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仄暗い青の世界

歩き出したことに意味はなかった。

ただ、やることがなかったから歩き出しただけ。

ただ、何もしていないことが耐えられなかった。

生まれてからずっと暮らしている見慣れた町の道をただ歩き、僕はよく知った公園にたどり着いた。

小学生の頃よく遊んでいた公園だ。

大人になった今では、随分と変わってしまっていて、昔遊んでいた遊具は今やブランコぐらいしか残っていない。

特に理由もなく、僕はそのブランコに座り、軽く、足が地面から離れないくらいの速度で漕ぎ始めた。

世界は変わってしまった。

あるいは、変わったのは僕だったかもしれない。

僕はポケットに入れたままにしていた、タバコを取り出して火をつけた。

雲が流れない青暗い空に紫煙が薫る。

この思考に意味はないかもしれないが、状況を説明しよう。


さっき言った、世界が変わってしまったというのは、簡単に言えば一つだ。

この世界の時間、あるいは空間が、僕以外を残して全てが止まってしまった。

歩いて、散歩している間になんとなく法則性もわかってきた。

この世界は僕が触れているものだけは動かすことができ、僕が触れていないものは全て触れるのをやめた瞬間から、その時を止める。


僕は中程までに吸ったタバコをふっと投げ捨てる。

すると、タバコは空中に固定されて、その軌道を止めた。

微かに燃える火種の明るさが、僕の眼前で僕の顔を照らす。

家で取りこぼした水の入ったコップは、僕の手から離れた瞬間にそのまま固まった。

気まぐれに蹴った小石は、僕の爪先から離れた瞬間に飛ぶことをやめた。

時間は、止まったことに気づいた時から、5時33分から動かないままだ。

仄暗い夜の延長線にある朝の空気は、いつまで経っても朝の様相を見せることはない。

生物に関しても同じだ。

道端にいる野良猫は、塀から飛び降りたその姿のままで固まった。

家で寝ている彼女は、呼吸をすることは無くなった。

ちなみに、僕が触れている間だけ、生き返ったりとか、そんなことはないようで、生命活動や命は時間に関わっているのか、触れても固まったままだ。

触ると、まるでとても精巧に出来た模型のように、触感はそのままに、作り物めいた硬さを感じさせる。


一つ、困ったのはインターネットだ。

電力やネットと言ったものまでには僕が触れているという法則は通用しないようで、あの瞬間からスマホはただの板、PCはただの箱と化し、僕の孤独を一層加速させた。

僕一人しか思考できないこの世界では、情報は意味をなくした。

僕は、漕いでいたブランコから少し勢いをつけて立ち上がり、また歩き出した。

また気まぐれに後ろを振り返ると、ブランコは僕が離れた瞬間の形で止まっており、鎖が反動によって撓んだ形で止まっている。

僕はすぐにそれに興味をなくしてまた歩き出した。


一つ、思い出した話がある。

5億年ボタンという話は知っているだろうか?

ある種の思考実験の一つで、話の主人公の前に、ボタンを押すと大金が貰える機械を持った人が現れて、押すかどうかの選択を迫ってくる。

その人の説明によると、ボタンを押すと、主人公は何もない空間に飛ばされて、そこでは死ぬこともなく、空腹もなく、眠ることも必要とせず、何も自分を縛るものはない。

その代わりに、5億年を底で過ごさなければならず、死ぬことは許されず、ただただ一人で退屈な時間を過ごさなければいけないと言う。

また、その五億年を過ごした期間の記憶はその人の中からはなくなり、その人からすると、ボタンを押した瞬間に大金が手に入るようなものだと言う。

さあ、君はこのボタンを押すか否か?と言う思考実験だ。


次に来たのはよく遊びに来ていた繁華街だ。

彼女の誕生日がもう少しだったのを思い出して、意味もなく来てしまった。

来るだけで辛くなることはわかっていたのに。

繁華街を歩いていると、彼女と楽しく出かけた時の記憶が蘇ってきて、この気持ちをどうしようもなく、大声で吐き出したくなってくる。

「アアアアアアアアア!!!!」

何となく、感情に任せるままに、気持ちの蟠りを声という形で吐き出してみた。

僕の声は虚しく、誰も居ない青色に焼けた朝焼けの繁華街に溶けて消えていった。

僕は狂い始めているのだろうか。

朝の青は焼けついたように繁華街のビル群を青に染みて見せている。

勿論、5時33分の繁華街ではロクな店も空いていない。

僕は、彼女が好きだったファンシーグッズ店にショーウィンドウを壊して侵入した。

普通なら警報や何やらが鳴り響くのだろうが、何もならなかった。

また、ガラスで怪我をする事もなかった。

割れたガラスに触れても、それはただ空中に浮いた物に当たっただけで、僕の体に押されて向きを変えただけだった。

電気はついておらず、暗いままだったので、ライターを付けてその朧げな灯りを手がかりに彼女へのプレゼントを探す。

コップや、アクセサリーはあんまりいい物がなかった。

その時、ふと一つの猫のぬいぐるみに目が止まった。

猫は彼女の好きな動物だった。

僕はその猫のぬいぐるみを手に取ると、その代金と同じだけの金額をレジに置いて、その店を後にした。

その後、街灯の下でその猫のぬいぐるみを改めて確認した。

5時33分とはいえ、この現代では明るいところもたくさんあるものだ。

その猫のぬいぐるみは仄暗い青色をしていて、まるで今の時間の化身のように見えた。

また、その目はひどく済んだ黒色をしていて、とても彼女を思わせた。

僕は彼女にこのぬいぐるみをプレゼントするのが楽しみになった。

僕はまた、歩き出した。


五億年ボタンに話を戻そう。

僕の知っている話では、主人公はそのボタンを押すと、本当に何もない唯々だだっ広い暗い空間に飛ばされてしまい、初めはなんとか退屈を凌ごうとするが、そのうち狂ってしまい、5億年が経つまで、狂ってしまうことも許されず唯々その時間を過ごしていく。

そうして、自分という概念もわからなくなるくらい精神を磨耗させた後、五億年から抜け出す。

すると、ボタンを持った人の言った通り、先ほどまでの地獄のような時間の記憶はなくなり、ただ目の前に突然、大金が現れ、主人公は喜ぶ。

そしてまた、ボタンを持った人は言うのだ。

「もう一度押しますか?」と。

主人公は勿論、記憶がなくなっているのだから、ボタンを押すだけでこんな大金が手に入る機会はないと思い、気軽にそのボタンを押してしまう。

そしてまた、地獄のような五億年間を過ごす。

そして、それを繰り返していくと言う話。


この思考実験のミソは、この人が幸せだと思うか不幸だと思うかという部分だと思う。

記憶がなくなるのだから、気付かぬままに大金を稼ぐことができるこの人はとても幸運だという人もいるだろうし、気付かないまま、何億年も虚無の空間で過ごし続けるその人は不幸だと言う人もいるだろう。

ちなみに僕は後者のタイプだった。

人は、時間が流れているから生きているのだし、時間が流れているから生を感じる。

5億年も、時間も何も感じないような場所に取り残されて過ごし、その後何もなかったかのように元の世界に戻されるその人は側から見ればとても滑稽で、意味もなく、バカバカしく、そのあり方がとても可哀想に思えたのだ。


そして今の僕の話に戻る。

この世界は五億年ボタンの世界に似ている。

僕以外の時間は止まってしまい、生きると言う意味も、人生という時間も何もかもを奪い取られてしまった。

五億年ボタンの世界といい意味で違うのは、この世界には物があり、今まで生きてきた人の残骸があり、僕はそう言った意味では孤独ではないということ。

五億年ボタンの世界と悪い意味で違うのは、この世界は5億年という縛りがなく、終わりがないかもしれないと言うこと。

もう一つ思い出したが、あの青い狸の出てくるアニメの話にも似たような話があった気がする。

メガネの男の子が、その狸の出すヒミツ道具を使ってしまい、自分以外が誰もいなくなった世界に閉じ込められてしまうと言う話。

その話では、もともといた世界で、他の人なんかみんないなくなればいいと思っていたメガネの男の子が、その時の気持ちを悔いて、青い狸や両親、友達に会いたいと心の底から悔いた時に、青い狸が助けに来てくれるという話だったと思う。

ま、この世界には青い狸もヒミツ道具もないから、そんな助けはそもそもないんだろうけれど。


時間が動いていたのが、昨日だったのか、一昨日だったのか、一ヶ月前だったのか、一年前だったのか、わからなくなってきた。

時間の感覚がなくなってきたのだ。

でも、時間の動いていた時の、最後の日の記憶は、いつでも、昨日のことのように思い出せる。


僕は家に帰ってきていた。

ガチャリ、と開けなれた玄関の扉を開くと、嗅ぎ慣れた我が家の匂いがする。

それと、確かな鉄錆の匂い。

荒れた室内を土足のまま踏み荒らし、僕は寝室に向かった。

ベッドの上には呼吸するのをやめた彼女。

電気がついていないその部屋は、人工的な灯りの代わりに、青い、青い、夜明け前の色が、部屋全体と君を包み込み、照らしていた。

その色はとても彼女に似合っており、彼女の美しさをより一層引き立たせた。

彼女の瞳はこちら、部屋の入り口を見ており、驚愕と諦めと苦痛に満ちた複雑な表情で僕を迎える。

僕は、彼女の横に座り、「ただいま」と声をかけた。

「今日はプレゼントを買ってきたんだ。もうすぐ誕生日だったろ?ぬいぐるみはあげすぎてしまって、もういらないかもしれないけど、それでも頑張って考えて、選んできたんだ」

そう言って、繁華街で手に入れてきた猫のぬいぐるみを彼女に見せて、その傍に置く。

硬直した、生きているものとは思えないその頬を撫で、キスをする。

「本当に君には青が似合うね」

今も、この部屋は君を思わせる澄んだような、それでいて静かで重い青が支配している。

でも、この部屋は完璧じゃなかった。

僕はポケットからタバコを取り出そうとして、ハッとして、ベランダに移動した。

彼女は部屋の中でタバコを吸うことを嫌っていたから。

僕はベランダに出て、タバコに火をつける。

空は、もう10分もすれば日が上りそうな様子で白んでいる。

その白と青の世界にまた紫炎を燻らせた。

僕はいろいろなことを考えた。

いろいろなことを。

君のことを。

君のことばかりを。

僕の中には君しかないから。

いろいろなことを考えると言っても、君のことしか考えられないんだ。


タバコを吸い終えた僕は部屋の中に戻る。

この部屋は完璧じゃない。

なぜならどす黒い黒があるから。

彼女の胸から、下腹のところにまで続く、赤と、白と、黄色と、黒と、紫があるから。

それをやったのは僕だ。

昨日のことのように思い出せる。

それから先、僕の時間はその瞬間から止まってしまった。

僕にとってそれだけ彼女が僕の全てだったと言うことだろう。

あんなに青が似合う君の中にもこんなに醜いものが中に詰まっていたんだね。

それでも好きだった。

それでも好きだ。

今も変わらず。

時間が止まっているからだろうか?

僕の気持ちも、どれだけこの世界を歩き回っても全く変わることがない。

変わることがない。

君が呼吸をやめたその時に、僕の時間も止まったんだ。

止まってしまった。

人生の意味も、生きる価値も、これから先の時間の価値も全てなくなった。

時間が止まったのは僕にとってむしろ幸運だったのかもしれないし、当然だったのかもしれない。

僕は君の横に体を横たえる。

君の、開いた瞳孔を覗き込み、生きていた頃の君の面影と思い出に想いを馳せる。

心の中で、いつでも明るく澄んで、笑っている君を再生できる。

君の頬に手を触れる。

体温は感じないけれど、君がいることを感じる。


「おやすみ」


僕は君の隣で目を閉じた。

どうか時間が進みませんように。

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