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まだ見ぬ夜明けとメープルラズベリーラテ

作者: まる


「難しいな」

 メニューを見ながら貴一(きいち)は呟いた。甘いのもいいけど、しょっぱいのも美味しそうで悩む、と。

 いつもの口癖だ。考えあぐねた時や、ぼうっとして適当な相槌を打つ時に、貴一は無意識にこの言葉を口にする。

 貴一との待ち合わせの場所にわたしは表参道にある、前々から行きたいと思っていたカフェを選んだ。鮮やかな赤色を基調としつつ、白や木目調のシンプルな家具でまとめられた品のある内装は、センスの良さとアットホームな温かさを兼ね備えている。週末の午前九時だというのに、店内はカップルや女性客を中心に賑わっていて、短いながらも外にはすでに空席を待つ客の列ができている。

 例年よりも寒さの厳しかった冬がようやく終わり、待ち侘びた春の訪れを感じる爽やかな朝の空気の中、こんなに素敵な空間でわたしは貴一と向かい合っている。今日が待ち遠しくて、今週はずっとため息ばかりついていた。今朝は目覚ましのアラームが鳴る前にばっちり目が覚め、着る服を選ぶのにもメイクをするのにも意図せず普段より時間をかけてしまった。いつもそうだ。平静を装いつつも、わたしは貴一と会えることへの胸の高鳴りをどうすることもできない。それにも関わらず、わたしの心は手放しでは喜べないでいる。


 更科貴一(さらしなきいち)とは、大学に入ってすぐに知り合った。少しでも自分の世界を広げたくて、わたしは住み始めたばかりの一人暮らしのアパートとこれから二年間通うキャンパスのちょうど中間にあたる、少し栄えた駅のコーヒーショップでアルバイトを始めた。貴一はその店ですでにバイト歴四年目で、新しいバイトの教育を任されていた。

 彼に抱いた第一印象は、爽やかでかっこいい人。年齢は彼の方が三つ上だが、俺のことは呼び捨てでいいよ、と言われたので、初めて会った日から彼のことを「貴一」と呼んでいる。

 普段わたしは、年上の人、特に初対面の年上の人の前では借りてきた猫のようになってしまい無意識に距離を取るのだが、不思議と貴一には壁を感じなかった。貴一はいつもこざっぱりとしていて、誰にでも愛想がいい。他の大学生のバイトがよく言う、おざっす、というようないい加減な挨拶は決してせず、おはようございます、お疲れ様です、ときちんと言う。十代の頃に親の仕事の関係でアメリカに三年ほど住んでいた帰国子女なので、英語もペラペラだ。店に来た外国人の客と英語で談笑しているのを見たことがある。それでいて、一切押し付けがましさを感じさせず、鼻にかけるようなこともないのだ。わたしは堅苦しいのが苦手なこともあり、貴一のざっくばらんとした話しぶりや気軽さが心地よかった。おまけに、話してみると貴一とわたしは好きな音楽や食べ物の趣味、笑いのツボまでよく気が合った。

 わたしが貴一を意識するようになるのに長い時間はかからなかった。でも、貴一の愛想の良さは誰に対しても平等に向けられたもので、わたしが特別なわけじゃない。だから、それだけだったら、彼との付き合いはこんなに長く続かないはずだった。


 周囲の人たち曰く、わたしは脈絡のない話をすることが多いらしい。昔からそのことをからかわれることが度々あった。

 例えば、高校時代に学食で級友とカレーライスを食べていた時のことだ。ふと数日前にテレビで見た、海上自衛隊の特集を思い出した。海上での生活は曜日感覚を狂わせるので、対策として隊員たちは毎週金曜日にカレーライスを食べる決まりになっているらしい。そこから、海の上で生活するってどんな感じなんだろう、世界一周するクルーズって途中で船上生活に飽きちゃうんじゃないかな、とわたしの頭の中で想像が広がっていく。スプーンを置いて、わたしは同じテーブルにいる級友に尋ねた。

「ねえ。クルーズ船に乗るとしたら、何日間くらいが飽きずに楽しめる上限だと思う?」

 こんな風に話しかけると周囲の人たちは決まって、突然なんの話、と戸惑ったり呆れたりした反応をする。そういうことを数回繰り返すと、また有希(ゆき)の脈絡のない話だ、とたわいもないこととして笑ってすまされるようになる。そうなるとわたしもそれに対して、ちょっとからかわないでよ、と冗談っぽくムッとして見せたりして、適当に次の話題に変えるようにしている。

 わたしにとっては脈絡の()()話なのだが、これは誰にも共感されない、わたしの変な感覚なのだろうと諦めていた。

 ある時わたしはそのことを自虐的に貴一に話した。変わってるねと笑ってくれればいいな、くらいの軽い気持ちで言ったのだが、貴一は真面目な声色で言った。

「俺は有希ちゃんの話が脈絡ないとか変だって思ったことないよ」

 そんな風に言われたのは初めてだったから、なぜ貴一は他の人たちと同じように思わないのか、不思議に思った。なんでだろう、と呟いたわたしに、貴一はふっと笑って、さも当たり前のように言った。

「俺たちは似ているからだよ」

 その瞬間、貴一はわたしの中で特別な存在になった。


 幼少期から親の期待に応えなければいけないと、わたしはある種の強迫観念のように優等生な自分を守って生きてきた。実家で生活した十八年間、わたしは常に両親の意向に沿った選択をすることを言外に強いられた。兄のように自分も習い事に行きたいと両親に言った時は相手にもされなかった。中学に入学してから間もなく、当時仲の良かった友人たちと同じ部活に入りたかったが両親に駄目だと言われた時、わたしはどうしても我慢できなくて、初めて両親と大喧嘩をした。お互い一歩も譲らずヒートアップした言い合いも、最後には「勝手にしなさい!」と突き放されて、それから一ヶ月間わたしは両親にまともに口を聞いてもらえず、昼食のお弁当を作ってもらえなかった。お小遣いももらっていなかったわたしは、毎朝両親が目覚める前に起床して、炊飯器の中にあったご飯を握っておにぎりにして学校に持って行くことでその期間をどうにかしのいだ。結局、習い事も部活も、親に反対されたことは全て諦めた。

 そんな不甲斐ない自分の自尊心を守るためにわたしは、自分は優しくて親想いなのだ、だから親を悲しませることはできない(たち)なのだ、と考えるようになった。でも、そうではない。本当のわたしは怖いのだ。そんな両親であっても、当時のわたしにはかけがえのない心の拠り所だった。どんなに傷ついても、どんなに苦しんでも、両親はわたしを愛していると信じて疑わなかったし、そうすることで自分を保っていたのだと思う。でも、心の奥深いところで、実際はそうではないことを感じていた。だからわたしは、常に満たされず、必死に現実の暗がりから目を逸らして、少しでも遠くの、まだなにも確定していない未来だけを見つめていた。

 転機は高校受験だった。わたしは県内で一番の進学校に合格することができたのだ。周囲の大人たちは、有希ちゃん◯◯高校に合格したんですってね、すごいわね、優秀なお子さんで羨ましいわ、と口々に両親にお世辞を言った。世間体を気にする両親は大層機嫌を良くして、国立の有名大学ならばわたしの大学進学を認めると言ってくれた。だからわたしは大学では絶対地元を離れると決意して、そのために親が納得する都会の有名国立大学合格を目指して、必死に受験勉強に励んだ。高校の三年間のほとんどをわたしは学校の図書室で勉強をして過ごし、これといって「青春」と呼べるような思い出はできなかった。友達はたくさんいたし、高校生活が楽しくなかったわけではない。でも、心のどこかでいつも両親や教師、周りの大人たちに遠慮をしている自分を感じていた。そして、そんな自分の殻を壊せない等身大の自分から目を背けていた。そのせいかはわからないが、大人になった今でも時々、わたしは学生時代の夢を見る。夢の中でのわたしは決まってクラスメイトの輪の中心で、友人たちと笑い合ってバカをしている。誰にもなんにも遠慮することはない。何気ない青春の一ページと言えるような日常を謳歌している。


 貴一とはまだ多くの言葉を交わしたわけではなかったし、ましてやこんな風に重たいトーンでわたしの半生を語って聞かせたことなんてもちろんない。わたしは人とおしゃべりをすることは好きだが、自分の内面を他人にさらけ出すことが苦手だ。それは相手が家族であっても、親友であっても、貴一であっても変わらない。

 だけどなぜかあの時の貴一の言葉 ——「俺たちは似ているからだよ」—— は、静寂な水面に一滴の雫が落ちて波紋が広がっていくように、すっと入ってきてわたしの心を揺さぶった。理性じゃなく、とても感性的なものだったから、思考はまったく追いつかなかったが、それはきっと「この人はわたしをわかってくれる。わたしはもう一人じゃない」という感覚で、そんな切実な期待が心の中に生まれたのだった。

 それからもわたしと貴一の関係は変わることはなかった。当時、貴一には長く付き合っている彼女がいて、わたしが貴一へ好意を打ち明けることはなかったし、わたしもその後、同じ大学の子に告白されて付き合ったりしていた。貴一が社会人になってからもしばらくは時々連絡を取ったり、夏には他のバイト仲間も交えて海へ遊びに行ったりしたが、社会人二年目の春に貴一は転勤で福岡へ行ってしまった。

 それからは年に一度、お互いの誕生日におめでとうLINEを送りあうのが、貴一とわたしの唯一の接点になった。その内、貴一はわたしの誕生日にLINEを寄こさなくなるだろう。そうなるとわたしも送ることをやめて、そうやってわたしの中で彼は思い出として完全にアーカイブされる時がいずれ来るはずだった。

 大学三年になるとわたしはバイトを辞めて就活に励んだ。幸運なことに、希望していた消費財の会社に入社が決まり、わたしは残りの大学生活を人並みに満喫して、新社会人になってからは慌ただしい日々に没頭した。そうやってわたしの人生は一定の充足感とともに穏やかに過ぎていった。

 しかし、今年になって転機が訪れた。兼ねてより希望していた本社の花形部署への栄転が決まり、東京へ戻って来ることになったと、貴一から連絡があったのだ。

「有希ちゃんは最近どうしてる? 近況を聞きたいし、会えると嬉しいな」

 わたしの胸は高鳴った。だが、同時に怖くもあった。この数年の間に彼が変わってしまっていたらどうしよう。そうでなくても、そもそも彼にとってわたしはただの友人だ。不毛な片思いはつらい。せっかく彼のことを忘れ始めていたのに。会わずにいた方がいいのではないか。わたしは悩んだ。

 それでも結局わたしは貴一に会わずにはいられなかった。そして一度だけ貴一とご飯に行くことにした。せっかくだから栄転のお祝いをしよう、と言うと、ぜひ、とすぐに返事が来た。約束の前日はあまり眠れなかった。

 久しぶりの再会はパリのおしゃれな街角を思わせる人気のビストロで、貴一へお祝いのデザートプレートを予約しておいた。会うのもまともに話すのも数年振りで、緊張で表情までこわばっているのが自分でもわかる。賑わっている店の前まで来て立ち止まり、一つ深く息を吸う。店に入ると貴一はすぐにわたしに気づき、有希ちゃん、こっち、と笑顔で手を振った。雰囲気は少し大人っぽくなっているが、そこにはわたしの知っている屈託のない笑顔があった。わたしの不安はすぐに霧が晴れたように消えてなくなり、知り合った時のままの居心地の良さが蘇ってきた。懐かしさが込み上げて、緊張がほどけていくのがわかった。

 食事をしながら、貴一はわたしにいろんな話をしてくれた。本社での仕事のやりがい、九州で見つけた美味しい食べ物やお気に入りの温泉、共通の友人たちの近況など。貴一の目を見て、話を聞いて、笑ったり驚いたり大袈裟にリアクションを取りながら、わたしの心は半分ここにあらずだった。

 もっとこの声を聴いていたい。ずっとこの屈託のない笑顔を見ていたい。心の中で、わたしはぽつりと呟いた。

 ああ、わたしはやっぱりこの人が好きだ。

 それから数ヶ月、わたしと貴一は頻繁に連絡を取りあった。お互いの休日が重なった時は、一緒に行ってみたかったお店を巡ったり、話題の映画を観に行ったりした。新しい環境では貴一も思いの他ストレスを感じることが増えたらしく、わたしと会う時にも徐々に仕事の悩みや相談などを話してくれるようになった。

「有希ちゃんと話してると癒されるよ」

 そう言われて、わたしはとても嬉しかった。そして先月の頭についに、わたしは貴一に思いの丈を打ち明けた。その時に貴一が言ったのが、いつもの口癖だった。

「ありがとう。有希ちゃんの気持ちは嬉しいし、俺にとって有希ちゃんは大事な人だ。だけど俺、本社配属になったからにはこれまで以上に仕事に打ち込みたいから、しばらくは誰かと付き合う気はなかったんだ……でも、有希ちゃんが他の男と付き合うのは、わがままだけど正直、嫌だ。どうしたらいいんだろう。難しいな」

 告白への返事がイエスでなかったことに対する落胆よりも、ノーでなかったことに対する安堵で、わたしは一つ深いため息をついた。

 状況が変わるまで答えを出すのは難しいが、わたしとの関係を真剣に考えてみると言う貴一に、わたしは言った。

「わかった。答えが出るまで待ってるね」

 貴一は少し申し訳なさそうで、同時に安堵したような笑顔でわたしを見て、ありがとう、と呟いた。

 でも、実のところ、なにも難しいことなんてないと思う。ただわたしのことを好きって言って、ずっと目を離さないでいてくれればいい。それだけなんだから。


 そんなことを頭の中で巡らせていたら、お待たせいたしました、と店員が期間限定のメープルラズベリーラテを運んできた。上品な香りが鼻をくすぐり、わたしの気分は高揚する。

 期間限定という言葉は魅惑的だ。わたしが小学生の頃に好きだった漫画の主人公はロックな女で、好きな物は昔から変わらずセブンスターと苺のショートケーキだと言っていた。わたしは、そういう自分の軸を持っている人に憧れている。でも、こうやって限定の味があるとついそれを注文してしまうから、いつまで経ってもわたしは憧れる人のようにはなれない。

 カップに添えてあるコーヒースプーンを持ち上げて、白みがかったモカ色の泡と鮮やかな紅色をしたドライラズベリーの欠片を掬って口に入れる。ほのかな苦さの中に甘酸っぱさが広がる。

 ほどなくして、このカフェでわたしの目当てだったパンケーキが、大きな白磁の皿に載って運ばれてきた。真っ直ぐに重ねられた三枚のパンケーキの上には、輪切りにされたたっぷりのバナナと大ぶりのくるみがごろごろと載っている。

 メープルバターは甘味が強いのでお好みで調整してお使いください、と言い添えて店員が去っていくとすぐさま、まずはそのままでパンケーキを一口齧る。生地は薄めでしっとりしている。わたしはスフレタイプのふわふわなパンケーキが好みだけど、しっとりした食感も中々に美味しい。

 続いて一口大に切り分けたパンケーキに、小瓶に入ったメープルバターを少しだけ垂らしてみる。思ったよりも甘味を感じない。和菓子も洋菓子も大好きで、都内の有名菓子店はほぼ網羅していると言っても過言ではないほど甘い物に目がないわたしには、ちょっぴりのメープルバターでは物足りないみたいだ。

 小瓶に入っている残りを一気にパンケーキにかけると、

「全部かけると甘すぎるんじゃない。店員さんも言ってたじゃん」

 と貴一が言う。

「そう思うでしょ。でもこのメープルバター、そんなに甘くないの。ちょっと食べてみて」

 メープルバターがしっかりと染みた部分を一口大にフォークに刺して差し出すと、貴一は大口を開けてパクっと食べた。

「本当だ。こんなにたっぷりかけても甘すぎない」

「でしょ。わたしも貴一も甘党だからね。そんじょそこらの甘さじゃわたしたちには敵わないのよ」

 なにそれ、と貴一が笑う。

「上に載ってるバナナとくるみも食べたい」

「いいよ」

 バナナとくるみを上手く載せようとしていると、自分でするからちょっとフォークを貸して、と言われてわたしはムッとする。

「アーンってしたかったのに」

「ははは。じゃあアーンってして」

 貴一とのこんなやり取りがわたしは大好きだ。

 なのにそれから二週間、貴一からはなんの連絡もなかった。


***


 週末の昼下がり、わたしは京子(きょうこ)を誘って駅前のマクドナルドにいた。

「わたしつらい」

「相変わらず振り回されてるね」

「はあ。もう、どうしたらいいんだろう。告白してしばらくはマメに連絡くれてたのに、だんだん返事は遅くなってるし。あっち発信での連絡なんて、最近は全然ないよ」

 紙コップに入ったコーラをストローで啜って、京子は言う。

「どうしようもないんじゃない。有希の話を聞いてた限り、告白にあんな返事をした時点で、更科さんがこういう風になるだろうってことは明らかだったよ」

「わかってる」

「なんて言うか、お疲れ様」

 京子の言う通りだ。わたしも頭では、こんな風になる可能性が高いってわかっていたはずなのに。

 悩めるわたしを尻目に、ポテトを漁る京子の手は止まらない。

「京子ってマック大好きだよね」

「うん。好きだよ」

「わたしも嫌いじゃないけどさ、年に数回しか食べないよ」

「私は毎日でもいける」

 例えじゃなくて、本心で言っているのが京子のすごいところだ。京子はマクドナルドやファミレスなど庶民的なお店が好きで、わたしは京子と二人で会うときは必ずそういうお店を選ぶ。落ち着いていて品のいい雰囲気が好きなわたしは、他の友達とお茶したり一人で出かける時には大抵オシャレな店を選ぶので、京子と会うときくらいにしかこういう店には来ない。

 親友の贔屓目を抜きにしても京子は美人だ。キリッとした眉毛に、くっきりした二重瞼。長いまつ毛。スッと通った鼻筋。

 一度、わたしの興味本位で、乗り気ではない京子に無理やりマッチングアプリの登録をさせたことがあった。顔写真一枚しか載せてないすかすかなプロフィールにも関わらず、あっという間に数百ものいいねが舞い込んできた。

 それだけではなく、京子は人当たりがものすごく良い。だから、老若男女問わず、行く先々で人に好かれる。

 この夏に二人で海外旅行に行った時、スーパーのレジでわたしたちの前に並んでいた現地の男が京子に話しかけてきた。彼の順番が来ると「それ俺が一緒に払うよ」と言って、京子が買おうとしていたミネラルウォーターの代金を払ってくれた。

 そんなこと普通あるか、とわたしは驚いた。だが当の京子はただ、いい人だったね、とだけ言って、特段気に留めている様子もない。これが京子の平常運転なんだなと、わたしは感心してしまった。

 金矢京子(かなやきょうこ)との出会いは高校三年生の時だった。

 わたしたちの高校では、進学希望先の偏差値によってクラス分けをされるのだが、わたしも京子も同じ大学を第一志望にしていたため、三年時に同じクラスになった。

 夏休みのある日、模試を受けるために駅に向かったわたしは改札の前で財布を家に忘れてしまったことに気づいた。試験開始の時間が迫っていたので家に取りに戻るわけにもいかず、汗をダラダラ流しながら立ち尽くしていたわたしに、後ろから、ねぇ、どうしたの、と声をかけてきたのが京子だった。

「同じクラスだよね。名前、なんだっけ」

吉川有希(よしかわゆき)です。えっと、実は……」

 財布を忘れたことを話すと、京子はスッと自分の財布から千円札を取り出した。はい、とその千円札をわたしに手渡すや否や、改札を通ってホームの人混みに消えて行った。

 翌日、わたしはお昼休みに模試の会場で京子を探した。京子は自分の席で一人、スマホをいじりながらコンビニ弁当を食べていた。咳払いをして、恐る恐る声をかけた。

「あの、金矢さん。昨日は電車賃を貸してくれてありがとう。それで、これ、借りたお金」

 わたしは千円札を入れた封筒を京子に差し出した。顔を上げた京子がわたしの顔をじっと見る。

「ああ、昨日の。ありがとう」

「よかったら昨日のお礼をしたいんだけど、午後の試験が終わったら一緒にカフェでもどうかな。調べたら近くに雰囲気の良いところがあってさ」

「カフェは、興味ないかな」

「そうかぁ」

 がっかりして視線を落とす。

「でも、マックなら行くよ」

「本当? じゃあそうしよう」

 その時わたしはてっきり、京子はわたしに気を遣って安いお店を指定してくれたのだと思った。だが実際は、単純にマクドナルが好きなだけだった。現にその日、京子はビッグマックにポテトのLサイズ、コーラにチキンナゲットにアップルパイも注文して、わたしはオシャレなカフェにあるケーキセットよりも高い金額を払うことになった。

 そんな遠慮のないところと、それまで京子に対して抱いていた印象との落差が大きくて、わたしはなんだかおかしくなった。

 やっぱり試験の後はマックに限るね、と笑ってる京子を見て、なんだかこの子とは長い付き合いになりそうだなって予感がした。


 夜、帰宅してテレビを見ていたら、卓上に置いたスマホが鳴った。貴一からのLINEだ。

 大学の友達の結婚式があって、久々に旧友と会えてすごく楽しかったというメッセージと、二次会で盛り上がっている写真がいくつか送られてきた。

 わたしのことには一切触れてこないけど、少なくとも貴一はわたしに冷めたわけではないんだと思った。ほっと胸を撫でおろす。

 最近貴一からのLINEは以前と比べるとめっきり少なくなって、わたしから連絡しても返信が来るまでの時間は日に日に長くなっている。でもきっと問題の本質はそこじゃない。不安になってしまう原因はわたしの考えすぎだ。わたしが貴一を真っ直ぐに思っていれば、きっと貴一もわたしを大事にしてくれるはず。そう自分に言い聞かせて、努めて明るい声色で書いた返事を送信した。


***


 うっかりしていた。今日は夕方から雨だと朝の天気予報で言っていたのに、折りたたみ傘をバッグに入れるのを忘れてしまった。ため息をついてスマホで天気予報アプリを開く。どうやらもうすぐ雨は止むようだ。エントランスを出て空を見上げるが、今のところ雨足は弱まっていない。どうしたものかと立ちすくんでいると、背後から葵くんに声をかけられた。

「吉川さん、お疲れ様です」

「お疲れ様。(あおい)くんも今帰り?」

「そうです。もしかして、傘持ってないんですか?」

「そうなの。でも、もうしばらくしたら雨止みそうだから、どこかで時間潰そうか考え中」

「だったら、一緒に隣のファミレスに行きませんか? 俺、夕飯まだなので食べて行こうと思って」

 あまりお腹は空いてないけど、時間を潰すにはちょうどいい。それじゃあ、とお言葉に甘えてご相伴にあずかることにした。

 わたしは大学卒業後、外資の消費財メーカーに就職し、マーケティング部に配属された。葵翔吾(あおいしょうご)くんは、わたしが今年度から参加している新製品のプロジェクトチームで長期インターンをしている大学生だ。快活で仕事熱心だけど、時折ある飲み会では部長やベテランのおじさんたちにも臆せず話しかけて、彼らが長々と自慢話や昔話をしてる間ずっと聞き役に徹しながら空いたグラスには酒を注ぎ、そうやって仕事の内外問わずとてもかわいがられている。彼はわたしの母校に通っていて、つまりわたしとは大学の先輩後輩という関係があり、彼はわたしにもよく質問したり話しかけに来る。先週も仕事終わり、会社を出るタイミングがちょうど葵くんと重なった日があった。その時も後ろから声をかけられて、世間話をしながら駅まで一緒に歩いたのだった。

 テーブル席に案内されると、メニューをさっと見て葵くんはハンバーグとチキンソテーが乗ったミックスグリルを注文した。ライスは無料で大盛りにすることも可能ですが、と尋ねる店員に、大盛りで、と葵くんは迷わず答える。わたしは仕事の合間にコンビニで買ったサンドイッチとサラダを遅めのランチで食べていたので、食べ物は頼まずにドリンクバーだけを注文した。

「吉川さんにこの前教えてもらったバンド、俺最近よく聴いてます」

「え、本当? 聴いてみてどうだった?」

「すごくよかったです。どの曲も旋律から感情が伝わってきますよね。だから、詩にアイラブユーみたいな直接的な表現がなくても、いや、むしろないからこそ感じるものがあるというか」

「葵くんわかってるね! そうなの、曲も詩も表現がグッとくるの」

 つい興奮してしまったわたしに驚いて、葵くんがはにかんだ笑みをこぼす。

「俺、好きな歌を選ぶ時、曲だけじゃなくて詩も大事にするんです」

「わたしもだよ。曲と詩の組み合わせがいいと表現に深みが出て、何度も何度も聴きたくなるの。マリアージュみたいな」

「マリアージュ、ですか」

「うん、ワインとフランス料理とかによく使われる言葉なんだけど、簡単に言うと相性みたいなもの。お互いの魅力を引き出しあって、より優れた味わいになる、みたいな」

「なるほど。なんかわかる気がします」

 本当に共感したのか、合わせてくれただけなのかはわからないけれど、葵くんの素直さが少しこそばゆくて、ふふふ、と笑った。

「俺、吉川さんの好きな歌もっと聴いてみたいので、よかったらLINE交換してくれませんか?」

「いいよ。葵くんの好きな歌も教えてね」

「はい。もちろんです」

 その日からわたしたちは、どちらかがおすすめの歌を送ると、その歌の感想を語り合い、今度はもう一人がおすすめの歌を送るということを繰り返した。葵くんが「あの歌が好きなら、吉川さんきっとこの歌も好きだと思います」と送ってきてくれた歌は、いつもわたしの好みにドンピシャだった。

 音楽の話以外にも、わたしたちは他愛もないやり取りをするようになった。

「そういえば吉川さんって、仕事がお休みの日はなにをしてますか?」

「新しいレストランとか開拓するのが好きかな」

「行きたいお店ってどうやって見つけるんですか? 歩いていて偶然見つけたり?」

「それもあるし、雑誌で見たり、人からおすすめされたりも。気になるお店リストを作って、外出の予定がある時はその中から行き先に近いお店を決めるの。近頃はあまり行けてないけど」

 年度末と年度始めでこの時期は忙しいからと、貴一とは前みたいに予定が合わなくなっていた。なんだか一人で出かける気にもなれない最近の私は、休日はめっきり出不精で、外出しても近所のスーパーくらいだ。

「じゃあ今も行きたいお店がたくさんあるんですね。今度その中のどれかに、俺も一緒に行ってみたいです」

 予想外の申し出だった。二人で出かけるのってどうなんだろう、と一瞬躊躇ったが、休日に他にしたいこともない。それに、葵くんとなら気兼ねなく楽しめそう。少し間を空けて、OKと返事をした。

 二週間後の日曜日に、わたしたちは知る人ぞ知るインドカレー屋を訪れた。最寄り駅から少し離れた、大通り沿いに立つ雑居ビルの二階に、そのお店はある。店内はこじんまりとしていて、満席でも一度に七組くらいしか入らない。入り口には「本日予約で満席です」の看板が立てかけてある。やはり相当の人気店らしい。味への期待も増していく。

「ここ、チーズクルチャが美味しいらしいんだ」

「チーズクルチャ?」

「インド風のピザみたいなものなんだって。わたしもまだ食べたことないんだけどね」

「じゃあそれは絶対頼みましょう」

 わたしたちはそれぞれ、二種のカレーが選べるセットを注文することにした。わたしが三種類あるメインのカレーからどの二つにするかを決められないでいると、

「吉川さんが選ばなかったもう一つの種類を俺が注文するから、それも少し食べていいですよ」

 と葵くんが言う。わたしはメニューから顔を上げて、

「それは申し訳ないよ。葵くんも自分が食べたいのを食べないと」

「俺が絶対食べたいのは、このエビのカレーだけなんで。もう一つはどっちでもいいんですよ」

「じゃあ、もしわたしがエビじゃないのを選んだら、堀くんは二つ目もエビにして、一つをわたしに分けてくれる?」

 とちょっと意地悪を言ってみた。しかし、葵くんは全く意に介さず、

「いいですよ」

 と、テーブルを挟んで真っ直ぐにわたしを見ながら、にこっと笑った。

「うそうそ。エビはわたしも好きだから、それは自分で頼む」

 結局、葵くんはカレーだけでなく、チーズクルチャとナンの両方を食べたいわたしのために、それもシェアしてくれた。

 評判に違わぬ料理に舌鼓を打ちながら、これは後で気になるリストから名店リストに保存変更しなきゃ、と考えていると、今まで食べたインドカレーの中で一番かも、チーズクルチャすごく美味い、と葵くんが満足そうにぺろりと目の前の料理を平らげていった。

 葵くんはとにかく親切で気遣いができる。でもどこか飄々としていて、無理している風ではない。

 食後のチャイを飲みながら、わたしは葵くんに聞いてみた。

「葵くんは、なんでうちの会社でインターンをしようと思ったの?」

「消費財にこだわってるわけではないんですけど、マーケティングの花形な業界を体験してみたかったからです」

「なるほど。職種はマーケティングって決めてるんだね」

「そうですね。あとは就活のために布石を打ちながら、お金も貯めたかったからです。ここのインターンシップは有償だし、給与が他の企業よりちょっと高いんですよ」

「貯める? なんのために貯金してるの?」

「旅行するためです」

 そう言うと、葵くんはスマホを取り出して写真をわたしに見せてくれた。森の中にオシャレな建物があって、その足元には滝が流れている。建築に関しては全くの無知であるわたしでも、センスの良さと際立つ個性が伝わってくる。

「これは何?」

「フランク・ロイド・ライトって知ってますか?」

「知らないな」

「アメリカの建築家です。これは彼の代表作で、落水荘と言います。高校の時に美術の教科書に載っていたこれを見て、俺、一目惚れしたんです」

 それがきっかけで、大学ではこれまで長期休みの度に有名な建築物見るために国内外を問わずたくさん旅行したのだという。

「いろんな建築物が好きなんだね」

「それが、いろんな有名建築を見た結果、どうも建築物全般が好きなわけではなかったみたいなんです。初めて落水荘を写真で見た時と現地で実物を見た時ほどの高揚は他の建築物では一度も感じられなかったんですよね」

「じゃあその落水荘っていうのが葵くんにとっては特別なんだ」

「そうみたいです。だから就職する前にもう一度アメリカに行って、見て来ようと思ってます」

 アメリカかぁ。旅行なんて昨夏に京子と行って以来だなぁ、とわたしはぼんやり考えた。今年の夏もどこか旅行へ行けるだろうか。貴一はなんと言うだろうか。


***


 結局、この夏はどこへも旅行は行かなかった。きっとわたしが強引に行き先を決めて誘えば、貴一は旅行に付き合ってくれただろう。でも、わたしが望んでいるのはそういうことじゃない。

 それどころか、貴一とは今とても険悪な状況になっている。事の発端は貴一からの唐突な知らせだった。

「俺、来年からオランダに赴任できることになったよ!」

 電話越しで興奮気味な貴一に、わたしは素直におめでとうとは言えなかった。混乱して、鼓動が速くなっていくのを感じる。言葉に詰まり沈黙するわたしに、なんだかとても静かじゃん、どうしたの、と貴一は呟いた。深呼吸をして、状況に追いつかない思考のまま、慎重に言葉を選んで話し始めた。

「正直、とても混乱してる。貴一にとって、海外赴任が嬉しいのはわかる。貴一が嬉しいのはわたしも嬉しい。でも、わたしはどうなるの。置いてきぼりで待たされるってこと?」

 今度は貴一が沈黙した。少し間を置いても何も言わないので、わたしから尋ねた。赴任は何年くらいになりそうなのか。はっきりと決まってはいないが、おそらく三年以上にはなるらしい。「三年」と聞いて、またわたしの鼓動が速くなる。

「ねえ。貴一はわたしのことをどう思ってるの。自分が逆の立場だったらどう思うか考えてみてよ」

「俺は最初から仕事が優先で、しばらくは付き合うとか決められないってちゃんと伝えたよ。それなのに、こうやって何度もプレッシャーをかけてこられるのは好きじゃない」

 唖然として、言葉にならなかった。腹の奥をうごめいている感情がどんどん激しくなっているのを感じる。このままでは後悔するような言葉をぶつけてしまいそうだ。なんとか平静を装って、しなきゃいけないことがあるからもう通話切るね、とわたしが言うと貴一は、そう、じゃあ、と言って通話を切った。

 こんなに頭も心も掻き乱されるのはいったいいつぶりだろう。この感情は怒りでも、悲しみでもない。動揺。わたしはとても動揺している。わたしはなにか間違えたのだろうか。こんな仕打ちを受けるほど、なにか悪いことをしたのだろうか。

 すぐに京子にLINEした。ピンチです、話したい、と。間もなく京子から通話がかかってきた。「どうした? また更科さんのことでしょ」と少し呆れたように笑う京子に、わたしは努めて冷静に事の次第を伝えた。でも実際は感情が堰を切ったように捲し立てたと思う。京子は黙って聞いてくれた。

「話を聞いてるだけで腹立たしくなる。更科さんはそういう人なんだよ」

「うん」

「更科さんがどういう人なのかこれだけはっきりしてるのに、なぜ有希がまだ彼にこだわっているのかがわたしには理解できない」

「うん。わたしもよくわからないよ」

「有希はなにが欲しいの? 有希の人生なんだから、自分がしたいようにすればいいと、わたしは思うよ。でも、あえて言わせてもらうけど、このままじゃもっと惨めになるだけだろうね」

「うん。そうだよね」

 京子の言うことは至極真っ当だ。わたしも頭ではわかっていた。でも、どうしたらいいのかわからない。いや、自分がどうしたいのかがわからなかった。


 小学生の頃、親に連れられて近所の教会のミサに通っていたことがあった。パイプオルガンの音色が厳かな雰囲気を醸し出す礼拝堂で、長椅子に腰掛けて讃美歌や神父さんが穏やかな口調で語るありがたいお話を聞く。神父さんはよく「救い」について話した。救いはキリストによってもたらされると神父さんは言うのだが、わたしは昔から目に見えないものに実感が持てない質だ。だから、私を救ってくれるのはそんな遠い存在じゃなくて、目で見て、耳で聞いて、なんなら手で触れられる身近な誰かであってほしい、いやそうに決まっていると思っていた。

 ある時、京子とお茶をしながらそんなことを話したことがあった。すると京子は、腑に落ちないといった表情で言った。

「なんで誰かに救われることが前提なの? わたしは、自分のことは自分で決めたいし、自分でどうにかできないことは仕方ないって割り切るから、救われたいなんて考えたこともなかった」

 目から鱗が落ちた。京子の言う通り、わたしは誰かに救われることを前提としていた。そもそも、なぜわたしは自分に救いが必要な前提でいるのだろう。重い持病を抱えてるわけでも、経済的に困窮しているわけでもない。仕事も一人での生活も、ちゃんと上手く回っている。

 でも、わたしは昔から信じていることがある。それは、この世界のどこかに、自分を待っている特別な人がいるということ。その人のために、わたしにしかできないことがある。二人で一緒にいることで、わたしたちの心にある寂しさや虚しさが埋められて、明るくて温かいもので満たされていく。

 わたしは季節の中で冬が一番好きだ。冬の厳しい寒さは、大切な人と一緒にいられる温もりを際立たせてくれる。でも、その温もりがなければ、残されるのは吹雪の中を体の芯まで冷やされてただ耐え忍ぶだけの時間。

 なぜ貴一なのか。それはたぶん、貴一と一緒にいることでわたしの心が満たされたからだ。他の誰からも感じた事のない気持ちだった。だから、わたしはここまで貴一にこだわるのだろう。そして、貴一を失った時に訪れるのは、ただの喪失感ではない。もっと冷たくて、耐え難い虚しさ。わたしはそれをひどく怖れている。


 それから一ヶ月、わたしは貴一に連絡をしなかった。貴一からも連絡は来なかった。そして、自分の気持ちを整理して、何度も推敲したメッセージを送った。プレッシャーをかけたことへの謝罪。貴一を失うことが怖いという正直な気持ち。ただ、今後わたしたちがどうなっても、貴一の幸せを願っているわたしでいたいという思い。

 一日置いて貴一からの返事が来た。わたしのために自分の選択を曲げることはできないけど、貴一にとってわたしは大事な存在だということ。今後、わたしがどんな道を選んでも、わたしの思いを尊重するし、決してわたしを見捨てはしないということ。貴一は簡潔に、そんなメッセージを送ってくれた。

 その時感じたのは、幸せ、ではなかった。ただ、貴一との関係が切れなかったことで、不安が拭い去られて、わたしは安堵してまた呼吸ができるようになった。

 数日前から夜はすっかり寒くなって、窓を開けると秋の訪れが感じられるようになっていた。お風呂から出ると、わたしは牛乳を温めてホットココアを作り、ベランダから夜空を見上げた。今年の冬は、どんな冬になるんだろう。


***


 年末が近づき、世間は仕事納めの慌ただしさを迎える。わたしの部署でも年始から始まるキャンペーンに向けた追い込みで、ピリピリとした空気が漂っていた。

 ちょうど仕事が一段落ついた時、葵くんがわたしのデスクにやってきた。

「吉川さん、お疲れ様です。今日はまだ仕事終わらなさそうですか?」

「うん。今日中に終わらせたいことがまだあって。でもちょうど一段落ついたところだから、コンビニで飲み物でも買ってこようかな」

 じゃあ俺も、と二人ですぐ近くのコンビニまで連なって歩いた。特に買いたいものはないと言うので、彼の分のコーヒーも買って、一緒に店の前で飲むことにした。飲み口から湯気が立って体が温まる。

「実は俺、吉川さんが好きなバンドのライブのチケット取れたんです」

「え! すごい」

「それで、吉川さん。俺と一緒にライブ観に行ってもらえませんか」

「もちろんだよ! すごく楽しみ」

「よかった。じゃあ、これチケットです」

 そう言って、葵くんは封筒をわたしに手渡した。すぐに開けてみようとすると、ここじゃなくて家に帰ってから開けてください、と封を開けようとするわたしの手を制止した。わたしはたぶん、思い切り怪訝な表情をしてしまったと思う。そんなわたしを見て葵くんが笑い出したので、なんで笑うの、とわざと膨れっ面をしてみた。笑いながらごめんなさいと言う葵くんに、怒ったふりをしながら、わたしもにやけてしまった。

 家に帰って、封筒を開けてみると、そこにはチケットと一緒に薄水色の便箋が一枚入っていた。手紙の冒頭には、誕生日おめでとうございます、と書いてある。あと数時間でわたしは二十七歳の誕生日を迎える。葵くんはわたしの誕生日を覚えていてくれた。ライブのチケットは誕生日プレゼントなのでお代はいらないこと、そしてもう一言、書いてあった。

「初めて話した日に、吉川さんに一目惚れしました。一目惚れって軽いと思うかもしれないけど、俺は本気です」

 軽いなんて思わない。彼が真っ直ぐな人であることを、わたしは知っている。


 わたしには決められない、と考えていた。でも、自分が決められる人であることをわかっている。どんなにつらくてもしんどくても、わたしは前に進んできた。それはこれからも変わらない。決められないのではなくて、決めるのが怖いのだ。なにかを選ぶ時、同時になにかを失う。それが大事なものだから、怖い。

 ふと本棚に目をやると高校時代の日記があることに気づいた。毎日ではないけれど、あの頃は頻繁に日記を書いていた。出来事よりも、その時に自分が感じたこと、心に思い浮かんだことを綴ったものだった。つらくてもしんどくても、まだ見ぬ夜明けを信じて一日一日を歩んでいたあの頃。自分がどんなことを書いていたのか知りたくて、私はページをめくった。そして、あるページでめくる手を止めた。そこに綴った自分へのメッセージが、わたしの心の琴線を震わせた。

 

『いつかわたしは出会うだろう。誰よりわたしの味方でいてくれる特別な人に。わたしは誰よりもその人の味方でありたいと思う。そして、その時までは、わたしはなにがあってもわたしの味方でいてあげたい。』


『本当に大切なことはシンプル。なにも難しいことはないんだよ。君もそれをわかってるよね? 頭ではわかっていても、心が追いつかない。素直になれない。認めるのが怖い。認めたくない。そんな君の意気地のなさ。ずるさ。幼さ。全部ひっくるめて、君が大好きだよ。』


 何度も読み返して日記を閉じると、わたしは目を閉じて思いを馳せた。大事なものがあること。大事な人に出会えたこと。それがどんなにかけがえのないことか。自分にとってなにが大事なのか、それは自分で決めなければいけない。

 二十七歳の誕生日を目前に、わたしの夜は明けようとしていた。

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[良い点] 好きです [気になる点] ゆきちゃんは貴一からの誕生日プレゼントは受け取るのかな。
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