第2話 将来の夢とお嫁さん
鍵を開けて家の中に入る。あれこれ考え事をしながら歩いていたらすっかり遅くなってしまった。
「はあ……」
頭にいつまでも残っているのは七海さんの過去の話だ。
あの歩道橋から見える景色を教えてくれたのは他でもない『みさき』だ。
そんなに珍しい場所でも穴場でもないから、七海さんのお気に入りでもなんら不思議ではない。
だけども、一回目の転校が小学一年生だったのなら、タイミング的には『みさき』がいなくなった時と重なる。
「はあ……違うに決まってんのに」
しかし決定的に名前が違う。『みさき』と『あやか』これっぽっちも似ていない。
聞き間違いようがない。それこそ同じ名前の他人と今年知り合ったばかりだ。
多少重なるところがあっても、懐かしさを一瞬感じたのも全部僕の勘違い。七海さんは七海さんなのだ。こんなのノンデリカシーどころじゃ済まない。
一瞬とはいえ七海さんに『みさき』の面影を感じてしまうとは……これも勉強疲れってやつなのかもしれない。きっとそうだ。
そうに決まってる。
「ハル、ただいまは?」
「あ、うん。ただいま」
靴を履き替えていると、部屋着姿の麻央が缶ジュース片手に姿を見せた。
「遅かったね」
「つーか麻央来てたんだな」
「そりゃいるよ」
そう返すと麻央はパタパタとスリッパを鳴らして階段を上がっていった。
「てか手に持ってたの僕のジュースじゃないか。どおりで見覚えがあると思った」
家が隣同士の幼馴染だからって人が買ったジュースを勝手に飲むのはどうかと思う。
『小鳥遊麻央』は家が隣で親同士も仲が良い、生まれる前からの幼馴染だ。中学に上がってしばらく疎遠だったけど、一悶着あった末に昔のような関係に戻っている。
「他にジュース残ってるかな……」
冷蔵庫の中身に落胆。
重い足取りで二階の自分の部屋に向かった。
「麻央、そのジュース百円な」
冷蔵庫には大人が嗜むジュースしかなかったので、僕は水道水で喉の渇きを潤す他なかった。
「わたしのベッドメイキングは無料」
「は?」
「だらしないハルのためにベッドメイキングしてあげたのに、ジュースくらいでケチケチしないの」
「意味分かってんの?」
ベッドメイキングとはベッドを整えて綺麗な状態にすることだ。決して人の枕を蹴落としたり、シーツをぐしゃぐしゃにすることではない。
無料だとか寝ぼけたことを抜かしているが、ここまで荒らされているとなると最早罰金も辞さない重罪である。
「うん、結構大変。重労働」
「絶対に意味分かってないだろ。無理にやらなくていいんだぞ」
「ハルが寂しくならないようにしてあげてるのに」
「寂しくはない代わりに毎度毎度忙しい思いはしてる。つーか頼んでない」
荒らされた部屋を片付けたり掃除したり、余計な労力ばかり使わされている。
「こうやってわたしの匂いつけといたら寂しくないかなぁって思ったのに」
「は……はあ〜?」
一体どこでそんなセリフ覚えてきたのか……。
どうせ意味も分かっていないんだけど、僕じゃなかったら卒倒しそうな爆弾発言をしてくる。
言いながら麻央はシーツを両腕両脚で抱え込み、コアラみたいに丸くなってしまう。
僕の寝床にどんな恨みがあるんだと真剣に問いただしたい。
ところで暖房の設定が高すぎる気がする。少し喋っているだけでポカポカしてきた。
「ハルはわたしの優しさに気づいていない」
「麻央は優しさの意味を履き違えている」
割とマジで。
「じゃあ学校でみんなに訊いてみようか? わたしがハルのベッドメイキングしてあげるのは優しいのか、優しくないのか。負けた方はチョコパフェ奢り」
「ベッド荒らしているのをベッドメイキングと偽るな。それこそ僕だっていつも麻央にジュースとかお菓子献上してるだろ」
自分が勝ちを確信してる時だけアンティルールにするのよくない。そのくせチョコパフェもやたら高いものを要求してくる気だろう。
「じゃあお互い様だね」
「どこがだよ。とにかく僕のベッドで暴れるのをやめろ」
「暴れてない。ハルが寂しくならないようにしてるの」
「頼んだ覚えはないし寂しくない」
ベッドとお菓子とジュースのぐうたら三点セットが揃っているのが居心地いいだけだろ。
家だと自分で準備しなきゃいけないし、部屋も荒らしたら片付けないといけないからな。
「じゃあハルはわたしの匂い嫌いなの? やなの?」
「な……嫌とは言ってないだろ」
急にマジトーンになるのやめてほしい。
「でも嬉しくなさそう……」
まだ続くのか……。
「あのなぁ……麻央は自分の匂いをどう思っているのか知らないけど、日頃一緒にいるからお互いもう慣れちゃってるんだよ。今更麻央の匂いがしてもしなくても寂しさがどうこう変化したりしないの」
「……そっか」
「あ、いや! そんなに落ち込む必要はなくてだな」
慌てて麻央の傍に寄って顔を覗き込む。
「じゃあハルはわたしがいないと寂しい? いつも一緒にいたい?」
「は……? 今はベッドの話じゃ——」
「わたしは家に帰ると寂しい……」
「ま、麻央……?」
「わたしはずっと一緒がいいのに」
「そ、そんなこと言われても、今でもほとんど一緒にいるじゃないか……」
辿々しく言葉を繋ぎ合わせてどうにか返しているが、まともに麻央の顔を見られない。
「ほとんど一緒にいるならわたしのパターン把握しなきゃ」
「……へ?」
「ベッドをぐちゃぐちゃにされるのを踏まえてスケジュール管理して。でないと一人前の大人になれないよ?」
「え? なに? 僕が悪いの?」
しかも今、ベッドぐちゃぐちゃにって言わなかった? ベッドメイキングはどうした?
「わからないことがあったら訊いてって言ったよね? なんで訊かなかったの?」
現在進行形で僕が質問したとこなんだけど。わからないことをさ。
「麻央は何時になったらおうちに帰ってくれますか?」
「はあ……あのねえ、それくらい自分で考えられないかな」
「理不尽過ぎる」
このパワハラムーブをやりたかっただけだろ。
さっきのしおらしい態度やマジトーンはなんだったんだ。
「ふう……なんか暑いね」
「そりゃ僕のベッドのシーツ抱え込んで暴れてればね」
だが暑いのには僕も同意見だ。暖房は点いていないのに顔がポカポカする。
「ハルー、靴下脱がせて」
「自分でなさい」
ほっぽり出されてきた脚を軽く叩く。
「靴下触った手でお菓子食べたくない」
「それだと僕が食べられなくなるだろ」
「拭けばいいじゃん」
「麻央がな」
「わたしが拭いても意味ないじゃん」
「僕に脱がせるのを前提として進めるな。自分で脱げ」
「あんまり女の子に脱げ脱げ言わない方いいよ」
「一発で善悪が覆る正論やめて」
ここだけ切り取ったら僕が麻央にいかがわしい事を働いているみたいじゃないか。
漫画やドラマだったら、ここでタイミング悪く第三者が入ってきて僕が悪者にされてしまう。冤罪もいいところだ。
「じゃあはい」
「……あのな」
差し出された両脚のうちの片方を支え、太腿付近まである靴下に指をかける。
「いただきまーす」
麻央がシュークリームに齧り付く。
「前々から指摘しようと思ってたけど、もう少し恥じらいってのを持った方いいぞ? 仮にも麻央は女の子なんだから、気安く男子にあちこち触らせたらダメだって」
靴下の化学繊維の感触と、麻央の太腿の感触が同時に指先を刺激してくる。
妙に暖かいのが余計に肌に触れていることを実感させる。
「別にいいじゃん。幼馴染なんだし」
「マジで僕だけにしとけよ。こんな無茶振りするの」
「束縛? 独占欲キモ」
「こら踏むな。脱がせにくいだろ」
ようやく片方完了。なんでいつも部屋着でこんな長いの穿いてんだよ。
「そうだ。麻央って将来何するか決めてる?」
「全然。ハルは?」
「僕もまだ決まってない。野球と勉強しかやってこなかったし。だから高校では本当にやりたいこと見つけられたらって思う」
最近ホームルームで担任の先生からも話されるが、将来のことについて中々明確な夢や目標が出てこない。
小学生の僕だったら迷わずプロ野球選手と答えただろうけど、僕の実力だと口にすることすら烏滸がましいのだ。
野上君や七海さんは将来の夢とかあるのかな……。
「あ、あった。やりたいこと」
「なになに?」
「お嫁さん」
「……はーい麻央ちゃん、くだらない冗談やめて靴下脱ぎ脱ぎしましょうね〜」
「ハルキモい」
僕も麻央の『お嫁さん』発言に鳥肌が立ったのでお互い様だ。
もう片方の靴下を下ろして麻央に突き返す。ひとまず今の段階では、将来の明確なビジョンが見えていないってことで。
今は麻央が手に持っているシュークリームがベッドに落ちないのを願うばかりだ。




