胡坐達磨神楽、虚脱炬燵与奪。
――何かが、おかしい。
居間に置かれた炬燵の上に鎮座し、もうかれこれ五十年も胡坐をかいている達磨は、久しぶりに妙な悪寒を覚えた。
あたしがこの家にやって来たのは、ちょうど七十年前である。
七十年前の今日、隣町の雑貨屋で売られていたあたしは、今の主人に買われてここに連れてこられたのだ。
最初の二十年ぐらいは、棚の上に置かれたり、机の上に置かれたり、主人の胸に抱かれたりしていた。
五十年前に主人が結婚して、その生活に変化があった。
いつの日からか、あたしはこの炬燵の上に飾られて、そのまま放置されるようになった。
いや、これを「放置」と呼ぶのは主人に失礼か。あたしは、主人に定位置を与えられたのだ。
あたしは、主人に大切にされている。愛されている。これは紛れもない事実である。
ああ、懐かしいなぁ。
雑貨屋の片隅で、戸棚のガラス戸越しに今の主人と目が合ったあの日から、もうかれこれ七十年も経つのか。
「あー、さぶさぶ。よっこいせ、っと」
あたしの主人のパートナーがそう言いながら、温い炬燵の中に入ってきた。
あたしの主人のパートナーは、今となっては枯れ木のような老爺だが、あたしの主人と結婚したばかりの五十年前は、それはそれは風流な紳士だった。
あたしの主人も、今となっては腰の折れたしわくちゃな老婆だが、初めて出会った七十年前は、それはそれは容姿端麗な淑女だった。
そう。あたしの主人とは、美和子さん――この爺さんの奥さんのことである。
あたしには、この爺さんが知る以前の彼女との思い出が、丸々二十年分もある。
爺さんには言えないし、仮に言えたとしても言うつもりはないのだが、そのことが、あたしの密かな誇りなのである。
でも最近、またあたしの主人を見なくなった。
ここ数日、あたしの視界を横切るのは、いつもこの爺さんだけなのだ。
いや、三日ほど前に、初めて見る顔が三、四人ほどいたっけ。主人と爺さんは、今は二人暮らしのはずだが、彼らは誰だったのだろう。ただでさえ無口で友人の少ないお爺さんが、彼らとはとても親し気に会話をしていたから、身内の誰かだったのだろうか。
あたしは自分の力で立って歩くことができないし、喋ることもできないし、匂いも分からないから、主人を探し回ることは不可能に近い。この爺さんが、あたしを手に取って歩き回ってくれたら助かるのだけれど、この調子じゃそれも期待できそうにない。
あーあ、あたしの主人は、今度は一体どこをほっつき歩いているだろうか。
今までも、美和子さんが行方不明になることは何度かあった。
美和子さんと爺さんの会話を聞いていると、美和子さんは老化によって記憶の機能が著しく低下しているらしく、外に出るとここに帰ってこられなくなってしまうのだとか。帰ってこない時は、必ずと言っていいほど近所を当てもなく徘徊しており、警察官に介抱されながら帰ってくることが、ここ数年で日常茶飯事となっていた。そんなことが起こり始めたのと同時に、ニンチショウ、という単語も頻繁に聞くようになったから、それと何か深い関係があるのかもしれない。
でも今回は、いつもの行方不明とは何かが違うのだ。
美和子さんが家に帰ってこなくなってから、もうすぐ五日が経つ。
彼女が近所を徘徊している場合は、せいぜい一日待っていれば再会できた。遅くとも、二日。三日以上会えない日が続くなんてことは、今まで一度もなかった。それなのに、今回はもう四日も空いている。
そして何より、爺さんが至極落ち着いているのが妙だ。いつもなら、中々帰ってこない美和子さんを心配して、ぶつぶつと何かを呟きながらウロウロと家中を歩き回っているじゃないか。
美和子さんが帰らなくなって、もうすぐ五日が経過するというのに、その落ち着いた様子はなんだ。いつもあれほど彼女の身を案じて焦っていたあなたが、今回はなぜ呑気に炬燵に入っていられるのだ?
美和子さんが消えてから、ずっと、厭な胸騒ぎがしているのだ。
五日も帰ってこない、なんてことは今回が初めてなのに、爺さんが美和子さんの行方を気にしている様子がない。もしかしたら爺さんは、彼女の行方を知っているのかもしれない。つまりは、大した心配など無用、ということなのだろうか。
「よくよく考えると、お前が一番、この家に長くいるんだよなぁ」
爺さんが不意にあたしを見て、のんびりとそう呟いた。溜息を吐いたらつい言葉が声に出てしまった、といった感じの細い掠れ声だった。
――ええ、そういえばそうね。
あたしは、声にならない声で答えた。お前、と呼ばれるのはあまり好きではないのだが、他に呼び名もないので仕方がない。達磨、と種族名で呼ばれるのも違う気がするし(爺さんも、人間、とは呼ばれたくないだろう)。
爺さんや主人は、仕事や散歩(や徘徊)で外出することがある。主人の愛犬のテトは、もう三十年以上も帰ってきていない(そのことも気がかりだ)。そう考えるとたしかに、正確に時間を計れば、誰よりもあたしがこの家に一番長く居座っていることになるのだろう。
なんとも言えない嫌な予感が、じわりじわりと、あたしの胸に巣食い始める。
「なぁ、今だから言わせてほしいんだけどよぉ――」
爺さんは、虚空に吐き捨てるように、ぽつりぽつりと語り始めた。
「俺はさ、お前がほんとに羨ましいよ。憎たらしく思っちまうぐらい、羨ましかったんだ。美和子が子どもだった頃から、今の今までよぉ、いつもいつも、美和子に可愛がられて、ずっと美和子のお気に入りで。美和子の一番は絶対にお前で、あいつはそれだけは譲らなかった。んで、息子たちが二番で、孫たちが三番で、テトが四番でさ、肝心な俺は五番目か六番目ぐらい。下手したら、もっと下かもしれん。俺の一番は、絶対に絶対に、間違いなく美和子だったのに、だぜ? これって……おかしいよなぁ」
爺さんは、泣いていた。泣きながら、笑っていた。心の底から幸せそうに、泣いていたのだ。
「あいつの方がボケてんのに、俺の方がシャキッとしてんのに、『達磨さんだけは、絶対に棄てちゃダメだからね』って、いつもいつも口酸っぱく言われたよ。……ったく、いつもいつも綺麗にしてもらってさ、お前に埃が積もってるとこなんて、この五十年間見たことがないぞ。いや、ほんとに、なんでお前が一番、美和子に愛されてんだよ。むすっとした顔して、ただ胡坐かいてるだけじゃねぇか。お前なんかの、どこが良いんだよ!! ったく、意味分かんねぇっつうの……」
――そんなことあたしに言われても、知るわけがないじゃない。美和子さんに直接訊いたらいいじゃない。
爺さんは、笑ったり泣いたり怒ったり、感情がぐちゃぐちゃになっていた。なんでそんなことになっているのか、脳の無いあたしには皆目見当もつかない。
「でもよ、お前にはほんとに感謝してるんだ。美和子の毎日に欠かさず笑顔が咲いたのはさ、いつもお前があいつの傍にいたおかげなんだ、ほんとに。俺にはお前の良さなんか一ミリも理解できねぇけどよ、どうしてだか、美和子の心には刺さったんだろうな。それも、七十年もの間ずっと、変わることなく、深く深く。俺が、美和子を見つけるよりも、ずっと前から」
――何よ、長々とグチグチうるさいわね。そんなことよりも、美和子さんの居場所を知ってるんなら、早く会わせなさいよ。
「……納得いかねぇ。ああ、まったく納得いかねぇよ。じじいになるまで、阿呆みたいに理不尽な荒波に揉まれてきたけどよ、お前ほどの理不尽はねぇよ。これでも、どんな理不尽もなんだかんだで納得して、妥協して、歯食いしばって生きてきたつもりだ。でもよ、お前だけは……お前だけは、俺が逝くまでに納得できそうにないわ」
――理不尽? 理不尽でもなんでもないわ。あたしがあなたよりも愛されてるのは当然じゃない。あなたよりも、あなたたちのお子さんよりも、さらにそのお子さんよりも、テトよりも、あたしは美和子さんと一緒にいるんだもの。あなたたちよりも好かれるのは当たり前よ。馬鹿言ってないで、早く美和子さんを連れてきなさいよ。
「生身の人間に敵わないんなら、俺も納得できたさ。俺なんかよりもキラキラ輝いてる人間なんざ、この世にごまんといるよ。地位も富も名声も築いて、恵まれた人生を送ってる奴なんかザラにいる。見上げたらキリがない。でも、そんな奴らは別に、羨ましくもなんともねぇんだ、本当に。同じ人間だからこそ、敵わないことには納得できちまうんだ。俺には俺の幸せってもんがある、って無理やり納得できる。だがな、お前は達磨だ。人間でも犬でも猫でもなく、ただの置物だ。なんで喋りもしないブスなお前に、俺は敵わないんだよ。ふざけんなよ……」
――あなた、さっきから失礼過ぎじゃない? あたしに対して、今までそんなこと思いながら美和子さんと過ごしてたわけ? 美和子さんの前では好かれようと紳士ぶってたくせに、裏ではそんな汚い戯言を隠してたなんて。ほんと信じられない。最低ね。
「俺ももう死にかけの老いぼれだ。棺桶に片脚突っ込んでるようなもんだ。だがな、俺はお前との二人暮らしなんて絶対に御免だ。お前を見てると、なんだか生きる自信が削がれちまう」
――何よ、どういうことよ。あなたとあたしの二人暮らし、って? 美和子さんの身に何かあったの?
窓の外が白み出した。
爺さんは急に押し黙った、かと思いきや、長い沈黙を経て、再び口を開いた。
「今日、お前を美和子の元へ連れていく」
爺さんの瞳に朝の光がきらめいて、鋭い眼光が宿った。
そこにいたのは、それはそれは風流な紳士だった。
「あぐらだるまかぐら、きょだつこたつよだつ」と読みます。
音の響きだけでタイトルを決めて、想像を飛ばしましたが、爺さんにとってはとてつもなく哀しい物語となってしまいました。