第8話
「は、初めまして。僕、楠陽也と言います。美咲さんの友人です」
「おおっ! 早速こっちで友達ができたんだね! よかったよかった!」
「美咲がお世話になってます」
美咲のお母さんと思われる女性がゆっくり頭を下げると、慌てた様子でお父さんもペコリと頭を下げた。吊られて僕も二回目のお辞儀をする。
「美咲、あまり遅くまで付き合わせちゃだめ」
どんな相手でも最初に与える印象は大事。他校との練習試合でもそうだけど、父さんや顧問の先生の教え通りにまずは自分から名乗った。
手応えは悪くはなさそうだが、先程の一部始終を目撃されていたとなると非常に気まずい。
美咲のお母さんらしき女性が指摘したように、時計に目をやると九時を半分ほど回っていた。話すのに夢中で全く気づかなかった……。中学生だけで出歩いていい時間じゃない。
「じゃあ僕そろそろ帰るよ。これ、今日の分。すみません、失礼します」
「え、あれ……陽也くん?」
「送って行こうか?」
「いえ、近いんで大丈夫です」
「気をつけてね」
美咲のご両親に軽く頭を下げて足早に店を出た。実際に注文した金額よりも多く払ってしまったけど、あの場で細かい計算までする神経の太さを僕は持ち合わせていない。
「まさか家族全員と出会すなんて……」
美咲と知り合ったのだって昨日だってのに、それで今日は家族と遭遇……いくらなんでも物事が詰め込まれ過ぎだ。お父さんもお母さんも優しそうな人だったけど、妹はほとんど喋らなかったな……。
着ている制服が僕の通っている中学と似ていたのも気になるけど、それ以上に美咲に向ける目が他の二人と全く違っていたのが頭から離れない。家族や友人に向けるものとは程遠い、まるで心の底から軽蔑しているかのような目だった。血の繋がりこそないものの、普通家族に対してあんな目を向けるか……? 思い違いであってほしい。
あの場を逃げ出すような形で飛び出してしまったのは本当に申し訳ないけど、帰るタイミングとしてはベターだったと思いたい。美咲には今度会った時に謝ろう。どう考えても僕が残っていい場面じゃない。
あとは家族水入らずで楽しんでほしいけど、美咲は家族の前じゃどんな感じなんだろう……。
「ちょっと! 陽也くん! 待ってってば!」
「は!? え? 美咲!? なんで!?」
あの場に残っているはずの、残っていなければいけない美咲が僕を追いかけて来た。
「なんでって、次に会う日決めてないじゃん! 陽也くんスマホ持ってないんだからさあ」
「え……、今回で終わりじゃないの?」
「はあ!? マジで言ってんならほんとヤバイよ? 今日は遅い時間からだったけど、他にも遊べる場所あるんじゃないの? それにまだ相談したいことだってあるし……」
「相談……?」
美咲の今までの行動の本質が顔を覗かせた気がした。思えばこれまでの情報を踏まえればもう少し早く気づけたのだ。
「姉さん……!」
「栞……」
『しおり』と呼ばれる女の子は僕に目もくれずに美咲に詰め寄った。そう、彼女こそがこれまでの美咲の行動理由だったのだ。
「〜〜っ!」
「っ!?」
「ちょ、ちょっと!」
栞はなんの躊躇いも無しに美咲の頬を叩いた。それこそ殴られた本人も僕も、響いた音でようやく何が起こったのか気づくほど突然にだ。手加減など一切感じられない、打たれた美咲がバランスを崩しかねないほどの本気の平手打ち。
「家族との約束をすっぽかして、こんな遅くまで遊んでるなんてどこまで自分勝手なの!?」
「……ごめん」
「ごめんじゃないでしょ!? お父さんがどれほど今日を楽しみにしてたか、姉さんも知ってるでしょ!?」
「……」
「なに黙ってるの? そうやって黙ってればやり過ごせると思ってるの?」
「……」
「ねえ! なんとか言ったらどうなの!?」
「待った! それ以上叩くのはダメだ!」
『しおり』がもう一度手を振り上げたところで間に入り彼女のことを制す。
「……なんですかあなた」
「ぼ、僕は楠陽也。美咲の友人だ」
「そんなことは二度も言われなくとも知ってます。バカにしてるんですか?」
「バカになんかしてない!」
『しおり』はようやく僕の存在を認識したのか、心底不愉快そうに僕の手を振り払った。二歳下と聞いていたけど、とても先月まで小学生だったと思えない。言動や立ち振る舞いにあまりにも子供っぽさがなさ過ぎる。
「これは私達家族の問題なんです。口を挟まないでもらえますか?」
「だからって友達が叩かれるのを黙って見過ごせないよ」
「だったら見なければいい話ですよね? これから先のことはあなたに無関係ですのでどうぞお帰りください」
「そんなの今から美咲を叩くって宣言してるようなものじゃないか。知っててこのまま帰るわけにはいかない」
『しおり』からしたら僕は確かに部外者で赤の他人かもしれない。でもいくらなんでもこの状況はなんとかしないとマズイだろ。それに僕はもう美咲とはそれなりに関わってしまっている。頼まれた事とは無関係と見て見ぬフリをできるなら、美咲との今の関係も存在していない。
「戯言ばっかり……。姉さん、今度はこの人に取り入ったんでしょ?」
「は? なんの話だよ。とにかく今は美咲を叩くのをやめ——」
「いい加減黙ってもらえますか?」
「っ!」
これまで『しおり』が向けていたものがまるで見せかけだと思うほど、一瞬だけ見せたその顔に『しおり』の全てが詰まっていた。一体どんな道を歩めば、中学に入ったばかりの女の子がこんな表情をできるのだろう……。
悲しみ、憎しみ、言葉で羅列しきれない様々な負の感情がぐちゃぐちゃに混ざり合った、一目見ただけで腹の底を握り締められた気分になる。そんな真っ黒な感情を晒し出した。
「……ごめん。ごめんね栞」
「謝って済む問題じゃない」
「それでもごめん。約束破って、自分勝手で……みんなに迷惑かけてごめんなさい。あた……姉さんが全部悪いよね」
「美咲……」
今までの姿からは想像もできない弱々しい姿。ただこの場をどうにかしたくて、姉としてなんとかしたくて、どんな形でもいいから『妹』に許してほしいと懇願する姿。それでも栞の表情から怒りは消えていない。
「馬鹿にしないで! そうやっていつもいつも——!」
「もうやめろ! どんな事情があるかは知らないけど、これ以上はやり過ぎだ!」
「何も知らないくせに! これじゃまた……わたしが悪者みたいじゃない!」
「え……今なんて——」
「いつまで掴んでるんですか!」
「あだっ!」
強引に振り払われた腕がうまい具合に下顎に当たり、思わずその場にしゃがみ込む。
「姉さん」
「うん……行くよ」
美咲も『しおり』も姿が見えなくなるまでこちらを振り返らなかった。
僕は手についた砂を叩いて落とし、ゆっくりと腰を上げた。
ただ遊ぶ場所を探すだけ、そう楽観的に捉えていた。捉えようとはしていたけど、それは何も知らない昨日の僕の話。『相談したいことがある』美咲の心根を知ってしまった。『しおり』との現状を知ってしまった。これからの僕は楽観的に他人事だと受け流すことはできない。
神様なんかまるで信じていないけど、いるとしたらなんて悪趣味なんだろう。初恋の人と同じ名前の少女の大きな問題に直面させるなんて。
「ほんとに……趣味が悪すぎる」
鈍い痛みの残っている下顎を数回摩り、若干冷たい夜風を浴びながらその場を離れた。春の終わりはもう少し先らしく、僅かな赤い花びらを残した桜の木が、夜空に浮かぶ三日月の光に照らされていた。
目に映る景色はこんなにも綺麗なのに、僕の頭の中はあちこち散らかっていた。




