03 純空秀二
シューサイと言われれば分からないだけで、「 純空秀二」と言われれば流石の伊月でも分からないわけではなかった。
昼休みからの時間の流れはあっという間で、もう放課後になった。伊月はどの部活にも所属していなかったが、学校に残らなければならない理由があった。
「えー、だからな、お前ヤバいよ」
職員室に呼び出されたかと思えば、生物担当兼担任の教師が実に軽い調子で言った。
「ヤバいって……なにが、ですか」
「成績。と、出席日数と遅刻回数」
それは充分自覚しているつもりだったが、教師直々にそういわれたのでは、相当危ないのだろう。思わず顔色を真っ青にするところだった。
「それは、わかってますけど。進級できないわけじゃ、」
「このままいったら確実に進級は無理なんだがなー」
いかにも他人事、という調子で教師・山崎は続ける。
「多分、そう多分、お前ならできるよ」
「できねーよ!」
「大丈夫だって。俺もそういう時あったからさあ」
白衣を身に纏った山崎は、ついにはペンを指で回しながら無責任なことを言い始めた。伊月は自分が「やればできる」タイプではないことを自覚している。勉強においては。暗記系ならともかく、理数系など点をとれるはずもない。何故なら基礎すらわかっていないからだ。
「ま、とりあえず生物がんばれ。生物。覚えときゃいーんだよ」
「……そうは言っても、ノートすらとってねぇ」
「お前友達多いんだから、ノートぐらい借りれるだろ。ああ、あとノート提出な」
そんなことは知っている、とばかりに伊月は小さく舌打ちをした。幸い山崎には聞こえていなかったらしい。すでに丁寧語を使うことすら忘れている伊月に気づかないほど、鈍感だ。
「俺のオススメは純空だぞー。あいつは俺が口頭で言ったことも丁寧に書いてるしなあ」
「また純空かよ……。純空って、何、そんなにすごいヤツなの」
「そりゃー勉強できるし、運動も出来るって体育の串本先生は言ってたなあ。通信簿はきっとオール5だろうなあ。お前はそろそろオール1を獲得しそうだけどなぁ」
「るせー!」
ビキっと頭にきた伊月はショルダーバッグを手に取り、わき目もふらずに職員室を出た。うしろで「まあ頑張れー」と声をかけてくる山崎がいたが、無視した。
「よ。終わった?」
「終わった終わった。もう即効で帰る、気分わりぃ」
職員室を出たところで伊月を待っていた多喜と合流し、伊月は足早に昇降口へ向った。
「ところでお前、今日部活はどうしたんだよ」
「最近はちょっとサボりぎみー」
放課後に多喜「一緒に帰ろう」と誘ったので、伊月もその誘いに乗ったが、そういえば多喜はバスケ部に所属していたことを思い出した。
二年になると部活をやめる生徒は多くなる。多喜もその一人なのかもしれない。
「なんで?」
「うーん、うちの部活……みんな遊び半分だしなー」
「部活ってそんなもんなんじゃねーの?」
中学も高校も部活には入らなかった伊月には、あまり想像がつかない。多喜は曖昧な笑みを浮かべただけで、その質問に対しての答えは返さなかった。
そう言っているうちに昇降口へたどり着き、各々自分の下駄箱のもとへ行く。
「俺も伊月みたいにバイトしよっかなー。時給のいいやつ……あ」
「まあやりたきゃやれよ……ってなんだよ?」
「ホレ、あれだよ。シューサイって」
「あぁ?」
指を指された方向を見ると、深緑色のブレザーをきっちりと着用した男子生徒の後ろ姿があった。明るいブラウンの頭髪が目を引くが、制服を着崩した様子はなく細身の体にぴったりと馴染んでいるため、いわゆる「優等生」に見えなくも無い。
そういえば、何度も合同体育で目にしたことのある男子生徒だ。
「シューサイって……純空秀二のことだろ?」
「なんだ、知ってるんじゃん。頭いいし運動できるし、名前が「秀」だからシューサイ……だと思う」
「へぇ……」
ふと、伊月たちの会話が聞こえるはずもないが、純空が振り向いた。
記憶にあるとおりの顔をしていた。男のくせに、まるで女のような端整な顔。その落ち着き払った雰囲気も、どこか他人とは違う――見えない隔たりによって区別されているような気がした。
「多喜」
「え?」
伊月が声をかけると、下駄箱から靴を取り出していた多喜が動きを止めた。
「俺今日、やっぱ一人で帰るわ」
「なんで」
「なんでも、だよ」
怪訝な顔をする多喜をよそに、伊月は、ただ一点に純空を睨んでいた。