第一章 ほころび
蝉は夏を宣言する。
どこか近くで、そう、林立するどこかの樹木にしがみ付いているのだろう、騒音でしかない蝉の声がすぐ近くて聞こえる。風情など感じない、本当にただの騒音だ。
一旦地上から目を離せば、眩しいほどの青い空が飛び込んでくる。地球温暖化よろしく、梅雨明けもまだだというのに真夏並みの暑さを誇っている。肌に纏わりつく温風に汗ばむほどだ。蝉が鳴かなくとも、とっくに夏を知っている。
そこは都会とも田舎ともいえぬ、中途半端な街にある小さな森だった。苔むした階段を少し昇ったところに広がる、空間。樹木が円状に広場を囲い、その中央には廃寺が鎮座している。
黒峰伊月は、そこにいた。
黒髪の長髪をうなじの辺りで結い、地元の高校の制服を纏う少年。しかしその手には、一般人が持ち歩くことはまずない、日本刀が握られていた。
「アサギ、そのまま押さえてろ」
伊月は彼の後ろに控えている少女に声を掛けた。見た目中学生といった感じの少女は、着物にも似た衣装を身に纏い、蒼白な顔をして「はい」と答えた。
彼が抑えていろ、と言った対象――それは彼らの前に鎌首をもたげた、巨大な大百足だった。百足とはよく言った、胴体に百の脚が連なり、獲物を食い千切らんと開口された口にすら凶暴な牙が並んでる。
それらを前にして、伊月は全く動じる様子もない。それもそのはず、その大百足は、動くことができないのだ。少女アサギによって「金縛り」を受けているために。
「俺はな……」
鞘に収められた日本刀を抜き取り、乱暴に鞘を投げ捨てる。
「これ以上遅刻日数と、欠席日数を増やすわけにはいかねえんだよ……」
言葉に表れる明らかな怒り。今にも沸騰しそうな。
「ここの土地の所有者がどうとか俺には関係ねえし、それに、それになァ……」
伊月は恐れることなく、その百足に向かい顔を上げた。そこには煌々と光る、敵意をあらわにした双眸があった。
「俺はッ! 害虫が大ッッ嫌いなんだよ――!」
――退魔師と呼ばれる、妖怪退治を生業とする者達がいる。
それらは古来から「退魔師七大名家」を中心とし、中でも「黒峰家」一族を筆頭として、今尚人を害する妖を滅す。
黒峰伊月は「黒峰家」一族の末子に相当する者であるが、数年前、黒峰家当主から勘当を言い渡された。しかし、黒峰伊月は代々、脈々と受け継がれる黒峰家先祖の血を、色濃く受け継ぐものでもあった。
バスに揺られること五分。
伊月の通う雨水高校は、下宿している事務所から少しかかる。隣町まで電車に乗り、そこから自転車で十五分。今日は先ほどの仕事で隣町まで来ていたので、近くのバス停から通学することになった。
雨水高校行きのバスには、朝方であるというのにも関わらず、学生の姿があまり見られない。まばらな客は眠そうに欠伸し、時折乗り過ごして嘆息していた。
揺れの激しい運転に、少し酔いそうだ。
「い、伊月さん……気分がわるそうです」
ふと、隣席に座る伊月の容体を察したアサギが消え入りそうな声で言った。
伊月は数年前黒峰家から勘当されたため、現在は退魔師七代名家のどの勢力にも属してはいない。伊月同様、アサギもそれらの勢力に属さない萩原除霊事務所に勤める退魔師だった。
「いや、お前に言われても……。今にも吐きそうじゃねーか」
アサギの顔色は、今にも嘔吐しそうというより今にも転倒してしまいそうなほど、蒼白であった。これは車酔いをしたわけでもなければ、何か病気というわけでもない。彼は常時このような顔色だった。
「わ、私車酔い、し、しないほうなので……へいきです」
「そうですか」
つたたないしゃべり方や、見た目の容姿で、年齢を低く見られがちだが彼女はこれでも成人
している。つまり伊月の年上なのだが。
「あ、降りられる停留所、つ、着きますよ」
伊月の日常から退魔師という仕事を抜きにすれば、なんてことのない、普通の高校二年生の生活が待っている。
伊月は淡々と「ああ」と答えると、席を立った。
「報告は任せる。色々壊しちまったけど、涼子さんには適当に言っといて。あの人まともに確認なんてしねーから」
「え、あ、はい……」
それだけ言うと、あとは振り返りもせずにバスを降りた。
非日常から日常へと。