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寝不足で回らぬ頭のまま朝食を流し込み、テレビに目を向ける。
『緑地公園で、昨夜何者かに鈍器で殴られた――』
無音の部屋で、錬の咀嚼音だけが響いた。
音を最小限に、急ぎ足で玄関から出る。共通廊下を走り、階段を駆け下りた。右手にある駐輪場から自転車を取り出し、錬は全速力で駆け出した。
放課の時間になる。やがて、陽が沈み、世界を月が支配する。
仕事に出かけた親の背を送り、錬は勉強を進めて、時を待った。
深夜零時になり、錬が行動を開始する。
服装を整え、仮面を被り、玄関を後にすると、手すりから飛び降りた。この習慣は錬の目を覚まさせ、感覚を呼び覚ます。だが、この習慣はやめるべきだろうと実感していた。
「これが最後になるかな」
じんと痺れる足の痛みを食いしばりながら、名残惜しそうに言葉にする。
中心市街地までの道に、自然公園がある。そこに顔を出すのも錬の習慣の一つだ。ここで、木刀にするための落枝を探すこともある。
街灯を避け、聳える一番の巨樹の下を歩く。日中にはこの下は一番の木陰になる。だが、今は夜だ。この公園全てが月光という名の木陰に覆われていた。
その巨樹の背中から少女は現れた。
「こんにちは。まだ無名の学ランマンさん」
「まだ?」
街灯に照らされ、薄く光る蜜柑のような髪が淡く光る。
人間の温度を感じさせない翠の瞳で少女は笑っていた。
逡巡する。身を屈ませ、武器を作り出すべきか。否――相手は少女である。
「こんな時間に……、法令違反じゃないのか?」
「お互いさまっすよ」
髪色と同じパーカーにスウェット、鞄等の道具はなにも所持していなかった。
「いつも随分派手にやってますね」
そう言いながらスマホを錬に掲げ、動画を再生させる。
その映像には、酔っ払いが木に寄りかかっていた
『――かやろう』
ノイズが乗った音声。そこに立つ、肩に木刀を乗せた錬。
一変した状況に、呼吸が止まる。――映像の音が、どこか遠くに聞こえた。
映像は止まることを知らず、流れ続ける。
映像の男が叫ぶ。ノイズが混じりその声は聞き取れないが、錬は脳内で声が、情景が想起されていた。
動揺を飲み込み、声を平静に整える。
「いたのか」
「えぇ、ずっと近くに」
少女がにやっと笑った。背筋に汗が伝う。――少女が笑うたびに嫌な感触が走る。
少女が、スマホを操作する。
次の瞬間、画面が切り替わった。
「――は?」
息が漏れる。
錬は画面から目を離すことは出来なかった。
二階建てのアパート。外階段から降りる人物、その足は自転車置場に向かっていた。――その中心人物には錬が映っていた。
「随分、年季の入ったところ、住んでるんすね」
軽い声。
口角を上げ、にやけた表情で少女が笑う。その表情に、錬の背筋が凍る。
刹那、錬の行動は早かった。落ちた枝には既に目星は付けていた。身を屈め、枝に手をかける。
「【木刀】」
枝を木刀にして、少女に肉薄する。
錬の眼中に映るのは少女それだけだった。
「いたいけな少女になにするんすか」
木刀が跳ね返る。
跳ね返った木刀から伝わる衝撃が、手を痺れさせる。
――結界か。
目を凝らそうとも、そこには何もなかった。
「――壊せませんよ」
舌打ち一つ。
――使うしか、ないか。
木刀に向かって能力を再度行使する。
「四十パーセント【結界破砕】」
付加属性の使用。――握る武器に能力が付与される。
片手で握った木刀を両手に持ち替える。
少女に向かって、木刀を振り下ろす。
その言葉を聞いた少女が目を大きく開け、身を大きく反らした。
「ま、そうなるっすよね」
少女を掠め、木刀が横を通り過ぎる。不可視の結界を破った。が、――紙一重で、少女が避けた。
「どうしたら敵対してないってわかってもらえますかねぇ。……まぁ、断るなんて選択肢はないんすけど」
おどけたように少女が言う。
少女が次に結界を張る前に錬は踏み込んだ。
――少なく見積もって四分。次の結界を張れるようになるまでにかかる予測時間だ。
「あたしは、ただ依頼に来ただけなんすよ」
木刀が少女の首を切る寸前で止まる。鋭い目で少女を睨む。
次の一手を思考する。――ここで、斬ってなにになる?
木刀を振るべきか、逃げるべきか、――信じるべきか?
三秒に満たない逡巡の末、錬は木刀を収めた。
木刀を下ろし、地面に置く。少女がほっと息をつくのが見えた。
「敵じゃないって信じてもらえたみたいっすね」
「信じたんじゃない。ヒーローは困っている人を助け、貶めることはしない」
「そっすか。面白いっすね」
面倒臭そうに呟く。
「で、その写真をどうするつもりだ。そもそも、どうやって手に入れたんだ?」
「闇のお友達に写真はもらったっす。これはどうもしないっすよ。ま、返事次第っすけど」
少女が錬を軸にして、周囲を回る。目玉だけを動かし、少女を視野に入れ続けた。
「蟹のお友達……。漁業か……?」
「まぁ、海に関係あるってことは間違いないっすね」
錬の左方向に少女は移動していった。本当は木刀も視野に入れ続けたいのだが、少女は木刀から反対の位置に移動した。
「で、依頼はなんだ?」
本題に入らせるため、話を促す。
「あ、二分経ちました」
「おい、とっととほんだ――」
「今日は金曜日っす。明日は休日、昼にあなたに活動をしてほしいんすよ。あたしの依頼で」
錬の言葉を遮り、少女が依頼する。だが、錬にはその依頼を受け入れることは出来なかった。
昼から活動? 昼には本職――政府公認のヒーローが活動をしている。錬がそこに遭遇すればどうなるか。非公認のやつの結末は決まっている。
「断る」
少女が溜息を吐く。面倒臭そうに吐く溜息に、虫の知らせを感じる。
「前言撤回、写真をバラまくっす」
身を屈め、木刀に手を伸ばす。
その前に、少女が手を銃の形にする。
銃の形を成した手は、木刀に照準を合わせていた。
「【物理結界・石硬】」
木刀の周りに不可視の結界が顕現する。木刀を取りに行くことを完全に読まれていた。その選択をするように誘導されていたのだ。悟った瞬間にはもう遅く、体勢を直すことは出来なかった。
――ボキッ。
手から鳴ってはいけない音が鳴る。
「予想通りで笑えてくるっすね。――だから、死ぬんだ。あんたらは」
そういいながら少女は去って行ってしまった。一枚の紙きれを残して。
右手から来る鈍痛に、錬は歯を食いしばる。折れてはいない、だが、握る力は残っていなかった。
屈辱、それだけが胸に澱み、――錬の敗北は、決定した。




