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『サヤームの鈴 ―日本人義勇隊の軍師になった男―』四百年前のアユタヤ王朝、君に渡せなかった鈴が今、歴史の彼方から鳴り響く~  作者: 十夢矢夢君ーとむやむくんー
第六章 すれ違う鈴

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祝祭の宴

 オランダ商館が三日を待たずして撤退を開始したという報は、瞬く間に日本人町へ広まった。


 町は、祭りのような喧騒に包まれていた。


 通りにはどこから運んできたのか酒樽が幾つも並べられ、町の人々や、義勇隊の武士たちは高笑いを上げながら、溢れる酒を盃に受けていた。


 彼らにとって、レックは言葉だけで異国の軍勢を追い払った英雄であり、奇跡をもたらした“軍師”として称賛された。


「レック殿、一杯どうだ! おぬしがいなけりゃ、今頃この町はオランダの火砲で瓦礫(がれき)の山だったぞ」


 屈強な男たちに代わる代わる肩を叩かれ、何度も酒を勧められる。


 だが、レックの喉を通る酒には、陶酔(どうすい)昂揚(こうよう)もなかった。


 称賛の言葉が飛んでくるたびに、自分が犯した歴史改変の代償が、じわじわと胃の奥を()く。


 レックは独り、喧騒を離れて町の端にある船着き場へと足を向けた。


 祝祭の篝火(かがりび)が、遠く背後でパチパチとはぜる音を立てている。


 その光が届かない闇の向こう側、チャオプラヤ河の対岸に広がる暗い茂みに目を凝らした。


 ――誰かがいる。


 それは、単なる気配ではなかった。


 湿り気を帯びた夜気の中に、針のように鋭い視線が混じっている。


 シーウォラウォンが放った監視か、あるいは気を(うかが)う刺客か。


 オランダという盾を自らの手で排除したことで、日本人町はアユタヤの王朝中枢において、突出した武力勢力として恐れられる存在となった。


 自分の知恵が、自分たちの首を絞める準備を整えてしまった事実に、鋭い寒気が背筋を走った。


 不意に、背後で枯れ草を踏む音がした。


 反射的に身を固くし、懐の短刀へ手をかけようとしたその時、聞き慣れた声が届いた。


「レックさん、ここにいらしたのですね」


 ハナだった。


 彼女は町の騒ぎを避けるように、小さな包みを大事そうに抱えて立っていた。


 レックは息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を抜いて表情を緩めた。


「皆が探していますよ。……日本人町を救った“軍師”さまが、こんな暗がりにいらっしゃるなんて」


「“軍師”などではないですよ。僕は、いや、拙者はただ、嫌な予感を形にしただけですよ」


 自称が「僕」から「拙者」へと滑り落ちたことに、自分でも戸惑いを覚えた。


 この時代の空気に馴染(なじ)もうとする本能か、それとも現代の自分を捨て去ろうとする覚悟か……。


「相変わらず、いつも難しいことばかりおっしゃる」


 ハナは着物の袖で口元を隠して笑った。


 出会った頃の警戒心が薄れ、彼女の言葉遣いは日を追うごとに丁寧になり、尊敬の念が混じるようになっていた。


 彼女にとっても、レックの存在は、もはや海を越えてきた迷い人ではなく、この過酷な乱世を切り拓く導き手となっていた。


 ハナはレックの隣に腰を下ろすと、抱えていた包みを解いた。


 中からは、まだ微かな温もりを帯びた握り飯が現れた。


「これ、まだ何も召し上がっていないでしょう。少し、塩気が足りないかもしれませんが…」


 差し出された“おにぎり”を、レックは受け取った。


 米の甘みと、少し強めに効かされた塩昆布の味。


 それは、二十一世紀のコンビニで買える無機質な味とは違う、人の手で握った生身の味だった。


 横に座るハナの横顔を見る。


 篝火の遠い光を反射して、彼女の瞳の中で小さな火が揺れていた。


(……ああ、そうか)


 レックの中で、一つの実感が湧いてきた。


 なぜ自分は、歴史を改め、さらに王位簒奪(さんだつ)を企むシーウォラウォンに“敵視”されてまで、この日本人町を守ろうとしたのか。


 未来を正すためでも、自らが歴史に名を残そうと思ったわけでもなかった。


 ただ、この隣にいる女性の、飯を握るその指先を、非業(ひごう)の血で染めたくなかっただけだ。


 彼女の(つつ)ましい日常が、戦火に踏みにじられるのを、ただ見過ごすことだけはできない。


 「現代」で亡くした最愛の女性、有希の面影を重ねる必要はもうないのだと悟った。


 今、隣にいるハナの体温を感じることで、レックしようやく、この「一六二八年」という過去の“現代”を生きていることを自覚した。


 それは執着であり、同時に初めて抱く、この時代に生きる女への、紛れもない恋心だった。


 だが、ハナを愛おしいと想えば想うほど、彼女が自分の隣にいることの危うさに、レックの指先が微かに震える。


 闇に潜む「()」は、今も自分たちを逃さず捉えているはずだ。


「レックさん?どうかしましたか?」


 不思議そうに覗き込むハナの頬に、篝火の影が揺れた。


 その柔らかな頬に、有希と同じ位置に小さな笑窪が浮かんでいる。


 張り詰めた心が僅かに穏やかになる一瞬。


「……ハナ。その君の笑窪、私の故郷では『幸せの賽銭箱(さいせんばこ)』って呼ばれているんだ」


「賽銭箱……?」


「そう。そこに今のこの時間を投げ入れたよ。これでもう、みんな幸せになれる」


 ハナは一瞬、きょとんとした顔をしたあと、可笑しそうに鼻先を鳴らして笑った。


「また、そうやって子供をからかうようなことを、ふふふ」


 有希も、レックがくだらない冗談を言うと、そうやって少しだけ鼻を膨らませて笑ったものだ。


 冗談を交わし合う数秒間だけ、夜の重さに一つ灯りがともる。


 レックは精一杯の微笑みを彼女に返し、手元の握り飯をもう一度頬張った。


「本当に、美味しいよ。ありがとう、ハナ」


 レックはふと、懐の鈴が肌に触れた。


 何の反応も見せない、ただの真鍮(しんちゅう)の塊。


 歴史をこれほど大きく(いが)めたというのに、未だ沈黙を守っている。


 掌に感じるその微かな重みは、有希と過ごした、あの楽しかった“未来”には戻れないことを、淡々と突きつけてくるだけだった。


 懐の鈴をなぞる指を離し、レックは隣で微笑んでいるハナを見つめた。


 (上等だ……)


 未来を告げる鈴が鳴らないのなら、この時代の激流の中で生き抜くまでだ。


 その時、対岸の茂みから一羽の夜鳥が勢いよく飛び立った……。


(第七章へつづく)

第六章「すれ違う鈴」では、ソンタム王の崩御を契機に、アユタヤ王国の均衡が一気に崩れ、レックと長政がシーウォラウォンの策略に巻き込まれていく姿が描かれました。レックは未来の知識を武器に「偽書」を仕掛け、オランダ商館を撤退へ追い込むという大胆な歴史改変を成功させます。しかしその勝利は、同時に日本人町を突出した武力勢力として孤立させ、さらなる危機を呼び込む結果となりました。老兵・又左衛門の退場と「リゴール派遣」という種は、長政の運命を決定づける伏線として重く響きます。そして、ハナとの静かな交流の中で芽生える恋心は、レックがこの時代を「生きる」覚悟を固める瞬間でもありました。第六章は、勝利と改変の代償、そして人間的な絆の芽生えを同時に描いた重要な転換点です。

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