。


 その足音は、湿った石畳を這う蛇のように不気味だった。


「セーナー・ピムック・ナガマサ殿。貴殿ら日ノ本の者どもの武勇、まことに天晴(あっぱ)れであった」


 カラホムは、十歳になったばかりのソンタム王の次男、アーティッタヤウォン王が震えながら座る玉座の横で、冷たく微笑んだ。


 幼王が掲げた金の冠は、立ち込める暗雲とは対照的に眩しく輝いていた。


 広間を支配するのは、祝祭の歓声ではなく、冷たく殺伐(さつばつ)とした沈黙だ。


 ただ、(かんむり)の宝石が触れ合う「チリッ」という微かな金属音だけが、レックの鼓動を揺さぶった。


「アーティッタヤウォン新王は、その功績に対し、貴殿を南方の要衝リゴール(六昆)の知事に任じられた。早々に全軍を率いて出陣し、この国の憂いを取り除いてもらいたい」


 リゴール王。


 アユタヤから遠く離れた南の地。


 それは名誉という名の、重い呪縛(じゅばく)だった。


 リゴール―そこは内戦と南のパタニー国の回教(イスラム)軍の侵攻に荒れる土地。


 そこへ追いやられれば、当分の間、アユタヤの地を踏むことは許されない。


 長政は、その冠の重みに押し潰されるように深く頭を下げた。


 レックは、長政の(こぶし)が白くなるほど握りしめられているのを目にした。


 自分が書き換えたはずの歴史が、恐ろしいほどの修正力で、本来の史実へと(かえ)ろうとしている。


 長政の、先王への恩義と子への忠義。


 カラホムは、その長政の「忠義」という急所を卑劣(ひれつ)に利用したのだ。



 チャオプラヤ河の船着き場。


 降り出した雨が容赦なく土面を叩きつけ、泥水を激しく跳ね上げた。


 長政は軍船の舷梯(タラップ)に歩を進め、レックの手を強く取った。


「レック殿、あとは貴殿に任せたぞ!」


 レックは長政の手を、まるで引き留めるかのように両手で握り返した。


「長政さん、本当に行くんですか! 行ってはだめです。カラホムはあなたを追い出して、我が町を焼き、そしてあの幼いアーティッタヤウォン王を殺す気ですよ!」


「わかっておる、レック殿。私がいなくなれば、すべてはあの男の掌の上だ。……だが、あいつには一つだけ、読み切れないものがある」


 長政は、雨に濡れた手をレックの肩へ、楔を打ち込むように置いた。


「読み切れないもの……?」


「そうだ、貴殿だ。カラホムは『今』を奪うことしか頭にないが、貴殿だけは、まだ来ぬはずの『先』を見ている。奴の謀略図に貴殿の知恵は入っていない」


 長政の瞳に、濁りのない光が宿る。


「頼んだぞ。奴の喉元に、その“知恵”を深く突き立ててやればよかろう」


 長政は諭すように言った。


(あなたは、死んではならない人だ……)


 レックの脳裏に、あの時の白い病室の静寂が蘇った。

 

 有希を失う直前、物言わぬ彼女の顔に向かって、心の奥底から叫んだ言葉。


 それが今、時空を超えて全く同じ祈りとなって溢れ出していた。


「長政殿・・・・長政さん!」


 長政が(まと)漆塗(うるしぬ)りの具足が、雨を弾いて鈍い黒光りを放っていた。


 軍船がゆっくりと岸を離れ、長政の背中が雨の帳の向こうへ消えていく。


 レックは、遠ざかる船影が霞んで見えなくなるまで立ち尽くしていた。


 未練を断ち切れないまま、レックは踵を返した。


 雨脚に煙る日本人町の入り口に、槍を手にした黒装束の兵たちが見え隠れする。


 守護神・長政が去った町を、カラホムの手先の兵が、静かに包囲の網を絞り始めていた。 


(つづく)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ