第34話 付き合ってられない
あまりにも優しくて悲しい声音。それがとても印象的だった。儚くてちょっとした物音や風の音でもかき消されそうな、まるで美咲の心情をそのまま表しているような。そんな声だった。
「姉さん……? 姉さんはそれでいいの?」
栞が目を震わせながら動揺している。自分の結論が受け入れられたというのに、栞からは安堵する様子がまるで感じられない。現実を受け入れられない、喪失感さえ醸し出している。
「今は栞の心を守るのが最優先。当然だよ」
「姉さん……」
「ごめんね栞。最後までダメな姉さんで……」
「姉さん、謝らないでよ……」
栞の声から吐息が漏れ出ている。僕が気づいているのだから、向かい合っている美咲が気づいていないわけがない。
時間が解決してくれる。それは僕が一番嫌いで最も信頼できない言葉だ。
時間が残酷すぎるから、僕の大好きな女の子は何も言わずにいなくなった。時間が何もしてくれないから、僕はいつまでも過去を引き摺っている。
結局のところ時間は何も解決しない。今後も傷跡は残り続けるままだ。薄く伸ばされて目立たなくなっていただけで、根本的な問題は何も解決していない。
でも、それを伝えるのは僕の役目じゃない。美咲も栞も本当は気づいているのだ。何も解決なんかしていないことを。
二人が出した結論に僕が割って入ることはできない。結局のところ、僕はこの程度なのだ。誰かのために頑張っても、何も変わらない変えられない。
「〜〜っ」
美咲が目元を拭った。僕はそれを黙って見ているだけ。最も嫌う結論で、間違っていると知っていても、僕には二人を助ける権利も力も無い。
「……あのさ」
これだけの醜態を晒し続けた僕に今更できることはない……それでも見つけてしまった矛盾を、二人が吐いた嘘を見逃すわけにはいかなかった。
「っ!?」
「楠先輩!? 何するんですか!?」
二人が驚いて当然だ。
僕が美咲を力任せに突き飛ばしたんだから。
「はぁ……いつまでも意味のない会話をダラダラと……くだらない。付き合ってられないんだよ」
「……ごめん。陽也くん」
違うだろ美咲。いつもなら『はあ!?』『ムカつく』って喰ってかかるだろ?
「時間が解決してくれるって絵空事を本気で信じているのか? だとしたらおめでたいな」
「先輩? 急にどうしたんですか?」
栞だってそうだ。大好きな姉が突き飛ばされたのに、なに大人しくしてんだよ。
「何も解決しちゃいねーよ。そんなこともわからないから僕に騙され続けてるんだよ」
「陽也くん……?」
「ちょっと顔が良いから面倒事も我儘も付き合ってきたけど、ここまで馬鹿だとやってらんねーんだよ」
二人が口を挟む前に僕は続ける。
「気持ちも碌に伝えられない臆病者の姉に、二度と会うことのないクズの影にいつまでも怯え続けるバカな妹」
「っ!」
「姉さん!?」
「ってぇな……」
美咲が僕の頬を叩く。鈍い痛みが次第に広がっていくが、この程度で止まったら僕は一生後悔する。
一度踏み込んじゃいけない場所に踏み込んだのなら、最後まで貫き通さなきゃダメだ。
「下手に自分を偽りやがって。いつまでそうしているつもりだ? 本音を伝えもせずに妹にだけ語らせるなんて虫が良すぎる」
「楠先輩、もうやめて……」
「知るか。浮気して家族を捨てたクズ女と美咲が似てる? だからどうした? 子供でも二股してる奴くらい何人もいるだろ」
もう一度美咲の平手打ちが炸裂する。僕は構わずその手を掴み、美咲を強く睨みつけた。
「僕だって何人も付き合ってる」
「……」
「気づかなかったのか? 本当に馬鹿なんだな。部活で遊べないなんて全部嘘だよ。嘘。三人……五人くらいかな?」
「このクズ男……! 姉さんから離れてください!」
「うるせぇ。人が話してんだ、割って入るなよ。僕はなあ、こんな顔だけいいような奴じゃなくて、大人しくて可愛げのある人がいいんだ。何が妹と仲良くなりたいだ。妹と一緒に遊ぶ場所を探したいって、そんなのに僕を一週間も付き合わせるな。一緒にいる間ずっと思ってたさ、無駄な努力だってな」
「お姉ちゃんを離せぇ!」
栞が涙を溢しながら僕を力任せに突き飛ばす。
「いって……」
「謝れ! 謝れ! お姉ちゃんに謝れ! お前なんか! お姉ちゃんの前から消えろ!」
ようやく、やっと、栞が本当の顔を見せてくれた。
「……うっぜ〜。なにこれ?」
「……もう帰ってよ。楠くん」
「付き合わせといて帰れとか随分勝手だな」
僕は砂埃を払ってゆっくりと立ち上がった。
まだ足りない。まだ止めちゃいけない。
これぐらいじゃないはずだ。こんなもんじゃ最低のクズの足元にも及ばない。
「誰かのためになんて意味ないよ。馬鹿馬鹿しい」
そう吐き捨てた後、僕は大きく息を吸った。
「あーあ! 兄弟なんかいなくて本当に良かったよ! お前ら見てると心の底から思うよ! だって面倒だし。そのうえ赤の他人の僕にここまで迷惑かけといて……なあ? なんで僕の前に現れたの? マジで時間返してくれよ」
「陽也く……楠さん」
「あ?」
震えそうになる拳をポケットの中に押し込んだ。
「今まで迷惑かけてごめんなさい。いえ、すみませんでした」
「いやいや、謝ってどうこうなる問題じゃないから。一週間も僕の時間を無駄にさせたんだぞ?」
「……」
「なに黙ってんだよ。姉妹揃って碌でもないな。ああ、そういえば血は繋がってないんだった。つーかこんなのが同じ地区に住むとか冗談じゃない。ああ、片方は住まないんだっけ? マジで頼むよ」
「……もう喋らないでください口を開かないでください。あたし達も、金輪際関わらないので。それで終わりにして。これで終わりにして」
「ああ!? 何勝手に——」
声を荒げたが、美咲は僕のことなど目もくれずに栞に向き直った。
「栞……」
「う、うう……。おねえちゃん……」
「ごめんね栞……。あたし……やっぱり栞と離れたくない!」
「わたし、知ってたのに……。お姉ちゃんはあの人と全然違うって。一緒にしちゃいけないのに……それなのにわたしが弱いせいで……」
「そんなことない! 栞はずっと戦ってきたんだもん。あたしがいつまでも勇気を出せなかったら苦しめてた」
「おねえちゃん……ごめんなさぃ……大好きなおねえちゃんに酷いこといっぱいして……う、うわああああああ」
「無理させてごめん……! あたしも栞が大好きだから! だから……うっ……うわああああああ!」
「……バカみてぇ。しらけた。帰るわ」
胸がズキズキと痛い。足元はふらついている上に視界がぼやけて最悪の気分だ。嘘を暴くのがこんなに疲れるとは……本当に割に合わない。
二人はお互いに嘘はついていなかったけど、自分の気持ちに大きな嘘をついていた。こんな結末になるとは予想できなかったけど、これで少しでも前に進めたらと思う。
優しい二人が招いた長い悲しいすれ違いは、一人のクズが馬鹿やってようやく終わりを迎えた。屑が拗らせた問題は、やはりクズが締めくくるのが相応しい。
もっとも、見ず知らずの屑の尻拭いをされたようで心底腹正しいが、それで姉妹の心の雲が晴れてくれるのならよしとしよう。
人一倍繊細な姉はやっと気持ちを打ち明けた。しっかり者の妹は弱さを晒して本来の顔を姉に見せた。
僕は二人を救い出すヒーローにも主人公にもなれなかったけど、道化としては……まあ、そこそこやれたと思う。
美咲にも栞にも嘘は似合わない。嘘を吐くのは僕一人で十分だ。
誰かのためにだなんて本当に馬鹿馬鹿しい。だから嫌なんだ。自分じゃ何もかも足りないから、何かを成し遂げるためには何かを差し出さなきゃいけない。
手放したくないものも手放さないといけない。
人目を憚らず泣き続ける二人を背にして僕はその場を去った。
差し込んでくる陽の光が鬱陶しい……。




