泉 鏡花「貝の穴に河童の居る事」現代語勝手訳
泉 鏡花「貝の穴に河童の居る事」を現代語(勝手)訳してみました。
本来は原文で読むべきですが、現代語訳を試みましたので、興味のある方は、ご一読いただければ幸いです。
「勝手訳」とありますように、必ずしも原文の逐語訳とはなっておらず、自分の訳しやすいように言葉を付け加えたり、削ったり、また、ずいぶん勝手な解釈で訳している部分もありますので、その点ご了承ください。
読みやすいように、原文にはない段落スペースを多く設けています。
最初、結構注釈を付けていたのですが、煩わしさが気になり、多くを省略しました。
若干は最後にまとめていますが、参照しにくいかも知れません。
浅学、まるきりの素人の私が、言葉の錬金術師と言われる鏡花の文章を、どこまで理解し、現代の言葉で表現できるか、非常に心許ないのですが、誤りがあれば、皆様のご指摘、ご教示を参考にしながら、訂正しつつ、少しでも正しい訳となるようにしていければと考えています。
(大きな誤訳、誤解釈があれば、ご指摘いただければ幸甚です)
この作品の勝手訳を行うにあたり、「鏡花小説・戯曲選 第四巻」(岩波書店)を底本としました。
雨を含んだ風がさっと吹くと、磯の香が満ちた。――今日は二時頃から、ずっぷりと一降り降った後だから、この雲の重なった空模様では、季節柄、蒸し暑くなりそうなのに、身に沁みるほどに薄ら寒い。……
時々ぽつりと来る、木の葉からこぼれる雫が冷たい。しかし、落ちる雫はその暗い樹立からだけではなさそうである。……糠雨がまだ降っているのかも知れない。
鎮守の明神の石段には、わくら葉の散ったのが、一つ一つ皆蟹になりそうなくらい濡々として、それが森の梢を潜って、真っ直ぐに石段の上まで続いている。その途中、所々、夏草が茂って蔽われた所は雲の影が映って暗い。
縦横に道は通っているが、石段の下はまだ苗代にならない水溜まりの田と、荒れた畠なので――農屋、漁宿、もっと言えば、商家の町も遠くはないが、ざわめく風の間には、時として海の音も入り乱れて寂しく響いている。よく言われることだが、四辺がぼうっとして、底冷たい靄に包まれ、人影も見えなくなると、やがてそのまま、逢魔が時になっていくのである。
町家の屋根に隠れているが、南東の方角へ展けて海がある。その反対の、山裾の窪地に当たる石段の左の端に、べたりとくっついて、溝鼠が這い上がったかのように、襤褸を膚に纏い、笠も被らず、一本杖の細いのにしがみつくように縋って来るのがある。その杖の尖は肩を抜き、頭の上へ突き出ている。後ろの向きの肩が、びくびくと震え震えして、背丈は三尺にも足りず、小児だか、侏儒だか、小男だか、ただ船虫の影の拡がったほどのものが、靄に沁み出て、一段、また一段と這い上がる。……
しょぼけ返って、蠢くたびに、シュゥシュゥと泣くような陰に籠もった幽かな音がする。腐れた肺が呼吸にかかって鳴るのか、――いや、ぐしょ濡れで、裾から雫が垂れるほどなので、それが骨を絞る響きであろう――傘の古骨が風に軋むように、シュゥシュゥと不気味に聞こえる。
「しいッ」
「やあ」
しッ、しッ、しッと、声を掛け合いながら……こちらは陽気だ。手頃な丸太棒を前後に差し担って、半裸体のがっしりした漁師の若者が二人、真ん中に一尾の大魚を吊して来た。魚頭を鈎縄で括っているが、尾はほとんど地に摺れている。しかも、銛で撃った生々しい裂傷の肉が爆ぜて、真向はおろか、腮や鰭の下から、たらたらと流れる鮮血が雨路に滴って、草に赤い。
私はこの話の中の魚を表現するのに、出来ることなら小さな鯨と言いたかった。あるいは大鮪か、鮫、鱶でないと、ちょっとその巨大さと凄まじさが真に迫らない気がする。――他に鮟鱇があるが、それだと、ただその腹の膨れたのを表現するだけに過ぎない。この魚、実は石投魚である。『大温にして小毒あり』と言われるこの魚、普通私どもの目に触れることがないけれども、ここに担いだのは五尺以上の、重量にして二十貫にもなる。逞しい人間ほどはあろう。荒海の厳礁に棲み、鱗鋭く、顰め面をしていて、鰭は硬い。ちょっとみると、鯱にも似ているが、鯱が城の天守に居る金銀を鎧った諸侯だとすれば、こちらは赤合羽を絡った下郎である。それが青黒い魚身を血で底光りさせながら、ずしずしと揺られていた。
これほどの大きい石投魚は、さてどれくらいの値打ちがあるかと言えば、一円にも満たない七、八十銭に過ぎないのだと、後で聞いて、ちと気落ちがしたほどである。が、とにかく、これは問屋とか市場に運ぶのではなく、漁村である我が町内の晩のおかずにと――荒磯に横づけて、ぼわッ、ぼわッとやけに煙を吐く船から、手鉤で肋腹のような崖へ引き摺り上げ、その中から一匹を担いで、そのまま裸足で、磯の巌道を踏んできたのであった。
まだ船底を踏みしめているような重い足取りで、田畝沿いに脛を左右に、草摺れしながら、だぶだぶと大魚を揺すって、
「しいッ」
「やあ」
しっ、しっ、しっ――
この血だらけの魚の生々しい様相とは似ても似つかない、梅雨の日暮れの森の中、青瑪瑙を畳んだような高い石段の下で、漁夫と魚は横一列に並んだ。
すぐここからは見えない木の鳥居は、海から吹き抜ける風を嫌ってか、あるいは窪地のためにたちまち氾濫れるらしい水場のせいか、一筋やや広い畝を隔てた町の裏通りを――横に通っている正面とT字にぶつかった真ん中に立っている。
その鳥居の御柱よりも大分高く掲げられた映画か芝居のまねき旗が、汚れた手拭いのように、渋茶と藍色になって、哀れにも、同じ色をした鰒や小松魚ほどの元気もなく、棹によれよれなって見えるのも、もの寂しい。
前に立った漁夫の肩が石段を一歩出て、後ろの漁夫が脚を上げ、真ん中の大魚の腮が、端を攀じ登っている先ほどの変な小男が居る段と同じ高さの所へ生々しく出て、小男の横面を鰭の血で撫でようとしたその時、小男が伸び上がるようにして、丸太棒の上から覗き、
「無残やのう、そのざまは」と言った。そして、眼をピカピカと光らせて、
「お前も世を呪えや」と、首を振ると、耳まで被さった毛がぶるぶると動いて……腥い臭いが漂った。
――少時すると、漁夫らは薄墨をもう一刷けしたような水田の際に、おっかな吃驚、といった風で、屈み腰で引き返して来た。手ぶらである。その手つきには、大石投魚を取り返そうとする様子は見えない。もう、鰌でもいたら押さえたそうなへっぴり腰に見える。丸太ごと、どか落としで遁げたのである。たった今。
……いやぁ、お遁げなさった。……海の男、赤褌の恥ですなぁ。
「大かい魚ァ、石地蔵様に化けてはいねぇか」と、石投魚はそのまま石投魚で野倒れているのを見定めながらそう言った。
一人は石段を密と見上げて、
「何も居ねぇぞ」
「おお、居ねぇ、居ねぇめよ、お前。一つ威かしておいて消えたづら。何時までも姿を現わしていそうな奴じゃねぇだ」
「今も言うたことだがや、この魚を狙ったにしては、小い奴だな」
「それよ、海から俺たちをつけてきたのではなさそうだ。出たとこ勝負で石段の上に立ちおったで」
「俺は、魚の腸から抜け出した怨霊ではねぇかと思う」と、掴みかけた大魚の鰓から、自分の声が出たようで、驚いたように手を退けて言った。
「何しろ、水ものには違いねぇだ。野山の狐、鼬なら、面が白いか黄色づら。先刻のは青蛙のような色で、疣々が立って、はぁ、嘴が尖って、海蘊のように毛が垂れていた」
「そうだ、そうだ。それでやっと思い出した。絵に描いた河童そっくりだ」そう言うと、なぜか急に勢いづいた。
絵そら事と俗には言う、が、絵はそら言ではないこと、すなわち、これは現実であることを、読者は直ちに理解されるであろう、と思う。
「畜生、近頃は噂にも聞かねぇが、こんな所さ出るとはなぁ。――浜の方へぶっ飛んで行かねぇでよかった。――猟場へ遁げりゃぁ、それ、どうしても仲間に饒舌っちまう。そしたら皆が加勢に来るだ」
「それだ」
「村の方へ走っても、居るのは留守番の女子どもだけだ。相談ぶつことも出来やしねぇ。こうやって、すぐに引返して来てよかったぜ。お前と俺とで河童に威されたなんて、俯向けにも仰向けにも、この顔さ、立ちっこねぇところだったぞ、やぁ」
「そうだ、そうだ。引返して来たのが正解だ。――畜生、もう一度出てみやがれ、頭の皿ァ打挫いて、欠片にバターをつけて一口だい」
そう言うと、丸太棒を抜いて取り、引きすぼめて、石段を睨め上げたのは言うまでもない。
「コワイ」と、虫の声で、青蚯蚓のような舌をぺろりと出した。怪しい小男は、段を昇り切った古杉の幹から、青い嘴だけを覗かせて、石段の下を見下ろしながら、アケビを裂いたような口を開けて、またニタリと笑った。
その杉を右の方へ進むと、樹隠れに山道が続く。木の根あり、岩角あり、雑草が人の背よりも高く生え乱れて、どくだみの香が深く匂い、薊が凄まじく咲いている。野茨の花の白いのも、黄昏とは思えない仄明るさの中、人の目を迷わせて、行手を遮る趣がある。浪の音が梢に響き、吹き当たる浜風が、生い茂る雑草を渦巻かせて、東西を見失わす。この坂はどれくらい遠くまで続くのか。谷は深く、峰は遥か遠くに思える。けれども、わずか一町ばかり行けば、早くも絶崖の端に出る。ここは魚見岬とも言われ、町も海も一望の下に見渡される所である。と、そこを急に左に折れ曲がると、また石段が一カ所ある。
小男の頭は、この絶崖際の草の尖へ、どこにでもある蕈の笠のようになって、ヌイと出た。
麓では、二人の漁師が横に寝た大魚をそのまま棄てて、一人は麦藁帽を取り忘れ、もう一人は向こう鉢巻だったのを、ひょっとこ被りに被り直してどこかへ行ってしまい、投げ出された棒だけが影もぼんやりと畝に暗く沈んでいた。――というのは、魚が重くて上がらなかったのである。魔物が圧えるかと、丸太を空で切ってみたが、もちろん手応えはない。あの化け物が口から入って、腹に潜っているのかも知れない。鰓が動く、目が光ってきた。となると、見かけ倒しの威勢はよくても、もう、魚の腹を撲りつけるほどの勇気も失せた。
おお、これは姫神――明神は女体であらせられる――が夕餉の料理にこれをお召し上がりになるのだろう、とまことに平和な、安易な、しかも極めて殊勝な考えが二人一致したので、裸体の白い娘ではないが、この大魚を御供として残して帰ったのである。
蒼ざめた小男は、第二の石段の上に出た。沼が干上がったような、自然の丘を繞らせた清らかな境内は、坂道の暗さに似ず、つらつらと濡れて薄明るい。
右斜めに、鉾形をした杉の大樹が森々と虚空に茂っており、その中に社がある。――こっちから、もう敬う気持ちを示すように、ついていた杖を地面から挙げ、胸へ片手をつけた。が、左の手はぶらんと落ちて、草摺で千切れたような襤褸の袖の中に、肩からぐなりと垂れている。これには、きっと何か訳があるに違いない。
先ず聞け。――青苔に沁む風は、坂の草を吹き靡かせてからは、自然と静かに吹くのではあるが、階段に、縁に、そして、堂の辺りに散った常磐木の落ち葉の乱れたのが、今、そよとも動かない。
それだけではない。――この後直ぐ、階段の下に、灯をともす翁が一人、姿を現すが、その油差しの上に置かれた燈芯の炎が、やがて夕暮れ過ぎになって颯と吹き起こった夜嵐にさえ、そよりとも動かなかったのは不思議であろう。
小男はシュゥシュゥと泣くような音を立てながら近づき、そのまま進んで、杖をバタリと置いた。そして、びしょ濡れの袂を敷いて、階段の下で両膝をついた。目ばかりが光って、碧額に書かれた金泥の文字を仰いだと思うと、柏手の代わりに――片手は利かないので――痩せた胸を三度打った。
「願いまっしゅ。……お晩でしゅ」と、きやきやと透る、しかし、哀れな声をして、地面に頭を摺りつけた。
「願いまっしゅ、お願い。お願い――」
すると、正面の額の蔭から、白い蝶が一羽、夕顔が開くように、ほんのりと現れ、ひらりと舞下がって、小男の頭の上をすっと飛んだ。――この蝶が境内を横切って、ひらひらと石段口の常夜燈にひたりと附けば、その羽で点されたように灯影が映り、八十に近いと思われる皺びた翁が現れた。彫刻か絵画の面よりも頬は少し丸く、着古してくたくたになった禰宜の扮装で、細く弱々しい脚を引き絞るようにして立ち、鹿革の古ぼけた火打ち袋を腰に下げて、燈芯を一束、もう片方に油差しを持ち添えている。揉烏帽子を被っているが、燈芯に照らされ、耳と盆の窪のはみ出た所に十筋七筋の抜け毛かと思われる白髪が覗いて見える。あしなか(*1)の音をぴたりぴたりとさせながら寄って来て、半ば朽ち崩れた欄干の擬宝珠を背にした。が、直ぐに膝を抱くようにして屈んだ。――段の隅へ、油差しに添えて燈芯を差し置いたのである。――
「お前は?」
「三里離れたところの――国境の水溜まりのものでございまっしゅ」
「ほ、ほ、印旛沼、手賀沼の一族であるのよな。様子を見ればの」
「赤沼の若造、三郎でっしゅ」
「河童衆、ようおいでなさった。さて、先程見ておったが、石段を上らっしゃるのに、えらく難儀そうであった。若いのにのぅ。……お前たち空を飛ぶ心得があろうものを」
「神職様、仰せの通りでっしゅ。――自動車に轢かれたくらいに身体に怪我はあるでしゅが、梅雨空を泳ぐなら、鳶や烏には負けんでしゅ。けれど、お鳥居から式台(*2)を通らずに、樹の上から飛び込んでは、お姫様に失礼でっしゅ、と存じてでっしゅ」
「ほ、ほう、感心なことじゃ」と、翁はほくほくと頷いた。
「着物も、灰塚の森で、古案山子のを剥いだでしゅ」
「感心、感心……殊勝なことなや。で、倅。……それで何じゃ、大怪我をしたじゃと?――何としたの?」
「それでしゅ。それでしゅからお願いに参ったでしゅ」
「この老いぼれでは何も叶いはせぬ。詰まるところ、姫神への願いじゃろ。お取り次ぎをいたそうと思うが、倅、願い事は――お薬かの?」
「薬でないでしゅ。――敵討ちがしたいのでっしゅ」
「ほ、ほ、そか、そか。敵討ち。……はて? そりゃ、しかし、若いのに似合わず、流行に遅れたことをの。敵討ちは近頃流行らぬがの」
「そでないでっしゅ。仕返しでっしゅ。喧嘩の仕返しがしたいのでっしゅ」
「喧嘩をしたかの。喧嘩とや」
「この左の手を折られたでしゅ」と、わなわなと身震いをする。濡れた肩を絞って、雫の垂れるのが、蓴菜に似た血のかたまりで、今も流れ落ちるようである。
尖った嘴は疣立って、一層蒼味を増した。
「いたましげなや――何としてなぁ。対手は何処の何者じゃの」
「畜生! 人間め」
「静かに――」
ごぼりと咳をして、
「御前じゃ」
しゅッと、河童は身を縮めた。
「今日のこと、午頃、久しぶりのお天気に、おらは沼から出たでしゅ。崖を下りて、あの浜の竈巌へ。――神職様、小鮒、鰌を食べたで、腹は一杯。貝も小蟹も欲しゅう思わんでございましゅから、白い浪の打ちかえす磯端を、八葉の蓮華と洒落込み、背後の屏風巌を船後光(*3)に真似て、そこに足を組んで座り、……翁様、ご存じでございましょ。あそこは――近郷での、隠れ里。めったに人の目につかんでしゅから、山裾の潮の満ち引きに、隠れたり、出たりして、凸凹、凸凹、凸凹と、重なって敷かれた礁が削り廻され、漁師が天然の生簀や生船として、魚を貯えておくでしゅが、鯛も鰈も梅雨時化で見えんでしゅ。……掬い残りみたいな小こい鰯子が、チ、チ、チ、(笑う)……と、青い鰭で行列をして、巌竈の簀の中を、きらきら、きらきら、日向ぼっこ。ニコニコとそれを見ぃ、見ぃ、ぬらぬらした身に、手唾して、……漁師が網を繕うでしゅ……あの真似をして遊んでいたでしゅ。――そんなところへ、この土地では聞き馴れぬ、すずしい澄んだ女子の声が、男に交じって、崖上の険しい山道から聞こえてきたでしゅ。巌角を踏んで、縋りながら……羽織っている印半纏には桂井と書いてあるでしゅ」
「おお、そか、この町の旅籠じゃよ」
「ええ、その番頭めが案内でしゅ。円髷の年増と、その亭主らしい長面の夏帽子。それに自動車の運転手が、こつこつと一緒に来たでしゅ。が、その年増を――おばさん、と呼ぶでございましゅ二十四、五のふっくりした別嬪の娘――ちょっと聞くと、その『おばさん』が『おばしァん』と言う風に聞こえる。……清い、甘い、情のある、その声が堪らんでしゅ」
「そうかの? 変な声よの」
「おらが真似たような声ではないでしゅ」
「ほ、ほ、そか、そか」と、翁は真剣に耳を傾けるように頷いた。――その時、風が吹きつけたが――不思議にもひからびた燈芯の炎は乱れもせず、また、同じように、そよともしない翁の白髪は浮世離れしていて、古い物語にでも出て来そうな風情である。
「翁様、娘は中肉の、むっちりで、その肌艶の言うに言われぬのが、びちゃびちゃと潮に入った。で、褄をくるりと……」
「おお、危なやの。おぬしの前でか」
「その脛の白さに、常夏の花のような長襦袢の影がからんで、磯風に揺れ揺れするでしゅが、――年増も入れば、夏帽子も。番頭も半纏の裾をからげたでしゅ。巌根づたいに、鰒、鰒、栄螺、栄螺が。そして、小鰯の色の綺麗さ。
『紫式部といった方が好きだったというのももっともだわ……お紫(*4)と言うけれど、本当に紫……』などと言うでしゅ。その娘が、その声で。
……おらは淡い膏も、白粉も、娘の匂いそのままの、肌触りのただ粗い、岩に脱いだ白足袋の中に潜って、熟と覗いていたでしゅが、足許へ一波上がれば、『あれ』と、裳裾を……。あぁ、脛が縒れる、裳裾が揚がる。まさしく紅い帆が、白百合の船に孕んで、それが青々と引く波に走るのを見ては、何とも、かとも、お、翁様……」
「ちと聞き苦しゅう覚えるぞ」
「口に出して言わぬだけ。人間も、赤沼の三郎も変わりはないでしゅ。翁様――ところででしゅ、この吸盤のできる水掻きで、お尻を密と撫でてやろうと……」
「ああ、宿運には抗えぬものよの。お前たちは一族一門、代々それがために皆怪我をするのじゃよ」
「違うでしゅ。それでした怪我ならば、自業自得で、怨恨はないでしゅ。……蛙泳ぎで底を泳ぎ寄って、口をぱくりと……」
「その口でか、その口じゃの」
「ヒ、ヒ、ヒ、上を向いて、波の上の女郎花、桔梗の帯を見ますと、や、括り付けの御守りの扉が透いて、道中、道すがら参詣した、中山の法華経寺か、かねて御守護の雑司ヶ谷か、真紅な石榴が輝いて燃えて、鬼子母神の御影が見えたでしゅから、これはいかんと、蛸のように岩を吸い、吸い、色を変えて遁げながら磯へ上がった。
やがて沖が曇ったでしゅ。娘も磯へ上がろうとして、白足袋をつまむと、
『あら、気味の悪い、浪がかかったかしら』などと……別嬪の娘の畜生め、そんなことをぬかすでしゅ。……。
磯浜へ上がって来て、巌の根松の日蔭に集まり、ビール、煎餅を飲み食いしていても、そんなことは羨ましくも何ともないでしゅ。娘の白い頤が少しばかり動くのを、甘味そうに、屏風巌にくっ付いて見ていると、運転手の奴が、その巌の端へ来て立ち、沖を眺めて、腰に手をつけ、気取って反るでしゅ。見つからないようにと、背後をすり抜ける出会い頭、錠の浜というほどの狭い砂浜に娘等四人が揃って立つでしゅから、ひょいと山道へ飛ぼうとするところを、
――まて、まて、まて――
と、娘の声でしゅ。見惚れて頭の皿が見つかったか、しまった、これはまずいと、慌てて足許の穴へ隠れたでしゅわ。
間の悪いことに、そこはちょうど馬蛤貝の隠れ家。
『馬蛤貝は塩を入れると飛び上がるんですってね』と、娘の目が穴の上へ蓋になって、熟と覗く。で、
『河童だい、あかんべぇ』とやったところが、でしゅ、……覗いた瞳の美しさ、その麗らかさは月宮殿の池ほどござり、睫が柳の小波に、岸を縫って靡くでしゅが。――その漣の一雫が露となって、逆さまに落ちてくるなら吸いたいものと、蕩然とすれば、痛い、疼い、痛い、疼い。肩の付け根を棒切れで、砂越しに突き挫かれた」
「その怪我じゃ」
「神職様。――塩で釣り出せない馬蛤の代わりに、太い洋杖でかッぽじおった。杖は夏帽の奴の持ち物でしゅが、下手人は旅籠屋の番頭。這奴め、女たちのご機嫌を取るために、金歯を見せて不埒を働く」
「ほ、ほ、そか、そか。――可哀相な倅よ、倅の怨みは番頭じゃ」
「違うでしゅ、翁様。――思わず、きゅうと息を引き、馬蛤の穴を跳ね飛んで、田打蟹(*5)がボロボロ吹くでしゅ、泡ほどの砂の沫を被って転がって逃げる時、口惜し紛れに奴の穿いていた無駄に贅沢な長靴の、その丹精に磨いた自慢の向こう脛へ、この唾をカッと吐き掛けたので、この一呪詛によって、あのご秘蔵の長靴は、穴が空いて腐るでしゅから、奴にとっては、リウマチを患うよりきっとこたえる。これで仕返しはたくさんでしゅ。――怨みの的は、神職様、娘と夏帽子とその女房の三人でしゅが」
「一通りは聞いた。ほ、そか、そか。……願望が叶うか、叶わぬか、老の一存にはならぬことじゃ。いずれはお姫様に申し上げるが、この話、道理に外れたようなことじゃ、無理なようにも思われるその仕返し。お聞き入れになろうか。難しいの」
「御鎮守の姫様、お聞き入れ下さいませんと、目の前に仇を見ながら仕返しが出きんのでしゅ。出来んのでしゅが、わァ」と、たちまち声を上げて泣いたが、河童はすぐに泣くものかどうなのか、駄々子がものねだりをするような状であった。
「倅、倅……まだ早い……泣くな」と、翁は白く笑った。
「大慈大悲は仏菩薩にこそ備わっておるもの。その都度、ご意見は申し上げるけれども、この年老いて気も弱った考えとは違い、姫神の任侠のご気風はますますお盛ん。ともあれ、先程から、お袖に縋ったものの願いごとをお聞き届けの様子がある。一度取り次いでみましょうぞ――えいとな。……
や、や、や、横の扉から、早くもお縁へ。……これは、また、何というお身の軽さ」
廻廊の縁の角辺り、雲が低くかかる柳を背景に、姫君は翁の声に応えられるように、朧に神々しい姿を、夙とお見せになった。細面で、真珠色の鼻筋が美しく通り、水晶を刻んだかのような威のある眦は、額髪が眉に掛かっているため、紫の薄い袖頭巾に仄めいてはいるが、匂いは下げ髪にしている背まで漂っている。――紅地に金襴の下げ帯をして、紫の袖は長く、胸元で優しく引き合わせ、手を重ねた両方の袖口で、塗り骨の扇を慎ましく持ち添えておられる。床板の朽目から溢れ出た青芒に、裳裾の紅は淡く燃えるようで、すらすらと莟を思わせる白い素足で渡って来られるのは。――神か、いや、人か、それとも巫女か。
「――その話の人たちを見ようと思う。翁、里人の親切で、好きな柳を欄干先に植えてもらったのは嬉しいが、町の桂井館が葉の繁りで隠れて見えぬ。――前庭のそちらに参ろう」
はらりと、ややあられもなく白い脛がこぼれたけれども、これは道清めの雪が影を散らすように、膚を守護する威厳が備わっており、慎ましやかなお面は、一層世の塵から遠ざかって、いかに好色の河童の痴けた目にも、女の肉とは映るまい。
姫のその姿が正面の格子へ銀色に染まるほどに艶々と映った時、山鴉の嘴の太いのが――二羽、小刻みに縁を走って、駒下駄を片足ずつ、嘴でコトンと壇の上に揃えた。が、それは鴉が変身した沓かも知れない。というのも、運んできた鴉の真っ黒な羽が同時に消えたのである。
足が浮いて、ちらちらと高く上がったのは、白い蝶が、すかさずその塗り下駄の底に潜って舞い上がったからであろう。――見ると、姫はその蝶に軽く乗ったようにして宙から下り立った。
「栗鼠よ、栗鼠よ、お床几、お床几」と、翁が呼ぶと、古栗鼠の小栗鼠が、樹の根で拵えた、黒檀のように光沢があって、木目は蘭を浮き彫りにしたようなのを、前脚で抱えて、ひょんと出た。
姫神の袖近く、哀れにも、片手の甲の上に額を押し伏せた赤沼の小さな主は、その目を上げるや否や、我を忘れて叫んだ。
「ああ、見えましゅ!……あの向こうの丘の、二階の角の室に、三人が居やがるでしゅ!」
姫の装う紫の褄下は、山懐の夏草が淵のように暗く沈んで、野茨が白く乱れ咲くばかりであるが、そこに、星明かりに似た沖の船の燈が二つ三つ見え始め、町の屋根が音のない波のように連なる中に、森の雲に包まれながら、その旅館――すなわち、桂井の二階の欄干が映し出されて、あたかも大船の甲板のように浮いている。
が、鬼神の瞳に引き寄せられたか、今度は社の境内の足許に切り立つ石段が、早くも桂井の二階に見立てられた舷(*6)へ昇る梯子かとばかり、遠近の法規が乱れて、赤沼の三郎が角の室だという八畳の縁近くに、鬢のふっさりした束髪(*7)と、年増の薄手な円髷と、男の貸し広袖を着た棒縞さえ、靄を分けて、はっきりと描かれた。
「あの三人は?」
「はあ、あれが、そのこと」と、翁が手庇をして首を傾げた。
その時、社の神木の梢を閉ざした黒雲の中から、怪しげな冴えた女の声がして、
「お爺さん――ここからは私が、お引き継ぎします。ぽぅ。ぽっぽ」
木菟の女性である。
「皆、東京の下町の人間です。円髷は踊りの師匠。若いのは、その師匠の姉分にあたる者の娘。男は円髷の亭主で、ぽっぽぅ、おはやし方の笛吹です」
「や、や、恐るべき千里眼!」翁が仰いで言うと、
「あら、そんなでもありませんわ。ぽっぽ」と、何でもない風に言った。河童は肩を一つだけ聳えさせて、
「芸人でしゅか。士農工商の道を外れた、ろくでなしめら」
「三郎さん、でもね、結構上手みたいですよ、ぽぅ、ぽっぽ」
翁は初めて、気だるげに、横に頭を振って、
「いや、芸を一通り会得するだけでもなかなか難しいものじゃ。まして、巧者となれば、相当得難いもの。人間の癖をして、上手などとは褒め過ぎじゃぞよ」
「お姫様、トッピキピィ、あんな奴らはトッピキピィでしゅ」と、河童は水掻きのある片手で鼻の下をベロベロと擦って言った。
「姫神はおおよそ納得がいかれたとお見受けした。赤沼の三郎、仕返しは、どのようにして欲しいのかの。まさか、生命を奪ろうとは思うまい。厳しゅうしても笛吹は目が見えんように、女どもは片耳を殺ぐか、鼻を削るか、歩けんようにするとかくらいかの――軽うて、気絶……で、少時して、息を吹き返さすかの」
「えい、神職様。馬蛤の穴に隠れた小さなものを虐げました。仕返しに、あのご覧になった石段下一杯に倒れた血みどろの大魚を、雲の中から、ずどどどど! と、出し抜けに、あの三人の座敷に投げ込んでいただきたいでしゅ。気絶しようが、のめろうが、鼻が欠け、歯が欠けようが、大きな賽の目次第で、どうなろうとも本望でしゅ」
「ほ、ほ、大魚を降らして、賽として投げるか。面白かろ。倅、思いつきはなるほどよく分かる。じゃが、今はこのお社もお人が少なじゃ。あの魚は、かさも、重さも、壊れた釣鐘ほどあって、のう、簡単には参らぬ」
と言った。神に仕える翁の、この譬えの言を聞かれよ。筆者は、大石投魚を表現するのに苦心したが、こんな適切な形容は、凡人には思いもつかなかった。
すると、お天守の杉から、再び女の声で……
「そんな重いもの、持ち運ぶまでもありませんわ。ぽう、ぽっぽ。――あの三人は町に遊びに出かけるところなんです。少しばかり誘いをかけますとね、ぽう、ぽっぽ――お社近くまで参りましょう。石段の下へ引き寄せておいて、石投魚の亡者を飛び上がらせるだけでも用は足りると存じますのよ。ぽう、ぽっぽ――あれ、ね、娘は髪のもつれを撫でつけております。頸の、まぁ、何と白うございますこと。次の室の姿見へ、今度は年増が座りました。――感心なこと。娘が丸髷のお手伝い――あの手絡(*8)の水色は涼しそう。ぽう、ぽっぽ――ほら、娘が年増の髷の髪を撫でつけますよ。女同士のああしたところはしおらしいものですわね。今に酷い目に遭うのも知らないで。……ぽう、ぽっぽ。――可哀相ですけれど。……もう縁側へ出ましたよ。男が先に、気取って洋杖なんかもって――あれでしょう、三郎さんを突いたのは――帰途にはきっと、杖にして縋りたいと思うでしょう。ぽう、ぽっぽ。……今、すぐ、玄関に出ますわ、ご覧なさいまし」
真っ暗な杉の中に籠って、長い耳が左右に動くのを黒髪で捌く女顔の木菟が、紅い嘴で笑う様が見えるようで恐ろしい。その丸い顔が月に化けたのではないが……。
「ご覧なさいまし」という言葉に続いて、隧道を覗かせるように、そのずっと先の真正面へパッと、やや薄赤い電燈の光に照らされた、桂井館の大式台(*9)が現れた。
前歯の金歯を光らせて、印半纏の番頭が、沓脱ぎの傍に立って、長靴を磨いているのが見える。いや、磨いているのではない。それに、それは客のではない。不憫にも、河童のぬめりで腐ってポカンと穴が空いたらしい豪奢な長靴を捻り廻しては、落ち込んでいるのである。まだ宵だというのに、番頭のそうしたところは旅館がいかに閑散としているのかを表している。……背後に雑木山を控え、鍵型になっている総二階に、灯りがついていたのは、三人の客が出掛けに障子を閉めたその角座敷だけである。
下の廊下に降り、元気よく玄関へ出ると、女たちは、二人で歩行板を衝と渡って、手早く自分たちで下駄を揃えたから、番頭は吃驚して、長靴を掴んだなりで、金歯を剥き出して、世辞笑いでお辞儀をした。
女中が二人出て送る。その玄関の燈を背に、三人は芝草と、植込の小松の中の敷石を道なりに少し畝りながら伝い、石造りの門に掲げた石火舎(*10)に影を黒く映しつつ、段を下りて、砂道へ出た。が、そこは、町からすぐ半町ほど引っ込んだ坂で、一方は畑になり、一方は宿の囲いの石垣が長く続くばかりとなって、人通りもなく、仄暗い。
と、町へ続くたらたら下がりの坂道をつかつかと歩いていると……わずかに白い門燈を離れたと思うところで、どう並んだか、三人の右の片手が三本、ひょいと空へ揃って、踊りの構えように、さす手が上がった。同時にである。同じように腰を捻った。下駄が浮くと、引く手がまた合って、同じく三本の手が左へ、さっと流れた。それが始まりで、一列だったのが、廻って、くるくると巴にくっついて、開いて、くるりと輪になって踊る。花やかな娘の笑い声が、夜の底に響いて、また、くるりと廻って、手が流れて、褄が翻る。足腰が、水馬の刎ねるようにツイツイツイと刎ねて坂を下っていく。……いや、それの早いこと。娘の帯の銀の露の秋草に、円髷の帯の、浅葱に染めた色絵の蛍が飛び交って、茄子畑へ綺麗に映り、すいと消え、ぱっと咲いた。
「酔っとるでしゅ、あの笛吹。女どもも二、三杯飲ったに違いないでしゅ」と、河童が舌打ちをして言った。
「よい、よい。遠くにいようと、近くにいようと、あの破鐘を持ち動かすような面倒はない。お山の草叢から、黄腹、赤背の山鱗どもを綯い交ぜにして、三筋方向から、あの踊りの足許へ走らせ、茄子畑からにょっにょっと、蹴出す白脛へ搦ませよう」この時、翁の白髪が動いた。
「爺ぃ」
「ははっ」と、烏帽子が伏せる。
姫は床几に凜とした姿で、
「男が口の中で拍子を取るが……」
翁は耳を傾け、皺手を耳に当てて聞いた。
「拍子ではございませぬ。ぶつぶつと何やら唄のようで」
「さすが商売人。――笛を吹かずとも、拍子を取るよ。何と唄う?」
「分かりましたわ」と、森の中の木菟が受けた。
「……諏訪――の海――水底、照らす、小玉石――手には取れども袖は濡らさじ……おーもーしーろー、お神楽らしいんでございますの。お、も、しーろし、かしらも、白し、富士の山、麓の霞――峰の白雪」
「それなら、彼らはお富士様、お諏訪様がたに愛でられている者達かも知れない――ちょっとお待ち……あれ、もう気の早い」
姫の紫の袖が解けると、扇子がなよやかな膝に、ちょんと当たった。
びくりとして、三匹の蛇は、閃かせている舌を縮めた。風のように駆け下りて、ほとんど魚の死骸の鰭あたりに居たけれど、ずるずると石段を這い返して、揃って姫を空に仰いだ。一所に居た蛇の鎌首は、僧が持つ如意に似て、ずるずると長い尾を引き摺っている。
二階のその角座敷では、三人が顔を見合わせて、ただただ呆れ果てていた雰囲気である。
それはそうだろう、三人の中で立女形にもなろうかという娘でさえ十五、六ではなく、二十歳を三つも四つも越しているのである。――円髷は四十近くで、笛吹に至っては五十にも手が届く。それが、手を揃え、足を上げ、腰を振って、大道で踊ったのだから。――いや、もっと手の込んだことをしたのだ。見たまえ、ほっとして、草臥れた格好のまま、三方から取り囲んだ食卓の上には、急須、湯呑みを左右に置き、真新しい擂粉木と杓子などという、世の宝物の中で最も面白そうで剽軽なものが揃って乗っている。これに目鼻がついていないのがおかしいくらいで、さらに言えば、婦二人の顔が杓子と擂粉木にならなかったのが不思議なほど、変な夜の外出であった。
「どうしたっていうんでしょう」と、娘が言葉を発しない擂粉木に代わって、沈黙を破り、
「誰か見ていやしなかったかしら、厭だ、私」と、頤を削ったように、不満顔で言えば、年増は杓子に俯向いて、寂しそうに、それでも目元にはまだ笑いの余韻が残って消えずに、
「誰が見るものかね。踊りより、町で買った擂粉木とこの杓子をさ。お前さんと私とが、踊らずに、ただ持って歩行いた方が余程恥ずかしい」
「だって、おばさん――どこかの山の神様のお祭りで踊る時には、擂粉木は真面目な道具だって、おじさんが言うんだもの。……御幣と同じだって。……だから私――真面目に町中でも、そのまま持っていたんだけれど、考えると――変だわね」
「いや、真面目だよ。この擂粉木と杓子の恩を忘れてどうする。おかめ、ひょっとこのように、滑稽もの扱いにするのは不届き千万さ」
さて、笛吹だが、これも町で買った竹製の小さな弓に雀が針金を伝って、嘴に付けた鈴を、チン、カラカラ、カラカラ、カラ、チン、カラカラと音を立てて飛ぶ玩弄品を膝に置き、のほほんとした顔でいる。
……いや、愚かだったと言えば――もし、踊りがそのまま続いて、下り坂を発奮んで行けば、町の真ん中へ舞い出して、漁師町の棟を飛び越し、海へ転げて落ちていただろう。
馬鹿げたことをやってのけたが、決して気が違った訳ではないから、生命に別状もなく、その後は落ち着きを取り戻した。――が、とぼけきった興は尽きず、神巫の鈴から思いついて、古びた玩弄品屋で、たまたま目にしたこの雀を買ったのがはじまりであった。
笛吹は麻布あたりの大資産家で、郷土民俗を趣味としていたので、かつて、その研究と、地鎮祭を兼ねて、飛騨、三河、信濃の国々の、幾つもの谷が深く相交叉する山また山の僻村から招いた、山民一行の祭に参加したことがあった。
「その祭りでは、桜、菖蒲、山の雉子の格好をした花踊や、三尺以上の大きな面をつけた赤鬼、青鬼、白鬼が、斧鉞の曲舞をするんだ。そして、浄め砂を置いた広庭の壇上には、幣を引き結い、注連を掛け渡す。お越しになる神の道は、『千道、百綱、道七つ』とも言われ、『綾を織り、錦を敷いて招く』と謡うほどだから、奥山人が代々伝えられた紙細工に巧を凝らして、千道百綱を虹のように作り上げ、飾りの鳥には、雉子、山鶏、そして、秋草、もみじを切り出したのを、三重、七重にたなびかせる。そして、その真ん中に、丸太薪を堆く積み上げて、勢いよく燃え上がらせると、大釜に湯を沸かせ、湯玉が霰と飛び散る中を、松明の火に揺らめきながら、鬼も、人も、神巫も禰宜も、美女も、前後左右に行き違い、飛び廻って、裸も、虎の皮も、紅の袴も、見えたり、隠れたりする。そして、皆で
『ひゅうら、ひゅう、ひゅうら、ひゅう、諏訪の海、水底照らす小玉石』と唄いながら、黒雲に乗って飛ぶような気持ちになるんだ。そういうのって素晴らしいぞ」
町を歩行きながら、笛吹はちょっと手真似も加えて、女たちに話す。
「その神楽の中に、青いおかめと黒いひょっとこに扮装したのが居てね、こてこてと飯粒を付けた大杓子と、べったりと味噌を塗った太擂粉木で踊りを踊り、見物している、いや参詣している紳士はおろか、着飾った貴婦人、令嬢の顔へ、それを不意にヌッと突き出し、『あれ! きゃァ、ワッ』と言う暇も与えず、ぺたり、ぐしゃッ、どろり、と塗るんだ」と話す頃は、丸髷が腹を横に捩るやら、娘が拝むようにのめって俯向いて笑うやら。ちょっとまた踊が憑いたようになると、またまた面白がって、あの番頭を吹き出させなくっては……いや、女中もからかおうということになったのである。……で、考えられないことだが、荒物屋が杓子と擂粉木を古新聞で包んで渡そうとしたのを、
「そのままで結構よ」と、第一の色気盛りが剥き出しのままに受け取ったから、荒物屋のかみさんが不思議がって笑うよりも、
「禁厭にでもするのか」と、気味の悪そうな顔をしたのを、これまた嬉しがって、人気のない寂しげな夜店の辺りを一廻りしたのだった。
横町から田畝へ抜けて――当初から行こうとしていた――山の森の明神の、あの石段の下へ着くまでは、馬にも、猪にも乗った勢いだったのである。
そこで……何を見たと思う?――三人は、通り合わせた自動車に消えるように、さっと乗り込んで、僅かに三分。……
宿に遁げ帰った時は、女は二人共、顔面蒼白で、杓子と擂粉木を出来得る限り、かき合わせた袖の下へ隠し持った。――おっと、これはいかんと、笛吹は一計を案じて、チン、カラカラカラ、チン。わざとチンカラカラカラと雀を鳴らして、これで出迎えた女中たちの目を逸らせたほどであった。
「言ってみれば、儀式で使う宝ものと言っていいね。降って湧いたように食卓に乗ったって、何も気味の悪いことはないよ」
「気味の悪いことはないったって、本当に変ね、帰り道でも言ったけれど、行きがけに宿を出た途端、いきなり踊り出したのは誰なんでしょう?」
「そりゃ、私だろう、正直なところ。お前にも話したことがあると思うけど、その時の祭りの踊りを実際に見たのは私だから」
「ですが、こればかりはお前さんのせいともいえませんわ。……話を聞いていますだけに、何だか私だったかも知れない気がする」
「あら、おばさん、私のようよ。いきなりひとりでにすっと手が上がったのは」
「まさか、つられて手が上がったのなら、自分では分からないよ――でも、洋髪にしていて、うまくお婿さんをとれなかったら、ちゃんと高島田に結おうというあざとい娘の癖にね」
「おじさん、ひどい、そんなことで高島田にするなんてことはしません。今は、やむなく洋髪にしているのよ」
「おとなしく、ふっくりしているように見えて、時々ああいう口を利くんですからね。――吃驚させられることがあるんです。――いつかも修善寺の温泉宿で、あそこは廊下に橋が掛かっていて、川水を引き入れた流れの瀬があるでしょう。そこに巌を組んでこしらえた小さな瀧があって、上から落ちるのを、池の鯉が揃って、競って昇るんですわね。水をすらすらと上るのは割合やさしいようですけれど、流れに煽られて、こう、颯と急になる、落ち口の巌角を跳ね越すのは相当難儀するみたい……しばらく様子を見ていると、徐々に皆上ったけれど、一匹だけ残ったのがいて、ああ、もう少し、もう一息というところで瀧壺へ返って落ちるんです。
『そこよ、しっかり』って、この娘――口へ出しただけならまだいいにしても、終いには目を据えて、熟と見たと思うと、湯上がりの浴衣のまま、あの高く取ってある欄干を、あっという間もなく、裸足で、裸足でよ、跨いで――お帳場でそう言っていましたよ。随分おてんばさんで、二階の屋根づたいに隣の室へ、ばァ、なんて――かつては瓦の庇から、藤棚越しに下座敷を覗いた娘さんもいたけれど、あの欄干を跨いだのは、この宿、開業以来初めてですって。……この娘。……ご当人は、そうやって、巌から巌へ飛び移り、その鯉をいきなり掴むと、瀧の上へ泳がせたじゃありませんか」
「説明に及ばずだ。私も一緒に見ていたよ。吃驚した。時々放れ業をやる。そんなことだから縁遠いんだね。たとえさ、真のおじきしたところで、いやしくも、男の前だ。あれは跨いだんじゃない、飛んだんだ。いや、足を宙に上げたんだ。――」
「知らない、おじさん」
「もっとも、一緒に道を歩行いていて、左か右かで、私と意見が違って、さて自分が正しいとなると――銀座の人混みの中で、どうです、それ見たことか、と白い……」
「うれしいわ。多謝おじさん」
「逞しい」
「イヤねぇ、それは取り消して」
「腕を、拳固の構えの握り拳で、二の腕が見えるまでに、ぬっと象の鼻のように私の目の前へ突き出したことがあるんだからね」
「何だか、まだ踊っているようだわね。話がさ」
「おばさん、いきなり踊り出したのは、やっぱり私のように思われてならないのよ」
「いや、ものに誘われて、何かこれは、心を合わせたように上がったのだから、どう考えてみても、間違いなく三人同時だ」
「厭ねぇ、気味の悪い」
「ね、おばさん、日の暮方に、お酒を飲む前。……ここから門のすぐ向こうの茄子畑を見ていたら、影法師のような小さなお婆さんが、杖に縋って何処からか出てきて、畑の真中へぼんやり立って、その杖で、何だか九字でも切るような様子をしたじゃありませんか。思い出すわ。……鋤、鍬じゃなかったんですもの。あの、持ってたもの、撞木じゃありません? 慄然とする。あれが魔法で、私たちは誘い込まれたんじゃないんでしょうかね」
「大丈夫、田舎ではやることさ。作物が良く育つようにという茄子のまじないだよ」
「でも、畑のまた下道には、古い穀倉があるし、狐か狸か……」
「そんなことは決してない。考えているうちに、私にはよく分かった。雨続きだし、石段が辷るだの、お前さんたち、蛇が怖いのと言って、お詣りするのを失礼したけれど――今夜もほんの気持ちだけ、お鳥居の下までは行ったが――毎朝柏手は打つが、まだお山へ上ったことはないだろう。あの高い森の上に、千木のお屋根が拝まれるんだが……我々が踊ったのは、ここの鎮守様の思し召しに違いない。――五月雨の退屈しのぎに、踊りでも見たいものだ、とね――だから、さあ、その気で、更めてここで真面目に踊り直そうじゃないか。神様にお目に掛けるほどの芸当は、お互いお世辞にも持ち合わさないが、杓子舞、擂粉木踊りだ。二人は何はともあれ、それをお持ち、真面目にだよ。さ、さ、さ、いいかい」
笛吹は、細かい薩摩の紺絣の単衣に、借り物の扱帯を締めていたが、博多帯を取って、きちんと貝の口に締め直し、横縁の障子を開いて、お社の方に向かって坐った。――そして、一同は退って、女二人も、慎み深く、手を仕えて、額づいた。
栗鼠はあまりの可笑しさに、堪えきれず、仰向けにひっくり返った。
「ほら、あれ、笛吹の手に雀、……雀が、チン、カラ、カラカラ、カラカラだ。女たちは、杓子と、しゃ、しゃ、杓子と、す、す、す、擂粉木を、差し出したり、引いたりして、踊り廻っているよ。その姿。それ、あの、ま、ま、真顔を見なさいな。これが笑わずにいられるか」
泡を吐き、苦虫を潰すように舌を噛んで、ぶつぶつと小じれに焦れていた赤沼の三郎も、うっかりしたように、思わすニヤリとした。
姫は、赤地錦の帯脇に、同じ袋の緒をしめておられる。一見、守刀かとお見かけしたが、違って、一管の玉の笛であった。それをすっと抜いて、花の唇を斜めに、氷柱を含んでいるかのように、涼しく、気高く、吹き口に押し当てた――
木菟が、ぼう、と鳴く。
社の格子が颯と開くと、白兎が一羽、太鼓を抱くようにして、腹を揺すって笑いながら、撥音を低く、かすめて打った。
すると、河童の片手がひょいと上がって、また、ひょいと上がって、ひょこひょこと足で拍子を取る。
姫はそれを見返りになられ、
「三人を堪忍しておやり」
「あ、あ、あ、姫君。踊っては、もう、喧嘩になりませぬ。うう、うふふ、蛇も踊るか。――藪の穴から狐も覗いて――あはは、石投魚も、ぬさりと立った」
わっと、けたたましく絶叫して、石段の麓を取り囲んでいた人々は、右往左往して、五、六十人は吹っ飛んだだろう。
赤沼の三郎は手をついた――もうこれで可いでっしゅ、姫神様。……
「何とも愛想のないことよ。撫子も、百合も、あるけれど、活きた花を手折るよりも、……せめて、この一折を持って行きゃ」
笛を持つ御手に持ち添え、濃い紫の女扇を、わざわざ三郎の近くまで寄ってお与えになった。
片手を傷つけられたことなど、今はもう大したことではなかった。
「御賜の光はこの身に添い、案山子が着ていたこの襤褸も錦の装束となりましょう」
翁が傍らで手を挙げた。
「石段を使うには及ばぬ。飛んで行かっしゃい」
「はあ、今更にお恥ずかしい。大海原に館を造る、跋難陀龍王、娑迦羅龍王、魔那斯龍王、龍神、龍女も、色には迷うと聞きますでしゅ。遠く離れたちっぽけな所に住む泥土の鬼畜、臆病者の小生、ただ、馬蛤の穴へ落ちたとしても、空を翔るのはまだ自在。これも、姫君のご恩の賜。もしも、何か事が起こって、お召還とあれば、水は元来、自由自在のこの童。電火、地火、劫火、敵火、爆火などあれば、手一つでも消しますでしゅ。ごめん」
それだけ言うと、ひょうと飛んだ。
ひょう、ひょう。
翁が、ふたふたと手を叩いて、笑い、笑い、
「漁師町は今頃は行水時よの。そうでなくとも、あの手負いじゃ、久米仙人のように白い脛に惑うて落ちると不憫じゃ。見送ってやれよの。――鴉よ、鴉」
かあ、かあ。
ひょう、ひょう。
かあ、かあ。
ひょう、ひょう。
雲は低く、灰汁色を漲らせた蒼穹の奥、黒く流れるところを、ただ一直線に飛ぶものがある。一万里の荒海、八千里の広野の五月闇を、一瞬鋭い光を放ちながら、掠め去る飛行機に似て、似ぬもの。
ひょう、ひょう。
かあ、かあ。
北を目指して、北から吹く逆風はものともしないが、海洋の浪の乱れに、雨がひとしきり、どっと降れば、上になり下になり、飛び替わり、翔け交じって、
かあ、かあ。
ひょう、ひょう。
かあ、かあ。
ひょう、ひょう。
かあ、かあ。
ひょう、
ひょう。
…………
…………
(了)
*1 あしなか……踵のない短い草履
*2 式台……玄関口
*3 船後光……仏像の後ろにある船形の光背。
*4 お紫……宮中で官女たちが使う言葉で「鰯」を指す。
*5 田打蟹……潮招きの別名。
*6 舷……船の側面。
*7 束髪……明治時代に流行した女性の髪型で、洋風の端緒を開いた。
*8 手絡……女性用髪飾りの一種。
*9 式台……ここでは、玄関先に設けた板敷きの部分
*10 石火舎……ガス灯の火を蔽う石の筒。
「鏡花の作には多少の想像が必要である。想像なくして彼の作を読まうというのは、三行一目の弊と同しく曖昧に終わってしまふので、関係の糸を討ね、因縁のすぢをたどって進んだならば、恐らく解しかたいのは、幾等もあるまいかと思ふのである」(芝峯「批評 鏡花の袖屏風」から)
確かに、鏡花の文章は斜め読みができません。また、言葉をそのまま読んでいても、理解するのが難しい箇所も多くあります。芝峯の言う通り、「多少の想像」が必須です。
私などは読んでいて行き詰まると、多少どころか、ああでもない、こうでもないと、色んなことを考えます。後で、とんでもない場違いな想像をしたと気づくこともよくありますが。
しかしながら、自分の想像したことが、文章を解釈する上で、ぴったりハマった時は、何とも言えない快感を覚えます。
今回、この作品の勝手訳を行う時にも、多くの想像を働かせました。いや、まだまだ想像が足りず、間違って解釈している部分もあるかも知れませんし、逆に、想像を働かせすぎて、おかしな訳になっている所もあるかも知れません。
この作品でも、そういう意味で、訳に自信のない箇所がいくつかあります。
あまりにも大きく誤った解釈をしている場合は、ご教示いただければ幸いです。
勝手訳の読みにくい文章は相変わらずですが、この作品は青空文庫にも収められていますので、読者の皆さまには、読後は(あるいは読前)に是非とも原文をお読みいただき、鏡花の文章の妙味を味わっていただきたいと思っています。
そして、できれば、現代語訳にも挑戦してみませんか?
鏡花の文体の不思議さを身をもって感じられますし、同時に、あなただけの、ひと味違った文章ができるかも知れません。