絶対に振り返らないで
「絶対に振り返らないで!」
彼女は言った。
「ど、どうして?」
「今こっち見たら私、死ぬから」
「え!?」
「だから、絶対にこっち向かないで!」
「は、はい!」
僕は彼女の勢いに押されて答える。そして、絶対に彼女を見ないようにする。
「あの、でも、なんで?」
「なんでも!」
彼女の声には威圧感がある。
「え、これって、もしかして……」
僕は思わず呟いてしまう。
「なに?」
「う、ううん。なんでもない」
言葉にすると怖くなってしまうと思って、僕は口から出そうになった言葉を飲み込んだ。
こういうやりとりは聞いたことがある。神話などでよくある話だ。振り返ったらその瞬間に、死から取り戻せるはずだった最愛の妻が死体に戻ってしまって、もう二度と会えなくなるとか。とにかく、そういう系のやつだ。
だけど、今はなんとなくその人(神?)たちの気持ちがわかる。
振り向くなと言われると、振り向いてしまいたくなる。ダメだダメだと言われると、なにがあるのかと気になって、不安になって見てしまいたくなる。
僕がそわそわしていると、彼女もそれに気付いたらしい。
「絶対ダメだからね! 振り返ったら別れるから! もう、会えなくなるんだから!」
「そ、それは困る!!」
彼女がもう一度叫んで、僕はあわあわとそれに答える。
ずっとずっと片思いで、ようやく付き合い始めたばかりの彼女だ。別れるなんて、会えなくなるなんて絶対に嫌だ。
神話では我慢できなくて振り向いてしまったばかりに、辛い結末が待っていた。だから、僕は絶対に振り向かない。振り向いてしまいそうになるけれど、我慢だ。
「ううう……」
振り向いてしまいたくなる誘惑に耐えながら、僕はさっきまで彼女と一緒に寝ていたベッドの掛け布団にくるまった。こうすれば、彼女を見なくて済む。
それから、どれだけの時間が経ったのか、
「よし、もうこっち見ていいよ」
彼女が言った。
僕はバッとベッドから起き上がる。
ようやく見ても大丈夫になったらしい彼女は、
「おはよう」
バッチリとメイクを決めて僕に笑いかけていた。
「え、ええと、おはよう。どうして見ちゃいけなかったの?」
僕が言うと、
「そんなの、すっぴんだったからに決まってるでしょ! 素顔見られるの恥ずかしいし……」
恥ずかしそうに彼女は答えた。
「そんなの全然いいのに!」
「よくない!」
「は、はい」
さっきまでの心配はなんだったのだろうと、思いながら僕は彼女の迫力に再び押さてベッドの上で正座する。でもよかった。彼女と別れたり、二度と会えなくなったり、なんていう話じゃなかったみたいだ。
すっぴんだろうが、メイクバッチリだろうが、さっきの僕の不安に比べたらどっちでもいいと思う。
だけど、
「だって、私すっぴんに自信ないし……。きっと、幻滅すると思うし……」
彼女にとってはそっちの方が大問題のようで、声がか細くなっている。
でも実は、僕はもう彼女の素顔を知っている。さっき、彼女より少し前に起きて、その可愛い寝顔を見てしまっている。その顔があまりにも可愛すぎて幸せすぎて、彼女を抱きしめてもう一度眠ってしまったから、彼女は僕が素顔をまだ見ていないと思っているだけだ。
「だから! 私より先に起きちゃダメなんだからねっ!」
「う、うん」
それでも、今はまだ素顔を見てしまったことは言わない方がよさそうだ。
彼女は素顔のままでもとてもとても可愛いと、僕は思うんだけど。




