第1話 また明日学校でね
濃い紺色のマフラーを巻き直して顔を埋める。
あと一週間と待たずに冬休みに入る十二月の半ばともなれば、そこまで風が吹いていなくとも寒さが一層際立つ。
制服の下にもう一枚着込んでおけばよかったとか、コンビニで温かいおでんでも買おうかとか、自ずと思考は温かいものを求めていく。
今年最後の期末テストの結果も返ってきたところで、ここらで羽を伸ばしたい気持ちもあるのだけど、受験を控えている身としては中々そうも言ってられない。
いざ羽を伸ばすとなっても、この後に待っている受験という大きな分岐点が気になって心が休まらない。
最近は放課後に図書室で勉強してから帰るのが日課になっていて、家に着くのが少しだけ遅くなりがちだ。
家に帰ってもやることは変わりはないんだけど、ちょっとした気分転換にでもなればと思い足を運んでいる。
「はぁ……家まで遠い」
ここから然程距離はないのだけど、いつも渡る横断歩道がやたらと遠くに感じる。
家までの道のりが短くなるわけでもないのに、寧ろ登り降りをする分足腰に負担がかかるのに、僕は意味もなく歩道橋に足を運んだ。
毎日近くを通りかかるが、こうして実際に渡るのは小学生以来。
昔はこの歩道橋から見える景色が好きで、それこそ意味もなく遊び感覚で渡ったりした。
学校の階段とも家の階段とも違う独特の乾いた音が鳴る。
金属と外の乾いた空気が振動してカンカンと独特の音を奏でる。
階段を上がりきったところでおもむろに景色を眺めてみた。
横断歩道の近くに構えているハンバーガーチェーン店の看板が真っ先に目に入った。赤と黄色の一目でわかるデザインで、見るだけでお腹が減ってきてしまう。
下を歩いている時は気にならなかったのだけど、思った以上に走っている車の数が多い。
社会人の退勤時間ってやつか、どうりでお腹も空いてくるわけだ。
「あ……」
目線を動かした先に思いがけない先客がいた。
「あれ? 七海さん?」
「あ。楠君だ」
「帰り……じゃないよね? 鞄持ってないし」
僕の記憶が正しければ家も逆方向のはず。
「うん。ちょっと勉強の息抜きに」
「七海さんの家ってこの辺りだったっけ?」
「ううん全然。でもたまにお買い物や遊びに来たりするんだ」
遊ぶ場所も買い物できるところもパッと浮かんではこないが、どうやら僕がまだ知らないだけで七海さんにはお気に入りの場所があるようだ。
一人分の感覚を空けて七海さんの隣に並ぶ。
見える景色に大きな違いはないけれど、冷たい風がより当たる気がした。
七海綾香、僕と同学年で一組に所属する控えめで大人しい女の子。
秋までは度々顔を合わせていたが、委員会が終わってからは話す機会がなくなっていた。
三組の僕と一組の七海さんとじゃ自然な成り行きだろう。
全校集会や移動教室でたまに姿を見かけはしたけれど、声を聞くのは数ヶ月ぶりだ。
「楠君と会うのすごい久しぶりな気がする」
「僕も同じこと思ってた」
柵に寄りかかってもう一度街を見下ろす。
走っている自動車はライトが点いていたりいなかったりとまちまち。
初めてこの景色を見た時、信号機を見下ろせるのにちょっとした優越感を覚えたのを思い出した。
ポツポツと住宅やお店に明かりが灯っていく。
もうじき街灯が街中を照らし始める時間帯だ。
「……」
「ん? 僕の顔に何か付いてる?」
七海さんが顔を覗き込んでいたのに気づく。
「ぼーっとしてるから、また何か悩み事かなって」
「ただ景色眺めてただけだよ」
「そっか。好きなの? こんな感じに景色見るの」
「好きか嫌いかで言うと、嫌いではないかな」
「相変わらず捻った返しだなあ……そこは普通に好きでいいんじゃない?」
「そういうもんかな?」
「絶対そう」
七海さんの横顔を覗き込む。
さっきは僕がされる側だったから、これでおあいこと思いたい。
普段はきっちりと二つのおせげになっている髪が、風に当てられたせいなのか、いつもより緩くなっている。
以前にプレゼントしたヘアピンは今日も付けていないみたいで、長い前髪が素顔を隠すのに一役買っている。
ゴールデンウィーク明けに渡して以来、七海さんはヘアピンをつけていない。
家で使ってくれているのかもしれないけど、実はあまり気に入ってくれなかったのかと不安になってしまう。
「……七海さん」
「え?」
久しぶりに会ったからそう感じさせるのか、七海さんの雰囲気が以前と少し違うように感じた。
きっと僕の勘違いでしかないんだけど、近いようでものすごく遠い。
このまま冷たい風に当てられたら消えてしまいそうな気さえした。
「……」
「え、ちょ……ちょっと楠君!?」
「わ! どしたの!?」
「それはこっちのセリフ。私のこと呼んだと思ったら見つめたまま何も言わないんだもん」
「え……僕、名前呼んでた?」
「うん。はっきり言って怖かった」
「ご、ごめん……多分無意識にだと思う」
「尚更どうかと思う……こわい」
この上なく恥ずかしい……。
相手が七海さんだったのがせめてもの救いか。
「ね。やっぱり何か悩んでるんじゃないの? 溜め込むのはよくないよ?」
「いやいや! 本当になんでもないんだって! ただ七海さんも景色眺めてたから好きなのかなって思っただけ」
「本当かなあ……」
「本当本当! 絶対!」
心配してくれるのは嬉しいんだけど、恥ずかしさで頭がパンクしそうだから早いとこ話題切りたい。
「……まあいっか」
「ふぅ……」
息を吐いて顔を覆い隠す。顔が赤くなってたりしたら目も当てられない。
こんなしんみりとした気持ちを七海さんに持ってしまったのも、僕の中で環境委員会で過ごした時間が大きかったからなのかもしれない。
「好きだよ」
「ふぇ!?」
予期せぬタイミングでの一言に身体も心も跳ね上がる。
「ここからの眺めが好きって答えたんだけど……楠君本当に大丈夫?」
「あ、ああ……景色ね。そりゃそうだよね」
瞬間的に上がった熱がじんわり下がっていくのを感じる。
今まで七海さんと話してる時はもっと普通だったのに、どうも調子が良くないしテンポが悪い。
久しぶりだから緊張してるのか?
それにしたってこのグダグダ感はみっともない。
「楠君も勉強疲れかな?」
「言われてみれば疲れてる感じはするかも」
身体は動かさなくとも頭はほぼフル稼働だもんなあ。
「……」
「な、七海さん?」
さっきの動揺っぷりを指摘しようとしているのか、七海さんが真っすぐ僕を見据える。
「私ね、この歩道橋渡るの昔から好きなんだ」
「え……」
心臓の音が小さく跳ねる。
「まあ、渡ったのは数年ぶりなんだけどね」
「勉強とかであまり来れなくなったから?」
「どっちかというとお父さんのお仕事の都合かな。小学校一年生の時はこっちに住んでたんだけど、すぐに他所に引越しになっちゃったんだ」
「他所ってどのあたり?」
「隣の県だよ。ここよりちょっと都会。私が中学に上がるのと同時にお父さんも転勤になって、またこっちに戻ってきちゃいました」
「そうなんだ。七海さんは向こうの生活の方が良かった?」
「全っ然。逆だよ」
語気を少し強めて七海さんはちょっとだけ詰め寄ってきた
「前に住んでたとこだ本当に嫌いだったから、こっちに戻ってきた時は嬉しかったんだ」
言って七海さんは爪先で靴をトントンと鳴らす。
前に住んでたとこが嫌いなのは、学校であまりうまくいかなかったからなのだろうか……。
気になるけど詮索はできない。
そうだよな……必ずしも転校先で友好な関係を築いていけるとは限らない。
七海さんみたいな優しい人でも相性は絶対にあるし、相手が必ずしも良い人だとは限らない。
「じゃあ七海さん的には二回目の転校は良かったんだ。こっちの友達とも再会できた?」
「……そうだね。再会できたら良かったんだけどね」
「あ、ごめん! 僕また気に触るようなこと言って……」
「ううん! 違うよ? 楠君が考えてるような悲しいことじゃないよ?」
七海さんがパタパタ手を振って慌ててフォローを入れる。
「会おうと思えば会えるんだけどね、なんていうのかな……」
「七海さん?」
「五年以上離れていれば、もう人間関係なんか私抜きで完成されちゃうんだよ。私がいてもいなくても、その人達には多分関係ない」
七海さんが昔の友達を『その人達』と呼んだことに、過去の思い出として整理がついている心情が読み取れた。
なのに『多分』という曖昧な言葉を使ったあたり、まだどこかで思い出にしきれていない部分があるのではと勘繰ってしまう。
「なんかそれ、僕も少しわかるかも」
僕も幼馴染と二年近く疎遠になった時期があった。
元々の原因は僕にあったけど、それまで一緒にいるのが当たり前だっただけに寂しさは拭えなかった。
学校で同じクラスなのに一切言葉を交わさない。七海さんも似たような思いをしているのかもしれない。
「あ、なんかごめんね? 暗い話になっちゃって。楠君に話しても仕方がないのにね」
「謝らないでよ。七海さんが自分のこと話してくれて嬉しかったよ」
「ふーん……今日の楠君はいつもより全然素直。やっぱり勉強疲れかな?」
「いやいやいや、僕はいつも通りだよ」
実際はちょっと変なんだけどね……。
でもいつも通りじゃないのは七海さんも同じな気がする。学校という空間から解き放たれているからなのか、それとも髪型が崩れかかっているからなのか、雰囲気もやっぱり少し違う。
何より七海さんがこうして自分から過去を打ち明けてくれたのは初めてだ。
「僕普段から七海さんには素直——」
「楠君、ちょっと動かないで」
「ん?」
「糸くず付いてる……っ」
言われるままじっとしていると、七海さんの手が僕の耳元に軽く触れる。
ほんの少ししか触れていないはずなのに、恥ずかしさというものは猛スピードで駆け上がってくる。
「や……大丈夫だから」
「あ! 動いちゃだめ!」
「自分で取るよ」
「っ!」
「あ……!」
恥ずかしさに耐えられず、咄嗟に七海さんの手を掴んでしまい、更に気まずい状況に陥ってしまう。
見計らったようなタイミングで強い風が吹く。
僕は意図せず七海さんと見つめ合う形になる。
「七海さん……ごめ——」
眼鏡の奥の綺麗な瞳に僕の姿が映る。
「……?」
——背中の後ろ側に向けて強い光が駆け抜けていったような気がした……。
「楠君……?」
「あ! ごめん! つい!」
「……ばか」
そう呟いて七海さんは歩道橋を駆け降りていった。
やはり今の僕はおかしい。
「〜〜っ」
その場にへたり込んで顔を伏せる。
色々と声に出したいとこだけど——。
「七海さん!」
「楠君?」
らしくなく大声で名前を呼んだ。
「七海さん! 急に掴んだりしてごめん! また明日! 学校でね!」
らしくなく大きく手を振って見送った。
ここまでしないと誤魔化せそうにない。
——七海さんと『みさき』が一瞬重なるなんてありえないのだから。
どこか寂しい感じのする空の下、お別れしたはずの思い出がまた顔を覗かせようとしていた。
思い出の歩道橋で七海綾香と偶然会ったのが、中学生の僕が最後に紡ぐ物語の始まりだった。




