血に染まる王冠
サーンペット・プラーサート宮の黄金の床には、どれほど磨き上げても拭いきれない、生臭い血の匂い漂っていた。
回廊には白檀の香煙が立ち込めていたが、それがかえって血の粛清の跡を際立たせている。
先王ソンタムの弟、シーシン親王を支持した高官たちの首が次々と撥ねられ、挙兵した親王軍との凄惨な身内同士の殺し合いも、ようやく幕を下ろしたばかりだ。
泥沼の戦況を強引に終わらせたのは、長政率いる日本人軍団が放った、容赦のない鉄砲の斉射だった。
だが、王都を血で洗って守り抜いたはずの、若きチェーター王は今やこの世にいない。
王宮の回廊、雨季の到来を告げる雷鳴が、遠く近くで小さく響いている。
「長政さま、やりきれませんね、先王の長子チェーター王まで亡き者にするとは……」
レックは隣に立つ長政に嘆き声を漏らした。
「先王への義理を果たすために、我らはあの十五歳のチェーター新王を守った。なのに、結局はあいつの思い通りだ」
長政は無言で、俄かに陰りを落とす、庭の生い茂った緑を見つめていた。
黄金の柱についた、乾いた血飛沫の跡が、薄暗い雷光に照らされてどす黒く浮かび上がった。
シーウォラウォンは長政と同じ、宮廷の最高官位のオークヤー・カラホムを冠し、自らをアーティッタヤウォン新王の「摂政」となった。
救い出したはずのチェーター王を酒と女で骨抜きにし、民の心が離れるのを待ってから、軍司令官カパインに「お前が次の王になれ」と囁き唆した。
カパインが王宮を占拠してチェーター新王を処刑すると、カラホムは即座に「主君殺しの逆賊」としてカパインを処刑台に送った。
すべては、カラホムが王位を簒奪するための一人芝居だった。
二人の前に、音もなくカラホムが姿を現した。
その足音は、湿った石畳を這う蛇のように不気味だった。
「セーナー・ピムック・ナガマサ殿。貴殿ら日ノ本の者どもの武勇、まことに天晴れであった」
カラホムは、十歳になったばかりのソンタム王の次男、アーティッタヤウォン王が震えながら座る玉座の横で、冷たく微笑んだ。
幼王が掲げた金の冠は、立ち込める暗雲とは対照的に眩しく輝いていた。
広間を支配するのは、祝祭の歓声ではなく、冷たく殺伐とした沈黙だ。
ただ、冠の宝石が触れ合う「チリッ」という微かな金属音だけが、レックの鼓動を揺さぶった。
「アーティッタヤウォン新王は、その功績に対し、貴殿を南方の要衝リゴールの知事に任じられた。早々に全軍を率いて出陣し、この国の憂いを取り除いてもらいたい」
リゴール王。
アユタヤから遠く離れた南の地。
それは名誉という名の、重い呪縛だった。
リゴール―そこは内戦と南のパタニー国の回教軍の侵攻に荒れる土地。
そこへ追いやられれば、当分の間、アユタヤの地を踏むことは許されない。
長政は、その冠の重みに押し潰されるように深く頭を下げた。
レックは、長政の拳が白くなるほど握りしめられているのを目にした。
自分が書き換えたはずの歴史が、恐ろしいほどの修正力で、本来の史実へと還ろうとしている。
長政の、先王への恩義と子への忠義。
カラホムは、その長政の「忠義」という急所を卑劣に利用したのだ。
*
チャオプラヤ河の船着き場。
降り出した雨が容赦なく土面を叩きつけ、泥水を激しく跳ね上げた。
長政は軍船の舷梯に歩を進め、レックの手を強く取った。
「レック殿、あとは貴殿に任せたぞ!」
レックは長政の手を、まるで引き留めるかのように両手で握り返した。
「長政さん、本当に行くんですか! 行ってはだめです。カラホムはあなたを追い出して、我が町を焼き、そしてあの幼いアーティッタヤウォン王を殺す気ですよ!」
「わかっておる、レック殿。私がいなくなれば、すべてはあの男の掌の上だ。……だが、あいつには一つだけ、読み切れないものがある」
長政は、雨に濡れた手をレックの肩へ、楔を打ち込むように置いた。
「読み切れないもの……?」
「そうだ、貴殿だ。カラホムは『今』を奪うことしか頭にないが、貴殿だけは、まだ来ぬはずの『先』を見ている。奴の謀略図に貴殿の知恵は入っていない」
長政の瞳に、濁りのない光が宿る。
「頼んだぞ。奴の喉元に、その“知恵”を深く突き立ててやればよかろう」
長政は諭すように言った。
(あなたは、死んではならない人だ……)
レックの脳裏に、あの時の白い病室の静寂が蘇った。
有希を失う直前、物言わぬ彼女の顔に向かって、心の奥底から叫んだ言葉。
それが今、時空を超えて全く同じ祈りとなって溢れ出していた。
「長政殿・・・・長政さん!」
長政が纏う漆塗りの具足が、雨を弾いて鈍い黒光りを放っていた。
軍船がゆっくりと岸を離れ、長政の背中が雨の帳の向こうへ消えていく。
レックは、遠ざかる船影が霞んで見えなくなるまで立ち尽くしていた。
未練を断ち切れないまま、レックは踵を返した。
雨脚に煙る日本人町の入り口に、槍を手にした黒装束の兵たちが見え隠れする。
守護神・長政が去った町を、カラホムの手先の兵が、静かに包囲の網を絞り始めていた。
(つづく)




