第22話 最悪の二泊三日
解散が言い渡されると、それまで感じていた疲労が何倍にも膨れあがって襲いかかってきた。その場に倒れ込んでしまいたかったけど、そうはさせてくれないのが世の中を縛り付ける常識という名のルールだ。
二泊三日の遠征が終わり、僕は自分が住む街に帰っていた。集合は駅なのに解散は学校だなんて、何かしらの理由があるんだろうけど、今の僕は考える気力が全くない。
未だ残っている吐き気と立ちくらみにも似た不快感は、際限無く僕から正常さを奪っていく。
まっすぐ家に帰って休みたくても、足は地面に縫い付けられたように一向に動こうとしない。他の部員はとっくにいなくなっているというのに、僕は一人その場に立ち尽くしていた。
「どうした楠? 帰らないのか?」
「あ、いえ……大丈夫です」
「親が迎えに来るなら中で待っていたらどうだ? 連絡は取ったんだろ?」
「はい。大丈夫です」
「あまり遅くならないようにな。あと今日はゆっくり休むこと。自主トレ禁止」
「大丈夫です。わかってます」
早口で捲し立てて僕もようやくその場を離れた。
「……誰もいないな」
僕が向かったのは鍵の開いていた新校舎一階の空き教室。連休中に学校に来る物好きはいないだろうけど、先客者がいないことに胸を撫で下ろした。
適当な席に腰を下ろして机に突っ伏した。
親が迎えに来るなんてその場を取り繕うだけの真っ赤な嘘。どこでもいいから誰も居ない所に行きたかった。
目を閉じていると頭の中がぐらんぐらんと揺れ、吐き気がより一層込み上げてくる。昨日の夜も今朝も吐いて、胃の中はすっからかんなのに、不快感だけはしつこくこびりついている。
「ぁあっ……!」
文字通り最悪の二泊三日だった。初めて試合に出れると気力もコンディションも万全にして臨んだはずなのに、公開処刑と言っても過言ではない醜態を晒した。委員会や美咲の手伝いどうこうで済むレベルではない。あの場にいたのが場違いなレベルで僕の実力が足りていなかった。今まで部活ではそれなりについていけたと自負していたが、それがそもそもの間違い。
僕はただ三年間練習についていけただけで、戦力には全くなれていなかったのだ。試合に出られればと思い上がっていた自分が恥ずかしい。バッティングではダブルプレーをかまし、得意の守備でも致命的なミスをした。一週間もしないうちに地区予選が始まるのに、こうも身の程を知るとは思わなかった。
つい最近入ったばかりの一年生の一人は、僕と代わってから攻守において好プレーを連発した。相手チームからも賞賛の嵐、活躍を間近で見るたび、僕にかけられた励ましや労いが鋭利なナイフへと変わっていった。
僕の三年間は、積み上げてきたものは……と考えずにはいられなかった。
結局食事も喉を通らず、監督やチームメイトに心配をかけまいと詰め込んだが、自分が人間じゃなくなったと思うほど身体が受け付けず、人知れず全部吐き出した。
向こうでは一睡もとれないまま学校へ戻ってきた。
こうして突っ伏していれば眠れると思ったが、すぐに考えたくないことで頭が埋め尽くされる。
身体は疲労感でいっぱいなのに、一向に眠くならない。
「……やっぱり帰らないと」
空はここ最近続いていた快晴と違い、厚く薄暗い雲に覆われている。
朝食の時間に耳に入ってきたが、今日は午後から雨が降るらしい。傘も持っていないし、今の状態で雨に打たれたらそれこそ風邪を引いてしまう。一週間後には予選があるのに……。
「……」
——僕が試合出なくても影響はない。体調を崩しても関係ない。
「……もう部活行きたくない」
心の底から出た独り言は、空を埋め尽くす雨雲よりも暗い色をしていた。
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「あれ? 楠先輩?」
「しおり……結城さん? なんでここに?」
長い時間机に突っ伏していたからか、視界が少しぼやける。瞼をゴシゴシと擦ってみてもあま効果がないので、諦めて目が慣れてくるのを待つことにした。
「それはこっちのセリフですよ。ゴールデンウィークのど真ん中じゃないですか」
「僕は部活の遠征の帰りだよ。少し休んでから帰ろうと思ってさ」
「長旅ご苦労様です」
この感じだとさっきの僕の独言は聞かれていなかったらしい。まあ……聞かれていたところで今更何も変わらないが。
「結城さんは? 部活? 勉強?」
「……まあそんなとこです」
そう答えると、栞は教室に入ってピシャリとドアを閉めた。ただ軽い挨拶程度と思っていたのに。
「隣座ってもいいですか?」
「どうぞ」
結城さんは僕の返事を受け取ると、制服のスカートを畳んで椅子に腰を下ろした。パッと見た感じ、制服は着ているけど荷物の類が見当たらない。部室か自分のクラスに置いてきたのだろうか……。
「……」
「……」
僕に話でもあるのかと思いきや、栞は特に何かを切り出すわけでもなく隣に座ったままだ。知り合って間もないけど、多少は心を許してくれていると捉えていいのだろうか……。
隣に座る栞の様子を窺うが、靴下を上げ直しているだけで話を振ってくる素振りもない。一体なんのために隣に座ったのかと気になるところだが、彼女なりに何かしらの考えがあるのだろう。それとも僕が話を切り出すのを待っているとか……? そうだとしてもいくら記憶を探ってもそれっぽいものが出てこない。適当に話題を振って無視でもされたら今の僕なら十分に致命傷だ。実際連休前に思い切り無視されて、野上くんに笑い物にされている。
「……」
栞は依然沈黙を貫いたまま。この雰囲気が多少気まずいけど、今の僕は誰かと喋る方がよっぽどキツい……いつどこでボロが出てしまうかもわからない。適当に理由をでっち上げて帰ろう。
「楠先輩、一つ教えてもらえませんか?」
「な、何かな?」
長い沈黙を破ったのは栞の方だった。そこで僕はようやく彼女の顔を正面から見据えた。
「大事な人っていますか?」
「大事な人? 家族とか、友達……あと一応部活のチームメイト」
「そうなんですね。たくさんいますね」
「結城さんだって同じだろ? 友達も家族もいる」
ぼやけていた視界が大分戻ってきたおかげで、栞の顔が見えるようになってきた。
「ふふっ。そうでした」
「連休明けには家族みんなで暮らせるんだろ? よかったじゃないか」
違和感に気づいた時、僕は自分の迂闊さを後悔した。
唐突に、栞はこれまでない清々しい笑顔を見せた。
「その話なんですけど、姉さん達とは暮らさないことになりました」
一体どれほど追い詰められたらこんな顔ができる……以前見せた負の感情に染まった一面が栞を完全に押し潰した。そんな印象を受けた。心が死んだ時、人はこんな目をするのだと僕は知った。
絶望と一言で済ませるにはあまりにも闇が深過ぎる。栞が背負っていたもの、抱えていたものは到底中学生の女の子が受け切れるものではなかった。でなければどうしてこんな顔ができる……。
栞は綺麗な顔で笑っていた。
虚になった目から涙を流して笑っていた。




