第23話 守ってみせる
唐突に告げられた言葉の意味を理解するのに、瞬き数回分の時間を有した。
意味を理解しても受け入れられない。
だって言ってたじゃないか……。連休が明けたら転入の手続きが終わってようやく家族一緒に暮らせるって。美咲と栞は少し気まずい関係だったけど、それもそのうち慣れてくるはず。美咲なんかプレゼントまで買って距離を縮めようとしたんだぞ?
そのためにずっと頑張ってきたってのに……。
「暮らさないことになったって……なんで……?」
「なんで楠先輩がそんなに動揺しているんですか?」
栞は目を見開いたまま流れる涙を拭いもせずに笑顔を見せる。口元だけで笑っている。酷く痛々しい虚無の笑顔で。
「……結城さん」
「なんですか? これ?」
まだ使っていないタオルを差し出した。
「とにかくそれで涙を拭いて」
「へ? わたし泣いてなんかいませんよ?」
「〜〜っ!」
あっけらかんと栞は言い放つ。それこそ友達同士でやる軽いやり取りみたいな調子で。自分が泣いていると全然気づいていない。
なんの疑いもない自然な声の調子が、流れている涙とあまりにも噛み合っていなくて僕は思わず息を呑んだ。
ここから先を知るのがこわい……。これ以上踏み込むのがこわいと思ってしまった。
「わぷっ!? 先輩何するんですか!」
多少強引だが、栞の目元をタオルで覆った。
「いいから! 大人しくしてて!」
「変態ですよ! セクハラで言いつけます!」
口ではそう言いつつも、栞は少しも抵抗しない。
「結城さん、落ち着いて話してね」
「なんですか急に」
心臓が飛び出そうなくらい鼓動を打っている。よく見ると僕の手は小刻みに震えていて、唇はカラカラになっていた。
知る覚悟がまだ出来ていないと身体が訴えているのか、それとも知ってはいけないと警笛を鳴らしているのか、どちらにせよ僕が怯えているのは確かだ。
知ったら、知ってしまったら、もう忘れられない。そんな気がした。
「何があったのか僕に教えてくれないかな?」
「っ……いいですよ」
一瞬栞の身体に緊張が走った。
「僕の聞いた話だと、結城さんはゴールデンウィークに家族と旅行に行ってたんだよね?」
「わたし楠先輩に教えましたっけ? まあいいか」
そう。考えてみればここからまずおかしい。僕もなぜ今更になって思い出した? 美咲と栞はご両親と三泊四日の家族旅行に出かけている。学校で鉢合わせるはずがないのだ。
「行きましたよ。途中で中止になりましたけど。でも楽しかったです」
「……楽しかったのなら何より。でもどうして中止に? 向こうは天気が悪かったとか?」
「天気はこっちより良かったんじゃないですか? 多分」
「仕事や急な都合とか?」
「違います」
「……じゃあ、どうして?」
続きを知るのがこわい。頭に浮かんでくる最悪のケースはより一層膨らんでいく。
「……姉さんがわたしにプレゼントを渡してきたんです。それでお父さんとわたしが先に帰ることになって……」
「ちょ、ちょっと待って! 先に帰るって!? さっき仕事や急な都合じゃないって言ったじゃないか!」
「はい……。言いましたけど? あ、お母さんも後から帰ることになりました……ぁえ?」
「は……? な、なんだ……それ……」
栞の喋っていることがまるで理解できない。じゃあ美咲はまだ向こうにいるのか?
「お母さん……? あれ……でもお母さんはずっと昔に居なくなって……父さんとわたしは……っ!」
「ゆ、結城さん?」
「お、お母さん……? なんで……? 知らない子供って……? っ!
栞の身体が小刻みに震えているのに気づいた時、僕はこれまでの浅はかな考えの自分を呪った。
「ゲホッ! ゲホゲホッ! うっ! おぇえっ! ぉええっ!」
「栞!」
バチャバチャと吐瀉物が床に飛び散る。栞の目元を覆っていたタオルを口元に持っていくが、間に合わなかった分が僕の身体にかかる。
「おえええっ」
「栞! しっかりしろ!」
「は……はーっ、はーっ……。おぇっ」
「大丈夫だから! 気にしないで全部吐いていいから!」
『大丈夫』と僕は自分にも言い聞かせた。
「はーっ……はーっ……はーっ……!」
「……落ち着いた?」
タオルの反対側の汚れていない箇所で栞の口元を拭った。
「家族……? よく言えますね先輩」
「結城さん……?」
前に栞が見せた憎しみや怒りが凝縮された目だ。あの時の何倍も強くて、それでいて今にも栞が消えてしまいそうなほど不安定だった。
「あの人が姉さん……? 冗談じゃない!」
怒号が教室に響く。
「あの人が渡してきた物……」
「……僕が付き添って買ったんだ。美咲は一生懸命悩んで選んでたんだ。君が喜んでくれると思って——」
「ふざけるな……! 父さんとわたしを滅茶苦茶にした女が使ってた物なんて……よく渡せますね!」
「な……!」
こんなことがあっていいのか……?
僕は神様を信じているわけではないけど、今だけは信じざるを得なかった。災厄をばら撒く疫病神を。
「しかもそれをわたしに使って欲しい!? どこまで馬鹿にすれば気が済むんですか!」
「違う! 美咲はそんなつもりで君に渡したんじゃない! ただ喜んでほしかったんだ! 昔みたいに仲良くなって! 楽しく一緒に暮らしたかったんだ! ……その化粧品のことは……美咲は知らなかったんだよ」
知っていたら絶対に渡さない。いくらなんでもあんまりだろ……。
「わたしだって最初は断ったのに……! つけてあげるとか教えてあげるとか……嫌がるわたしにしつこくするのも、仲良くするためなんですか!?」
「そ、それは……早く身につけてほしかっただけで」
「前から気になってましたけど、楠先輩は随分あの人の肩を持ちますね?」
「……当たり前だろ。美咲は友達なんだから」
「親切で忠告しますけど、あの人にあまり入れ込まない方がいいですよ」
「どういう意味だよ?」
「あの人ああやって男の人に擦り寄るの得意なんですよ。お父さんにも愛想良くて、集まるといつも明るく振る舞って……そういうところもアイツにそっくり」
握った拳に力が入る。それは絶対に違う。美咲はそんな計算高い奴じゃない。明るく振る舞っているのだって、栞やお父さんと仲良くなりたいからだ。
「美咲はそんな奴じゃない!」
「勝手にしてください。ここ掃除して帰ります……あ」
「危ない!」
足元のおぼつかない栞を抱き抱えて寸前のところで支える。
「教えてあげます。わたしとお父さんは全部あの女の不倫で壊されたんですよ」
「は……?」
「たった一日の出来事でわたし達は全部壊された」
「し、栞?」
栞を支えるのにいっぱいいっぱいで、二度続けられた『壊された』という言葉の意味を考える余裕が僕にはなかった。
「あの人が色んな男の人に擦り寄る人じゃないなら、楠先輩は特別なんですよね?
「意味がわからない……今は僕のことは関係ないだろ」
「こんな感じだったかなぁ」
栞が僕の首に腕をきつく巻きつけると、機械音が耳元で鳴った。
「え? な、なに……?」
「あんな人がいたら、またお父さんが傷つけられる……もうお父さんにあんな思いをさせない。わたしが守ってみせる」
栞の声音に底しれない負の感情が宿る。
「いらない。いらない。わたしにはあんな人いらない。姉さんなんかいらない」




