夜明け前の約束
人は、誰かを失った瞬間に強くなるわけじゃない。
ただ、昨日まで当たり前だった声や仕草が、もう戻らないと知るだけだ。
それでも朝は来る。
海は変わらず波を打ち、空は何事もなかったように明るくなる。
失ったものは戻らない。
けれど、残されたものは確かに、次の誰かを照らす光になる。
これは、別れの物語であり、
同時に、生き続けることを選んだ人の物語である。
町外れの小さな港に、毎朝同じ時間に灯りがともる家があった。
少年・日向は、そこで祖父と二人で暮らしていた。
祖父はもう高齢で、足も悪かった。それでも毎朝、日向が起きる前に窓を開け、海の様子を確かめるのが日課だった。
「今日も穏やかだな」
その一言を聞くのが、日向は好きだった。
両親は数年前、海の事故で帰らぬ人となった。
日向はそのことを、あまり口にしなかった。悲しみは、言葉にすると胸が苦しくなってしまうから。
ある冬の朝、祖父は起きてこなかった。
静かすぎる家の中で、日向は胸の奥が冷たくなるのを感じた。
医者は言った。
「よく頑張りましたよ」
葬儀のあと、日向は一人で港へ行った。夜明け前の海は暗く、冷たく、怖かった。
それでも祖父が毎朝見ていた景色を、自分の目で見たかった。
水平線が、少しずつ白んでいく。
そのとき、祖父の声が、はっきりと思い出された。
――海はな、怖いけど、ちゃんと向き合えば、道を教えてくれる。
日向は初めて、声を出して泣いた。
でも同時に、不思議と胸の奥が温かかった。
夜が終わり、朝が来る。
誰かがいなくなっても、世界は進む。
そして、その中で生きていくことが、残された者の約束なのだと、湊は知った。
その日から、港の家の灯りは消えなかった。
今度は日向が、毎朝窓を開ける番になったから。
「今日も穏やかだ」
その言葉は、もう独り言じゃなかった。
春が来た。
港の空気はやわらぎ、海の色もどこか明るくなった。
日向は学校が終わると、まっすぐ港へ向かうようになった。祖父の古い道具箱を開け、錆びたロープをほどき、壊れた浮き輪を直す。誰に頼まれたわけでもない。ただ、そうしたかった。
ある日、見慣れない船が入ってきた。
若い漁師が一人、困った顔で岸に立っていた。
「すみません、この港、使ってもいいですか」
日向は少し迷ってから、うなずいた。
「どうぞ。」
それから、港に人が増えた。
網を直す人、魚を分けてくれる人、日向に声をかけてくれる人。
「君のおじいさんに世話になったんだ」
そう言われるたび、日向は少し誇らしくなった。
夜明け前、日向はいつものように窓を開ける。
潮の匂い。波の音。変わらない景色。
「なあ、じいちゃん」
返事はない。
でも、沈黙はもう怖くなかった。
――俺、ここで生きていくよ。
そう心の中で言うと、東の空が赤く染まった。
新しい一日が、また始まる。
日向は知っていた。
別れは終わりじゃない。
受け取ったものを、次へ渡していくための、始まりなのだと。
港の家の灯りは、今日も消えない。
それは、誰かを待つ光ではなく、
誰かを迎えるための光になっていた。




