02 日常
「よう、今日も遅刻か伊月」
騒がしい昼休みに自分の教室に入るなり、いつものことのような口調で友人の一人が言った。その友人・麻倉に同調するように、クラスの人間は誰一人として伊月を見なかった。
彼の言うことは事実なので、色々理由を取り繕うのももう面倒になった。
「遅刻だよ。言っとくけどサボりとかじゃねーぞ」
「分かってるって」
分かってるって、何が。と、口が滑りそうになった。
伊月が退魔師であり、時折妖怪退治をしているなど誰も知らない。言ったとしても誰も信じるはずはないし、信じてもらえたとしてもそれは優遇される理由にもならない。欠席日数も遅刻回数も決して0にはならないのだ。
「でもお前、そんなんで進学できんの? 2年に上がれただけですげーよ」
「なんとかなるんだよ」
適当な返事をして、伊月は自分の席に腰を下ろした。
「なんとかなるって……お前頭も悪いのになんとかなるわけねーだろ」
「いてっ」
軽いでこぴんをかまされ、あまり痛くはなかったが反射的に声が上がる。
欠席日数と遅刻回数が多い上、テストの点数ですら下方を低迷している伊月が進級できている訳はある程度予想がついていた。それは他でもない、自分が「黒峰家」の人間だからだ。
黒峰家は退魔師としてだけではなく、昔から政府の重鎮としてでも名を馳せ、政治家や資産家としてでも有名である。この雨水高校も黒峰家と何らかの関係を持っているはずだ。
「俺が知るか」
勘当されたとはいえ、自分は「黒峰」伊月なのだ。
「よー、伊月ちゃーん! やっと学校来たんだ」
教室の隅の方で、何人かとトランプをやっていた男子生徒が声をかけてきた。そのあまりの大声に、教室にいる何人かが彼を迷惑そうに一瞥する。
「るせー! 別に不登校とかじゃねえって言ってんだろーが」
周囲の空気など微塵も読みとることのできない多喜は、それまで続けていたトランプを他の生徒に押し付け、伊月のところまで一直線にやってきた。
「やーや、伊月ってばたまに学校こねぇじゃん? 来てもどっか一人でフラフラしてるしよぉー」
「るせーなあ、そんなの俺の勝手……」
馴れ馴れしく背中に寄りかかってきた多喜を、鬱陶しそうに引き剥がそうとした。が、伊月は多喜の肩を見るや否や、動きを止めた。もちろん、その伊月の異常に気づかないほど多喜も麻倉も疎くは無い。
「? 何? 何かついてる?」
「いや、別になんも?」
伊月の視線を追って、多喜は自分の肩を見下ろす。しかし彼の目には何も映ることはなく、前の席に腰を下ろしている麻倉も、当然そのように返答した。
だがしかし、普通の人間の肉眼ではとらえられないものを、いわゆる普通ではない伊月は見ていた。ほんの小さな生物であるが、その姿はひどく醜悪で怪奇だった。野球ボールのような胴は毛に覆われ、その体をどうやって支えているのか、細い線のような四肢が伸びる。目玉は蜘蛛のように幾つも並び、口から垂れた舌は長い。こんな生物は、この地球のどこにも存在してはいない。
「じゃ、何。何だよ?」
「べッッつに……なんでもねえよ!」
バシ、と、気味悪がる多喜の頭を殴るついでに、その醜悪な生物も一緒に殴る。それは「ギャッ」と叫んで転がり落ちると、逃げるように姿を消した。
伊月は、こうした「妖」が見えることを、彼らに話すことを嫌った。現実と非現実とを、分けて生活するのが伊月の主義なのだ。
「いてー! なんで殴るんだよ! 伊月がドメスティックバイオレンスする〜……」
「伊月はなあ、今進学できるかどうかの瀬戸際に立ってるんだよ。刺激してやんな」
麻倉は泣きついてきた多喜を、拒絶することなく受け止める。何に関しても寛大な奴だとは認めるが、その発言は聞き捨てならない。
「何で2年の1学期で瀬戸際なんだよ! ていうかノート貸せ、ノート!」
苛立っているのは否定しないが。
「ノートって、全教科のか?」
「ホラ、なんか、ノート提出する教科のヤツ」
1学期もそろそろ終わりに近づき、評価に繋がるノート提出を要求される教科がいくつかある。
伊月のノートは遅刻や欠席、あろうことか居眠りによってほとんど白に近かった。
「今のところ言われてんのは生物だけじゃね?」
それまで麻倉の膝上に突っ伏していた多喜が、何でもなかったように顔を上げる。
「俺にはそれぐらいしか点を稼ぐ方法がねえ。だからお前ら、誰か俺に生物のノートを貸せ」
「俺のノートは俺にしか読めねえよ!」
「偉くねえよべつに!胸はんな」
「でもさー、伊月。お前いつも頭いいヤツに借りてたよな。俺らみたいな赤点ギリギリのノート写したところで、大した点にはなんねぇよ」
「だよなあー」
麻倉や多喜がおせじにも成績が悪くない、とは言わない。類は友を呼ぶというか、伊月が付き合う友人は大抵成績が悪い。だが、伊月の交友関係は広く、本人の自覚はないが意外と人気を博している。
「否定しろよ。俺は伊月ほど悪くないね」
「知ってるか? そういうのをな、どんぐりの背比べとか、五十歩百歩とかいうんだぜ……」
またしても胸を張っていう多喜に対し、麻倉は遠い目で呟いた。
「そういうなよー。それならさ、シューサイに借りればいーじゃん」
多分、その時に初めて気づいた。
彼の存在に。
「シューサイ、って誰」