惜春の天花
「……あ」
つぼみがほころぶように 君の声がして
僕は目を上げる
不意に
天花のひとひらが 君の横顔をよぎった
「きれい」
君は ささやき
その白を 目で追う
君のまなざしの先には
遠い街並みが 紗の向こうにかすんでいた
「でも もう見納めね」
君の言葉は……
すべてをここに置いていくと言っているようで
僕は また捕まえそこねて
白い息とともに 薄曇りの三月の空に昇っていった
そしてそれは 白い欠片に姿を変えて……
オレンジ色の傘を広げたような駅舎の屋根に
春を待って立ちすくむ桜の古木に
ふぞろいに並んだ自転車に
待つ人のいないバス停の屋根に
そんな遠ざかっていくだけの 思い出のすべてに
そして
別れの刻をもてあます僕と君に
音もなく降りかかる
僕は ふと思う
あの梅の花にも
君と歩いた梅林の 花盛りをむかえた紅梅にも
この白いものたちは 降りかかっているのだろうか
*
はじまりは 思いがけない再会だった
見渡すかぎりの梅の花
その一輪が人の姿をとったように 君はそこにいた
「雨宮くん」
まろやかな声が 僕の名前を呼んだ
とまどう僕に 君はほほえむ
「私 神谷です
中三の校外学習のとき同じ班だった」
君の名前とともに 記憶が鮮やかによみがえる
「ああ あのときの……
でも よく僕のことがわかったね」
うん と君はうなずく
「だって雨宮くん あのころのままだから」
そう 六年の歳月は僕と君に不平等で
制服を脱ぎ捨てた君は
ピンクのニットとこげ茶のスカートを着こなしていて
髪を揺らせて君が会釈する
「四月から同じ研究室ね よろしくお願いします」
こちらこそと答えながら 僕は仲間たちを探す
視線をさまよわせる僕に 君はくすりと笑う
「また はぐれちゃったね……」
早蕨の小川のほとりを 僕と君は肩をならべて歩く
道の両側に紅白の梅が 今は盛りと咲き競う
ひと足ごとに春めく歩みが その紅梅の前で止まる
君は一輪の花にまなざしを向け そのまま時が凝った
僕が歩きだしても 君は立ち止まったままで
その隙間を まだ冷たい風が吹きぬける
「行こう」
僕の言葉は君を素通りして
君は心を奪われたように 花だけを見つめている
「……神谷」
僕が君を呼ぶと 君は驚いたように僕を見て
「ごめんね」
と 頬を染めた
「なにを見ていたの?」
僕の問いかけに君はためらい
それからぽつりとつぶやいた
「いろ」
「え?」
「色よ、花の」
君の白い指先が
一枚の花びらにそっと触れる
紅梅が わずかに身じろぎをした
「これと……」
君の指が隣の花びらに移る
「これ」
それから僕を見て 君は
「わかる?」
と 問うた
僕が首を振ると
「かさね」
と 君は答えた
「かさね?」
「そう 襲 これは『紅梅匂』だわ」
君が指差す紅色の花びらと 隣に寄り添う薄紅の花びら
やわらかな光の中で 色が重なり合い溶け合う
「襲は平安時代の女性の衣装に用いられた色の組み合わせよ
『紅梅匂』は表が紅で裏が淡紅
雪の舞う早春に香り高く咲く紅梅の濃淡を表しているわ」
君の言葉は僕の知らないことばかりで
陽光を浴びた君はまぶしくて 僕は目を細める
「私 光や色に興味があるの それでつい見とれてしまって」
ごめんねと言って 君はちいさくお辞儀をした
ほの甘い梅の香りが鼻孔をくすぐった
その日から僕は 君をよく見かけるようになった
キャンバスの中庭で 書店の専門書コーナーで
いきつけのカフェの片隅で そして乗りかえ駅の雑踏で
たぶん いや きっと
僕は気づいていなかっただけなのだ
なにげない日常の そこここに君がいたことに
そして気づいてしまったら僕はもう
君から目が離せなくなっていた
春から夏へ 日々は足早に通り過ぎていく
その意味さえ気づかせないうちに
けれど君がいる場所だけは ほんのりと色づいて見えたから
夜空に昇っていったオレンジの玉が ぱっと弾けた
あまたの光が飛び散り うたかたの花を咲かせる
君は仲間の輪に入らずに 夜空を見上げている
白地にすすき柄の浴衣が よく似合っていて
まとめ髪を飾るバレッタに 桔梗の小花が涼しげに咲いていた
君の隣には男が立っていて 君と言葉を交わし笑いあう
僕は花火を見るふりをして 君から目をそらす
口にしたビールは いつもより苦みがあった
君との話を切り上げた男が 僕のとなりに立つ
「神谷のこと ずっと気になってたんだ」
僕はあわてて君を見る
君の襟足と白いうなじが妙に艶めかしくて
かたずをのんで僕は続く言葉を待った
男はビールを口にして ため息をついた
「みんなと打ち解けないっていうか なんだか距離を感じてさ
いつもどこか遠くを見てるみたいで」
花火が打ちあがる
黒い空に咲いた光の花を映して 君の瞳が色とりどりにきらめく
色と光は君を夢中にさせる
話しかけられても気がつかないくらいに
それは君が人を寄せつけないようにしていると
そんなふうに見えるのだ
そう 君の秘密を知らない人には
けれど僕は知っている
君はいま光と色の競演を
その目とその感性で追っているだけなのだと
それはたぶん僕と君の秘密で
今までも そしてこれからも
「彼女にはきっと 僕たちと違うものが見えているんだよ」
僕はそう答えて
そう答えられる自分に満足して
ビールを喉に流し込んだ
酔いが回ったのか もう苦みは感じなかった
またひとつ花火が打ちあがり
歓声とともに 僕の心も高揚した
けれど……
夏休みが終わって木々が葉を落として
卒論が終わって研究室に行かなくなると
君と会うこともなくなった
君がいない ただそれだけで 僕の日常は灰色に沈んだ
そんなある日のことだった
研究室に居合わせた僕と君に教授が告げた
「謝恩会を雨宮と神谷で企画してくれ
卒業したら もう会えなくなる人も多いだろうから」
その言葉は 僕と君の未来を言い当てているようで
僕の胸が急に締めつけられた
「そうですね」
と 答える君の笑顔は あまりに無邪気で
僕は思い知った
僕と君をつなぐのは 研究室の仲間という細い一本の糸だけなのだと
大学から会社へ生きる場所が変われば かんたんにつなぎ替えられてしまう
そういうものでしかないのだと
その日の帰り道
僕は君をケーキの美味しいカフェに誘った
君がうれしそうにうなずいたから 僕は決心した
この想いを君に告げようと
なのに……
「あのね 私ね」
豆腐レアチーズケーキが ちょうど半分の大きさになったとき
ガラス窓から差す陽光が作る ひだまりのなかの君は
僕を出し抜いてその話を切り出した
「ドイツに行くことにしたの そこで腰を据えて
照明の仕事をしようと思っているの」
遠い異国の名前と 思いもかけない進路
君の言葉は あまりに突然で 現実のことだと思えなくて
僕の想いは 行き先を見失った
けれど君の告白は まっすぐ僕に向かってきた
「憶えてる? 紅梅匂の襲」
忘れるわけがない
だれも気づかない わずかな色のちがい
君だけが それを見つけた
僕だけに それを伝えてくれた。
それは僕と君の甘やかな記憶で
けれど それは同時に……
僕がうなずくと 君は目を輝かせた
「日本の伝統的な色彩は光の表現は きっと世界に通じる
私 やってみたいの ねえ どう思う?」
君が求めている答えが 僕にはわからなくて
君を引き止める覚悟が 僕にはできてなくて
だから僕は……
「わからないよ僕には どうして ここではだめなのか
言葉も生活も なにもかも違うのに
どうしてそんな遠い国に行くのか……」
ただ意味のない問いを
伝えるべき思いとはかけ離れた言葉を
並べていくことしかできなくて
たしかな喪失の予感を 受け入れたくない僕がいて
「どうして……」
僕はもう なにも言えなくなった
君がすまなさそうに頭を下げる
「ごめんなさい 困らせるつもりじゃなかったの」
ちがう
こんなことを話すために ここに来たんじゃない
僕は君の近くにいたいと
この想いを受け入れてほしいと
君に伝えたくて
けれど君は……
「ちょっと弱気になってたみたい
うまくいかなかったらどうしようとか
余計なことを考えてしまって」
やはり遠くばかりを見ていて
「自分で決めたことなのにね」
君がほほえみを浮かべたとき 僕はわかったような気がした
君の心がどこにあったのか
*
列車の行先表示を見上げる
君の瞳に
雲間からのぞいた空が映る
青く そして遠く
君はきっと その色と
その彼方だけを見ている
君が 足を踏み出す
ベージュのワンピースの胸元で 金色のペンダントが揺れ
ウェーブのかかった髪から 白いひとひらが払い落されて
君はドアをくぐった
発車のベルが鳴り
エンジンがうなりをあげて
列車は走り去った
僕のなにものも とどかないところへ
立ちつくす僕のまわりを 静かに天花が舞う
それはたぶん
言えなかった言葉が
伝えられなかった想いが
やり直すことも取り戻すこともできない 君と僕の時間が
僕からこぼれ落ちたそんなものたちが
ちいさな白い欠片になっているのだろう
ホームに落ちたそういうものたちは
ひとときだけ姿をとどめて
それから あとかたも残さずに消えていった
どこからかひとつ
春告鳥の声がした
(了)