第32話 かわいい彼女です!
黄昏時と言えなくもない微妙な時間帯に待ち合わせ場所に着いた。色々ありすぎて、遠征から帰ってきてからまだ一日しか経っていないのが嘘みたいだ。練習試合で散々な結果であんなに打ちのめされていたというのに、悔しさや悲しさはどこに行ってしまったのやら…‥。
僕は案外図太い人間かもしれない。
昨日降った雨の影響はそれなりに残っていて、校庭のコンディションがあまり良くない。少し力を入れればしっかりと跡が残り、柔らかい土と泥の中間といったところ。
目の前にある並風中学の旧校舎を見上げる。連休後に取り壊しが行われると聞いていたけど、どうにも無くなるイメージが湧かない。
「待った? 陽也くん早いね〜」
僕があまり意味のないことに頭を働かせていると、美咲が片手を振ってやって来た。ずぶ濡れだったりバスローブだったりと変わった格好が続いたせいか、至って普通の私服姿を見ると妙な安心感を覚える。
「少し考え事してたから問題ないよ」
「考え事って?」
「この校舎連休中に取り壊されるんだ」
「えぇ!? それはイヤ!」
「なんで美咲が嫌がるの?」
ここの生徒の僕が全く気に留めていないのに、生徒じゃない美咲がこんなにショックを受けるとは思わなんだ。もしかすると全校生徒を含めても一番驚いているんじゃないだろうか。
「言わなかったっけ? だってここあたしのお母さんの母校なんだよ? なくなったら寂しいじゃん」
「そんな情報初耳だよ。一応言っとくけど無くなるのは建物だけで学校は残るから」
「でも複雑だな〜」
ここにきて美咲が並風を訪れていた更なる理由が判明する。栞の様子を見に来たのが当初の目的だけど、母親の母校と知れば尚のこと。
「そうだ。少しだけ中に入っちゃダメかな?」
「ダメ。絶対鍵かかってる」
「え〜!? いいじゃん!」
何をもって入っていいと判断しているのか、美咲はお菓子をねだる子供みたいに駄々を捏ね始めた。
「よくない。常識的にどっからどう考えてもアウト」
「あたしはセーフだと思う」
真顔で何を言うんだ。本人なりのボケなのか大マジなのか判断しにくい。
「はあ……お母さんを盾にするわけじゃないけど、娘が自分の母校で好き勝手したって知ったらどう思う?」
「やっぱあたしの娘だなって」
「解釈不一致ってこういうことを言うんだろうなあ……」
しかもこの場合間違っているのは僕なのだろう。実の娘の方がお母さんのことを理解しているだろうし。
「つべこべ言わずに入れてってば」
「なんで僕が聞き分けない立場になってんだ」
「我儘聞いてあげるって言ったくせに。いいから入れろ」
「そういうつもりで言ったんじゃないやい」
根負けしてひとまず旧校舎の扉に手をかける。鍵がかかっていたら諦めてくれるだろうと力を入れた。
「は?」
お待ちしておりましたと言わんばかりに扉は開いた。とんでもなく不用心だ。あとは取り壊されるだけだからってセキリュティとしては疑念が残る。
「ほら開いてんじゃん」
パチンと指を鳴らして美咲が中へ入っていく。学校の人に見つかったら呼び出しを喰らうやつだよこれ……敷地内にも旧校舎にも入れたなら誰かしらいるだろうし。
「気が済んだらすぐに出よ? ね?」
『いい子だから』と小声で付け加えたが、当の美咲は意気揚々としていてまるで耳に入っていない。今のうちに見つかった時の言い訳を考えていた方が良さそうだ。
美咲の後に続いて靴を脱いで校内を進む。もう使われないから土足で構わないのだけど、美咲がそうしているので僕も同じようにした。
「美咲、もし見つかったらなんて説明すればいい?」
「かわいい彼女です!」
「不法侵入者を見つけたので追いかけてましたでいいか……あぶな!」
スニーカーがものすごい勢いで飛んできた。
「あのな、彼女って……それ僕が本当に言ったらどうするつもりなんだよ」
スニーカーを返す。
「……その時考える」
「……あっそ」
微妙な空気が流れて美咲も少し落ち着きを取り戻した。
「ここ入ろっか」
美咲が入った教室には見覚えがあった。環境委員会の活動初日、僕が一人で掃除した教室だ。不思議なことに僕が黒板に書いた文字がそのまま残っている。
「……ごめん」
僕は黒板に書いてあったことをそのまま声に出した。
「え? どしたの?」
「いや、ここに書いてあったから読み上げたんじゃないんだ。そういえば昨日喧嘩した時のこと謝ってなかったなって」
黒板に書いた『ごめん』は美咲に宛てたものじゃないけど、今じゃないと言い出せない気がした。
「なんで陽也くんが謝るの。死のうとしたところを止めてもらったんだから、陽也くんには感謝しかしてないよ」
「それ以外にも勢いに任せて色々言ったし……」
「あたしだって酷いこと言ったしお互い様だよ。謝らないで」
「……そうか。ならそうする」
僕の返事を聞いて満足したのか、美咲は何も言わずに背中を向けた。
「教室の中見てみたかったんだ」
「お母さんが通ってたから?」
「それもだけど。陽也くんや栞がどんな学校生活送ってんのかなって」
「……そこまで気になるなら美咲も並風に転入すればよかったのに」
「あ〜。それも良かったかも」
「とにかく美咲がこっちで暮らせるように、僕なりに協力するよ」
「うん。頼りにしてるね」
控えめに笑うのは恥ずかしいからなのか、あまり期待していないのか、今は聞くべきではない。ただ僕は二人が二度と傷つけ合わないようにするだけ。
「ねーねー? 黒板消しってある?」
「ないよ。全部新しい校舎で使ってる」
「なーんだ。この落書き消そうと思ってたのに」
「どうせ取り壊されるからこのままでいいんじゃない?」
こうして残されているのも他の生徒や先生も同じ考えなんだろう。
「な〜んかムカつくんだよね。知らないけど」
「そ、そう……」
「陽也くん何か知ってるんじゃない?」
「……存じませんわ」
不法侵入するくせに落書きは許さないようだ。
「指で消せないかな」
「やめとけって」
「なんでこんなムカつくんだろ。書いた相手も書かれた相手も知らないはずなのに……」
「どうして僕を睨む?」
「ほんっとうに陽也くん無関係?」
「く、くどいぞ! 見つかりたくないからそろそろ出るぞ!」
「あ! 待って! まだあいつ消してないー!」
とうとうあいつ呼ばわりし始めたよ……。書いた張本人は僕なんだけど、何が美咲を駆り立てたのだろうか。正義感とは無縁そうなのに。
「まったく。何がそんなに気に入らないんだよ」
「あたしだってわかんない!」
お互いに小競り合いをしながら校舎を出た。先生とばったり鉢合わせ、なんてお決まりのパターンにならなかったことに胸を撫で下ろす。
「それで行くんだろ? 妹さんのところ」
「うん。今日はお父さんのところにいると思う……」
ドアを閉め終わるとすぐ後ろで物音がした。
僕はもっと深く考えるべきだった。どうして旧校舎の鍵が空いていたのか。ただでさえ入る機会のない旧校舎の鍵が空いていたのか。この可能性を最初に考えられなかったのは、美咲と一緒にいるのに僕もどこかで浮かれていたのかもしれない。だからこんな簡単なことを見落としていた。深く考えていなかった。
——先客者が誰なのか。
「こんなとこまで来たんですね。姉さん」
「……栞?」
旧校舎から姿を現したのは、今から会いに行くはずの結城栞だった。




