第一話
少し肌寒いくらいの静かな風が吹くこの季節が好きだ。
昼間の気温に油断した半袖のブラウス。
袖から出る腕を心地良く冷やすこの風が昔から好きだだったけれど、今はそれだけが理由じゃない。
コーヒーの香りが恋しくなるこの季節。
ここのところ、この心地良い風の訪れをずっと心待ちにしていた。
『…あ、いた。』
その後ろ姿を捉える。
太陽が容赦なく照りつける夏には眺める事の出来なかった光景。
しかも、今日はうす曇りの空だから尚のこと良い。
木々を黄色く色づける秋。
物思いにふけった様に空に広がる白い雲をぼんやりと見上げる広い背中と、コーヒーの紙カップを持つ長い指。
きっとあの中はラテだと思う。それも砂糖入りのやつ。
彼の邪魔をしないように少しだけ離れてベンチの隣に腰掛けると、私に気付いたのか横目でチラリとだけ見て、また彼の視線は宙に浮いてしまう。
穏やかな風は前よりも少し伸びた黒髪をふんわり揺らし、ガラス玉のように澄んだ瞳に掛ける。
その瞳に今の私はどう見えるのだろうか。
『今日の私はどうですか?』
そう尋ねると、ガラス玉はこちらを向き、私の肩の上あたりに視線を固定する。
顔を見つめられているわけではないのに、その視線の高さに少し鼓動が揺れてしまう。
少しの沈黙の後、彼は「うん、悪くない。」とカナリアのような声で呟き、手の中のカップを口へと運ぶ。
彼の隣にいるとまるで心が洗われるようで、その日どんなに嫌な事があっても、脈は平穏を取り戻し呼吸が整うように感じるのだ。例えるなら森林浴してるみたいな。
「曇りっていいよね、俺すき。」
『白いから?』
「うん。」
彼は白という色を好む。
それは単にその色が好きだからという普通の感覚とは少し違う。
「雨雲はきらい。白くなくなるからね。」
灰色に染まる雨雲。
憂鬱そうに眉を少ししかめる彼は黒という色を極端に嫌う。
それも単にその色が嫌いだからという理由じゃない。多分、人間の嫌な部分を連想するから。
『大丈夫。今週は雨降らないはずです。』
「そう?ならよかった。」
彼の優しい空気に触れると、まるで自分も優しい人になったような錯覚に陥る。そんなわけないのに。
『もしも雨が降ったら、その時は私が白い傘を差します。』
そう言うと、その不思議な瞳を細めて笑う。
「それはいいね。」
彼の、薫さんの隣にいるだけで私の世界は彩られる。
「沙織?」
薫さんの隣で雲掛かる空を仰いでいると後ろから声を掛けられ、振り返ると少し離れた場所からオリーブ色のバックパックを肩に掛ける悠太が手を挙げて立っていた。
少しだけ、タイミングが悪いなって思った。
「…呼んでるよ?」
返事をするのを躊躇っていると、薫さんは雲を眺めたまま呟く。
悠太の明るい声とは対極なトーン。
時の流れが止まったように感じていたけれど、キャンパスの建物の時計は長い針が反対側を指している。
『はい…それじゃ、また。』
彼からは返事はなかったが、来るなとは言わなかった。
「もう帰っちゃったんだと思ってたー。」
ベンチから離れ、悠太の側まで行くと彼は頬に笑窪を作る。
彼の笑顔は犬を連想させるところがあって、どうにも憎めない。
『今終わったの?』
「うん!ほら、うちの学科、午後の講義多いしねー。」
悠太は大学の同期で、いつもは友人である康平と一緒にいる。
同期と言っても、彼らは経済学部だけれど。
茶色い髪をフワフワさせている悠太と、短い黒髪でクールな康平。
その見た目の印象の通りで、彼らが一緒にいると会話のほとんどは悠太が口を開いていて、康平は「へぇ、知らなかった。」とか「それはお前が悪いじゃん。」という感じで彼の髪の長さに比例した相槌を入れている。まるで、兄と弟だ。
今日は一緒じゃないのか聞くと、悠太は呆れたように、彼女と帰ったーと言って肩を竦める。
悠太の事だ、二人の邪魔をしないように、あ!俺用事思い出した!とか何とか言って別れてきたんだろう。
「沙織も今日はもう講義ないの?」
『あ、うん』
そう…、だからあそこにいたんだけどね。
横目をベンチにやると、薫さんはさっきの体勢のままで、その後姿に視線が捕まりそうになったところで悠太の声が遮る。
「なら、一緒に帰ろうよ。」
『あぁ…うん、いいけど。』
「やった。」
彼はいつもこうやって口角をめいっぱい持ち上げて笑う。
朗らかを絵にしたようなその笑い方も薫さんとは全くの正反対だなって思う。
まぁ、薫さんが笑うところなんてほとんど見た事がないけれど。
「今日のところは、彼女と帰った康平に感謝だわ。沙織と一緒に帰れるしー。」
その声の高さもカナリアのさえずりとはやっぱり正反対だと思う。
悠太は顔色にも声色にも、その時の自分の感情をはっきり含ませるからだ。
そういえば、カナリアって、幸せを呼ぶ黄色い鳥だったよな。