雫
私の父は、名の知れた温泉地のホテルの支配人をしてました。
夜遅くに、仲間を家に招いては賑やかにしていました。
そんな日は父の機嫌が良くてホッとしたのを覚えています。
「帰ってきた!」
車の音で私はピリッとする。
「今日はどうしようかな?お帰りなさいを言いにいこうかなー。」
一階のリビングから大きな声が聞こえてくる。
また、はじまった。
父親の怒鳴り声、何かを投げる音。
私にとっては、日常茶飯事の夜の時間。
部屋から出る事も出来ず、息を潜めて、じっとする。
「行かなくてよかった〜」
判断を間違えると大変なことになる。
あれ?静かになった。今日は早いな?
その時、階段を上がってくる足音がした。
苛立ちがおさまらないと私への攻撃が始まる。
心臓がぎゅーっとして、震えてくる。
勢いよくドアを開けて入ってきたその日の父は、真っ青な顔をしていた。
「雫、救急車呼べ。」
割れた陶器の欠片が散らばり、飛び散った血痕が部屋中に広がっていて…
病院に行った私は、夜間の薄暗い待合室で身動きが取れずにただ座っている。
鮮明に覚えているのは、心配も、悲しみも何も感じていなかったこと。
もういい。これで恐怖から解放されるなら。
みんな、いなくなればいいと思った。
夜間入り口のドアから、二人の男性が入ってきた。
「檜山さんの娘さんですか?」
「はい。」
「こんな状況下で申し訳ありませんが、傷害事件になるかもしれません。少しお話しを聞いてもいいですか?」
小学生の私にも、何となく理解できました。
母が訴えをすれば、父は犯罪者になる。
十一歳の私は、黙り込むことしか出来なかったのです。
自分の不注意で転んで怪我をしたと、母が話したことを後日知りました。
「何のために?」
「世間体ばかり気にして、また同じ日々を過ごすんだね。」
もう、嫌。
あの日から二年程たった朝、父は急性心不全でこの世を去りました。
あまりにも突然のことで、父の死を実感したのは暫く後のことだったと思います。
日々の恐怖から解放されると思っていたのに。
心が恐怖感を忘れないという事を知ることになったのです。
母への嫌悪感と男性への恐怖心。
私の中から、消えることはありませんでした。
「雫に話があるの。お母さん、転勤しようと思って。」
「うん、わかった。」
「いいの?転校することになるのよ?」
「うん。」
別にどうでもよかったのです。
学校は行っていただけで、友達もいなかったし、楽しいことなんてなかったから!
どこへ行っても同じだと思っていたから!
十四歳 五月。
「檜山 雫です。」